第1話 島のほころび

 桃ナギが島に降り立ったのは、薄い雲が空一面にかかった、昼下がりに近い時間帯だった。フェリーを下りる際、桟橋で彼女の足音を出迎えたのは、誰とも知れない影法師たちの沈黙だった。港町は相変わらず寂れている。古い木材で組まれた倉庫はその角がじわじわと腐蝕し、ペンキの剥げ落ちた看板は解読不可能な文字をさらしている。かつて人々が行き交ったであろう舗道も、砂や風で薄く曇り、過去の喧騒を想起させる形跡さえ弱々しく滲ませていた。


 彼女はリュック一つを肩にかけ、潮の湿った匂いを胸一杯に吸い込んだ。これで何度目の島巡りだろう。いや、思い出せない。まるでこの島が彼女にとって、はるか前の夢から抜け出せない迷路になっているかのようだった。


「久しぶりですね、桃ナギさん。」


 不意に声がかかった。見ると、港の裏手にある路地の狭間から、小さな白い犬が顔を出している。哲学の犬だ。耳がたれていて、瞳の光はどこか深い水底のようだ。前回会ったときと同じように、犬はゆっくりと尻尾を振るでもなく、ただじっと彼女を見ていた。


「また来ちゃったの、私?」と桃ナギは犬に向けて声をかける。

 犬は首をかしげる。「来ること、去ること、それぞれに意味はない。君が在る、それで充分さ。ただし、この島はほころび始めている。」

「ほころび?」

「問いを抱くとき、人は大抵ほころびを感じる。糸が解け、織物がほつれ、何かが透けて見える。その透けた向こうにあるものが、君を呼んでいるんだろうね。」


 相変わらず、哲学の犬の言葉は曖昧で捉えどころがない。桃ナギは肩をすくめ、荷物を背負い直すと、前回訪れた小さなカフェへ足を向けた。カフェは港から少し内陸に入った場所にある。石畳と茂みを抜けると、そこには南国性の植物がわさわさと生い茂る妙な建物が待っている。


 扉を開けると、カウンター越しに痩せた男が笑顔を浮かべていた。白いシャツを腕まくりした、元詩人のカフェマスターだ。彼の店は、木漏れ日みたいな小さなランプがいくつも灯り、観葉植物の葉先に柔らかな光が揺れている。ゆるやかな音楽が流れ、静けさと温もりが共存していた。


「お帰り、桃ナギさん。」カフェマスターが言う。「ココアがいいかな?」

「ええ、お願い。」

 彼女が椅子に腰掛けると、カフェマスターは小さな窓を開け、どこからか漂う甘い香りを室内に招き入れた。彼は棚からカカオの粉を丁寧に取り、ミルクを温める。手際はまるで詩行を紡ぐようであり、彼女はそれを眺めながら言葉の切れ端を探す。


「ねえ、最近、この島は変わったかしら?」桃ナギが問うと、マスターはふっと笑った。

「島は常に変わっているさ。僕らが知らないところで、糸が解け、言葉が湧く。あの犬は何か言ってた?」

「ほころびがあるって。」

「なるほどね。ほころびがあれば、そこから光が漏れる。あるいは記憶が流れ出すかも。」


 ココアがカップに満たされ、桃ナギはスプーンで表面を軽くなぞる。泡立ちの中に、微小な渦がきらめいたように見えた。彼女はそっと一口飲む。その甘さが舌先に溶けると同時に、遠くで何かが軋む音がした。


 カフェのドアが勝手に開く。入ってきたのは長衣をまとった小さな影だ。人かと思えば、半透明な形をしており、その頭には獣の耳がぴんと立っている。目元はヴェールで隠されている。

「エフェメリカ公女の使い」と名乗る少女が、室内の空気をひゅっと冷やした。

「桃ナギ様、あなたに告ぐ。公女はあなたを気にかけておられる。遠からず、任務が下るであろう。」

 桃ナギは眉をひそめる。「任務? 突然何を…」

 だが使いは答えず、植物の陰影の中へとするすると溶け込むように消えてしまう。まるで現実と幻の境界がほつれ、そこから奇妙な存在が顔を出しては引っ込むような光景だった。


 カフェマスターが苦笑する。「説明のないことが多い場所だろう? ここは他人の夢の中かもしれないし、君自身の過去が彩る虚構かもしれない。」

「まるで詩ね。」桃ナギはカップを両手で包む。「けれど、私は何をすればいいのかしら。」

「答えはすぐに見つかるものじゃない。ココアを飲み、犬の言葉に耳を澄ませ、森へ踏み入るかもしれない。そして公女とやらが提示する『任務』とやらに向き合うこともあるだろう。」


 哲学の犬がいつの間にかカフェの入り口にちょこんと座っていた。

「問いは、光が漏れる小さな穴だ」と犬は言う。「ほころびを縫い合わせることは、必ずしも良いことではないかもしれないよ。ほつれ目から覗けば、他人の夢が見えるからね。君はその夢を旅する、ただそれだけで充分かもしれない。」

 桃ナギは息をつき、犬に目を遣る。「私は、またここへ戻ってきた。何かを探してるのに、思い出せないの。」

 犬は答えない。ただ、床板のうす暗い木目を見つめている。


 カフェマスターが一枚の古びた紙切れを取り出して桃ナギに差し出す。そこには見慣れない文字と、島の不完全な地図が描かれていた。

「これを持っていくといい。南へ行けば鬱蒼とした森がある。それと地下に降りる階段が、港の倉庫裏にあるらしいんだ。博士が何やら新しい装置をいじっているとか。巨人について囁く者もいる。何もかも不確かな断片だが、君が歩けば、また何か見えてくる。」

「巨人? また奇妙な話が出てきたわね。」桃ナギは微笑むが、その笑みは困惑で揺れている。


 彼女はココアを飲み干し、カフェを出た。港へ戻る途中、空を見上げると、薄い雲は微かに裂け、その隙間から光がこぼれていた。海鳥の鳴き声が遠くで反響する中、哲学の犬は背後で小さくくしゃみをしたような気がする。


「島のほころび」という犬の言葉が耳に残る。公女の使いが告げた任務は何なのか、この島は誰の夢なのか、自分は何を失い、何を探しにここへ来たのか。答えはまだ遠い。しかし、桃ナギは足元の砂利道を踏みしめた。ほころびは光を透かし、問いはやがて新たな道を開くかもしれない。


 こうして、彼女は再びこの不可思議な島の旅を始める。

 ここからすべてが奇妙に、淡く、ずれながら進んでいくのかもしれない。

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