夢織りの港町

@_k_a_i

プロローグ 最初の訪問

 桃ナギが島に降り立ったのは、曇天の昼下がりだった。フェリーを下りた瞬間、潮のにおいが鼻腔をやわらかく刺激したが、それは新鮮というよりも、どこか古びた記憶を揺さぶるような匂いだった。港町は、かつて活気を孕んでいたであろう古い木造の倉庫や、半ば崩れかけた波止場の柵など、薄いフィルムのような寂しさに包まれている。人影はまばらで、タイル張りの路地には、打ち捨てられた自転車や、色あせた看板が斜めに傾いていた。

 彼女はまだ自分の棲み処を見つけてはいなかった。荷物はリュック一つ、島の安宿に腰を落ち着けるまでは、この沈黙を孕んだ町を素足で踏みしめるような気分で歩く。安定しない空気、少しぬるく、何かを孕みながら休んでいるような港町。ねじ巻きの音が風の裏側から微かに聞こえそうな、静かでありながら流動的な気配があった。


 その翌日、桃ナギは島を少し探索しようと思い立った。午前の光は淡く、どこか半透明の膜を通して射しているような質感を帯びていた。彼女は港から少し奥に入ったところにあると聞いた小さなカフェを目指す。地元で話を聞けば、そこは「南方から流れ着いた男が営む店」らしい。

 砂利道を進むと、やがて濃い緑に包まれた小屋が見えてきた。それはカフェというより、軽食堂と温室が結婚したような不思議な建物だった。扉を開けると、熱帯性のつややかな葉を茂らせた観葉植物が彼女を出迎える。板張りの床には椅子がまばらに配置され、古いジャズが小さく流れている。カウンターの奥から現れた男は、痩せ型で、白いシャツの袖をまくり上げていた。

「ココアを一杯いただけますか?」と桃ナギが言うと、男は微笑んだ。「よくこの島に来たね」と言わんばかりの、穏やかな目だった。その声には詩行の端々が残っているかのようで、彼女の胸の内で小さな振動が起こる。

 男はまるで熱帯雨林の奥から引き寄せたカカオ豆でも使うかのような手つきで、ココアを淹れる。カップが目の前に置かれると、彼はぽつりと尋ねた。「君はどこから来たんだろうね?」

「どこから、というより、どこへ向かっているのか、私にもわからないんです。」と桃ナギは応じる。

「いいじゃないか、答えを持たずにいるのは。詩を書くとき、僕は空白を愛するよ。空白の中で人は溶け合う。」

 男はかつて詩人だったと噂で聞いていた。彼は言葉を置くたびに、小さな揺らぎがカフェの空気を満たした。桃ナギはその揺らぎの中で、ココアの熱さを舌で転がし、遠い南の響きのような男の言葉を聴いていた。


 店を出る頃には、空は薄青を帯びていた。帰り道、桃ナギはほのかに甘い葉擦れの音に誘われて、人通りの少ない裏道へと足を踏み入れた。そこには南国植物が繁茂し、小道はいつしか熱帯の森のような空気を帯びている。湿った土と絡みつくような蔦、見たこともない大ぶりの花弁が、静かに揺れていた。

 ひょい、と足元で何かが動いた。子犬だ。白くて小さな犬が、道端から彼女を見上げている。その犬は、ふいに口を開いた。

「私は哲学の犬だ。」

 桃ナギは驚いて立ち尽くす。犬はまるで人間のように言葉を紡ぎ、それらは断片的で意味を構成しないようにも思えた。

「問いは答えを求めず、答えは問いを通り抜ける。ただし、哀しみには毛穴がある。そこから光が漏れる。」

 犬はそんな不可解なフレーズを綴り、首をかしげる。どこかで聞いたような、しかし何処にも属さぬ論理が彼女の耳にしみ込み、まるで体内に小さな音叉を打ち込まれたような感覚がした。


 やがて犬は「あくび」をし、小さな丸い体を丸めて眠りに落ちた。それに誘われるように桃ナギ自身も瞼が重くなっていく。彼女は草むらに腰を下ろし、遠くから聞こえる鳥のさえずりや、ありもしない波の音をぼんやり聴きながら、意識を手放した。


 再び目覚めたとき、彼女は港に立っていた。さっきまでいた南国の森は跡形もない。擦り切れた古い杭と、微かに錆びた金属音を響かせる漁具が、灰色の光を浴びている。まるで最初に歩いた時間の一幕に戻ったかのようだ。


 翌朝、彼女は再びカフェを訪れ、男と南国植物の合間でココアを啜った。男は彼女にこう語った。

「君は昨日、森へ迷い込んだろう?あれは僕にも時々見えるんだ。そこには哲学の犬がいると言う人もいるね。」

 桃ナギは静かに微笑んだ。

「その犬は、正直何を言っているかさっぱりわからなかった。でも、まるで自分の内側に別の小さな部屋が現れたみたいなの。」

 男は椅子に腰掛けて、宙に視線を漂わせる。

「わからないことは、わからないまま残していい。でも君はそのわからなさの中で、何かを手に入れたはずだ。言葉にならない、一杯のココアのように濃く、深い感覚をね。」

 彼女はカップの底に残るわずかなココアを見つめる。その液体は小さな卵のような、あるいは乾いた貝殻のような、正体不明の記憶を孕んでいた。

 哲学の犬や詩人上がりの男、寂れた港と、不意に現れた南国の森。どれもが確固たる意味を持たないまま、彼女の心の中で静かに浮遊している。けれど、その浮遊が自分自身を映し出しているようにも感じた。透明な問いかけ、名づけられない再生の予感、空白の詩行。


 外に出ると、午後の光は再び薄青く、どこかに開いた小さな裂け目から、彼女は見えない風を感じる。孤独とココアを愛する自分自身が、ここにいることの意味を、問いのまま抱いていく。それは決して解けない謎かもしれないが、その謎は、南方の森の葉陰と、犬の言葉の残響、そして詩人の男が注いでくれたココアに支えられ、不思議に心地よい重みを持っていた。

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