ゆるだりんぐ
高村七子
第1話 出会いはレインボー
夏になったら、やせると思っていた。
八月も下旬の夕方。僕は冷房の効いた部屋でサイダーを飲みながら、リモートワークをしていた。仕事はスーパーなどのチラシ作成。「ポテトチップス98円」「袋入りラーメン5パック298円」などの組版をするうち、丸く脂肪のついたおなかがぐぅう〜〜と音を立てた。この案件が終わったら夕飯にしよう。まだ外も暑そうだし、駅前の「天頂亭」で冷やし担々麺がいいかな。そんなことを考えていると、窓の外から「カナカナカナ……」と蝉の声が聞こえてきた。ああ、カナカナゼミ。たしか夏の終わりに鳴く蝉だ。二十四年目の夏もついにやせられなかったな。
組版を終えました。校正をお願いします。
本日の業務を終了いたします。
データを添付してチーフにメールを送り、パソコンをシャットダウンする。
部屋着兼パジャマにしている黒いTシャツとハーフパンツのまま、サンダルをはいて外に出た。
マンションのエレベーターは奥に鏡があって、太った僕の姿を映す。
生まれた時から僕は丸々と太っていて、それから二十四年間、ずっと太っていた。スポーツは全般的に苦手だし、容姿に自信がないのもあって、恋愛もまともにしたことがない。とはいえ、このままじゃ成人病コースまっしぐらだ。できればあんまりつらくない方法でダイエットしたい。そうゆるく思っていた。
日は傾いていたけれど、まだ暑かった。みるみるうちに汗をかき、Tシャツが肌に張り付く。汗をかくのは嫌いだ。ダイエットにならない夏なんか早く終わればいい。
そう思いながら駅前の「天頂亭」に向かう。暑いと歩くのもおっくうだ。どこでもドアが早く開発されればいいのに。
「明日オープンです! よろしくお願いします!」
その時、張りのある声が耳に飛び込んできた。見ると、茶髪で少し背の高い青年がチラシを配っていた。なんの店だろう。飲食店だといいけど。
チラシをうかがうように近づくと、レインボーカラーの創英角ポップ体で「ボルダリング」と書かれているのが目に入った。
ボルダリング。たしか壁をのぼるスポーツだ。
なあんだ……。がっかりした僕に、男性はチラシを差し出してきた。カーキ色のTシャツから伸ばされた腕は太くはないのにしっかりとした筋肉がついていた。細マッチョてやつだ。うらやましい。
「ボルダリング、いかがですか?」
日焼けした肌に白い歯が光る。黒い目がキラキラしていて、なかなかさわやかなイケメンだった。
「えっと……」
思わず視線を外す。「天頂亭」の隣に、ガラス張りの店ができているのに気づいた。
ガラス窓の向こう、左右と奥の壁にカラフルな大小の石が沢山付いていた。赤、青、黄色、紫に緑。レインボーカラーの真新しい石が光って見えた。きれいだ、と思った。
「明日オープンのボルダリングジムです。割引券も付いていますので、良ければどうぞ」
「ご、ごめんなさい、興味がないです!」
「そうでしたか?……店内をじっと見られていたので、てっきり興味がおありかと……」
「い、いえ、虹色の石がきれいだなあと思っていただけで」
「でしょう!!」
途端に細マッチョの顔がぐいっと近づいた。僕は少し後ろに下がる。
「このジムのホールド……あ、壁に付いている石のようなものを、ホールドって言うんです。このホールドのルートセットは俺がしたんですよ。新しい店なので、気合いを入れました!」
「は、はあ……」
「きれいと言ってもらえて、嬉しいです。ありがとうございます」
そう言って細マッチョは目を細める。ちょっと変だけど、悪い人ではないのかもしれない。
「とりあえず、チラシだけでもどうぞ」
「は、はい」
彼の強引さに思わずチラシを受け取ってしまった。その辺に捨てるのも気が咎めるし、食事しながら見ることにしよう。
僕は隣の「天頂亭」に入って、冷やし担々麺を大盛りで注文した。出来上がりを待つ間、もらったチラシを眺める。レインボーカラーの「ボルダリング」の文字の下には、中央揃えで文章が続いていた。
⭐︎初心者大歓迎!
⭐︎楽しくのぼろう!
⭐︎ダイエットにも効果あり!
その下にはネットから拾ってきたらしい解像度の低いボルダリングのイラストがあって、さらに四角い図形に囲まれた「初回500円引き」のクーポンもあった。あとは価格と、「ボルダリングジム ボルディック」という店名と、営業時間と、住所と電話番号とメールアドレス。全てが中央揃えだった。
一応は僕もチラシを作る身。僕なら「ボルディック」のチラシをどうするかを考えながら、大盛りの冷やし担々麺を食べた。麺を勢いよくすすったら、タレが跳ねてチラシに油染みを作った。
食べ終わって「天頂亭」を出たら、すっかりと日が暮れていた。さっきの細マッチョはもう道路にはおらず、ガラス張りの「ボルディック」から明るい光がアスファルトに落ちていた。
「ボルディック」の店内に目をやる。
奥の方にかなり斜めになった壁があった。それに取り付けられたカラフルなホールドを、カーキ色のTシャツの青年が軽い動きでつかんでのぼっていた。足はほとんど宙にある。細マッチョの長い手足が振り子のように動く。すいすいと、まるで体重がないかのように彼は移動し、そして天井に近い位置のホールドを両手でつかんだ。
きれいだ、と思った。
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