第2話 ボルディック・オープン

 土曜日。特に問題がなければ、僕の仕事も休みだ。そして今日は、ボルダリングジム「ボルディック」のオープンの日でもあった。

 僕自身、ボルダリングをする気はなかったのだけれど、でも昨日出会った細マッチョのお兄さんのことは気になっていた。

 誰もいないオープン前のジムで、体重が無いかのようにするするとホールドをつかんではのぼっていたあの人……。その動きが僕の脳内で何度も再生されていた。

……様子を見に行こうかな。

 昨日もらった、「ボルダリング」とレインボーカラーの文字が踊るチラシを見つめる。こう言っては難だけれど、残念なチラシだ。もしかしたら、オープンしたばかりでお客さんも全然入っていないかもしれない。そうなってたら可哀想だ。

「よし」

 時計を見たら午前十時を少し回ったところだった。営業時間は10:00〜22:00とチラシにも書いてあったし、もう開いているだろう。僕が行けば賑やかしくらいにはなるかな。……あの人は喜んでくれるかな。

 そんなことを考えながら家を出て、「ボルディック」に向かった。

「ええッ!?」

 そして驚いた。沢山のスタンドフラワーが置かれたジムの前の道路に、十人ほどのちょっとした行列ができていたのだ。

 昨日は無かったスタンドフラワー越しにガラス張りのジムを覗くと、そこにも大勢の人がいた。壁をのぼる人、順番待ちなのか立って壁を見上げる人……ざっと数えて二十人? 今並んでいる人も加えたら三十人くらいか。とにかくそのくらいの人々が集まっていた。

「さっすがニューオープンの店は人が来るなあ」

 並んでいる二人組の青年の話し声が聞こえた。彼らも細マッチョだった。

「イワオ選手がルートセットして、さらにスタッフもやるんだろ? そりゃ、人も来るって」

 イワオ選手。昨日、チラシを配っていた彼がルートセットとやらをしたと言っていた。あの人のことだろうか。有名なボルダリングの選手なんだろうか。

 並んでいるスタンドフラワーを見る。

『磐生タカシ様 ファンより』

 そんな札がピンクの花々に包まれるようにして挿されていた。ファンより……って!

 人気者、なんだなあ……。

 僕はなんだか少し、がっかりしていることに気づいた。そしてそのことにちょっと驚いた。

 もう一度ジムの中を見る。左側の壁の奥にカウンターがあって、そこにオーナーらしき長髪にヒゲの男性と、忙しそうに応対をしている磐生さん?がいた。忙しそうだけれどいい笑顔で、白い歯が見えた。

 ジムに来ている人の中には小学生くらいの子どもとお母さんらしき女性が何組か、大学生くらいの男女混合のグループが何組か、それから細マッチョのボルダリングガチ勢みたいな人たちが沢山いた。男性も女性も細身で、でも腕や脚の筋肉がすじばっていた。のぼっていない人たちは、壁の上の方を見たり、人差し指を立ててホールドを順番に指さしたりしていた。

 いいなあ。

 人々がみんな上を見ている。その光景に少し感動した。

 運動音痴の僕も、ボルダリングをしたら上を見られるようになるのだろうか。細マッチョになれたりもするだろうか。

 なんてことをちょっと考えたのだけれど、この集団の中に入っていく勇気はなかった。

 体育の授業は僕にとって「みじめ」な記憶の多いものだった。小学生の頃から、ほかのみんなのように逆上がりもできなかったし、二重跳びもできなかった。自転車も、乗れるようになるまで何度も転んだ。持久走なんかトラックを周回遅れになった。そして先にゴールしたクラスメイトたちに、走る様が不恰好だと笑われたりもした。僕は必死だったのに。

……やめよう。

 きっとボルダリングをしても、思うようにのぼれなかったり、無様に落ちたりするだけだ。

 僕は「ボルディック」に背中を向けた。


 マンションの部屋に戻る。テーブルの上に「ボルダリング」とレインボーな文字のチラシが乗っていた。冷やし担々麺の油染みも着いていた。

 チラシを二つにたたんでゴミ箱に入れ、ふうとため息をつく。

 その時不意に、スタンドフラワーのプレートが脳裏によみがえった。

『磐生タカシ様 ファンより』

 スマホを手に取る。最後にあの人のことを調べてみよう、そう思ったのかもしれない。僕は「磐生タカシ」という名前を検索した。

『磐生タカシ(22)ボルダー大会二連覇!』

 そんな記事がまず目に飛び込んだ。そこには白い歯を見せて笑う、あの人の写真もあった。二年前の記事だから、今の年齢は僕と同じ二十四歳。ああ、やっぱりすごい人だった。

 しかし、続いてヒットした記事に目を見開いた。

『磐生タカシ(23)靭帯断裂。オリンピック出場は絶望的』

 一年前の記事だった。

 靭帯断裂?

 それが大変な怪我であることは、僕にでもわかる。

 記事によると、磐生さんはロッククライミングで滑落し、膝の靭帯を断裂。手術はおこなったものの、リハビリに約一年を要するため、オリンピック出場は絶望的になったとのことだった。

「……」

 白い歯を見せて笑うあの人も、挫折をしたことがあるのだろうか。

 胸がきゅうっと傷んだ。

 僕はゴミ箱から捨てたばかりのチラシを取り出した。

 二つ折りにしたものを広げる。レインボーカラーの文字が見える。

 磐生さんにまた会いたい。じんわりとそう思った。


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