1章-2 夢見る乙女
「そういえばすぐファミレス来ちゃったけど楠木くんゲーセンに用あったんじゃない?大丈夫?」
「ただの暇つぶしだったから大丈夫だよ。透花ちゃんこそなんの用だったの?」
「私も暇つぶしだよ」
私達はあの後ファミレスに来ていた。私はオムライスを、楠木くんはとんかつを頼んでいた。メニューが豊富だけど味はそんなになのかなと思っていたが、全然そんな事無かった。口の中で卵がとろけて最高。気持ち的には何皿でも食べれそうなくらい美味しい。こんな所来る機会なんてあんまり無いからこんなに良い場所だとは知らなかった。
……まぁ楠木くんと一緒に食べてるから特別美味しく感じるって言うのもあるだろうけど!
「……透花ちゃん今日はご機嫌だね」
「そうかな。楠木くんといるからかも」
楠木くんは少し目を見開いた。私何か変な事言ったかな。
「透花ちゃんは俺といると楽しいんだ?嬉しいな」
「うん、楽しいよ。……楠木くんは?私といて楽しい?」
「楽しいよ」
あの笑顔が私に向けられている。それだけで十分すぎるくらい幸せだった。さっきまでの悲哀がみたいだ。そして何故か彼の目は私の中全て見透かしているのように見えて恥ずかしい。でも見て欲しい。
「良かった。私って普段楠木くんの周りにいる人達と違うからちょっと不安だったの」
「あー確かに俺が普段一緒にいる奴らは結構うるさい奴ばっかりかも。まぁ俺がこんなんだから透花ちゃんみたいな子は近寄ってきてくれないんだろうけど」
「私は違うよ」
私だけで良い。楠木くんの周りにいる人全員居なくなればいいのに。楠木くんだって私といる方が楽しいに決まってる。あんな平凡なくせに声と態度だけ大きくてつまらない人生しか送れない人達なんかと一緒に居たって何も生まれない。楠木くんが可哀想だ。
「そうだね。ていうか透花ちゃん大学でも俺の事見てくれてたんだ。話しかけてくれればいいのに」
「話しかけていいの?」
「もちろん」
嬉しい。でも本音を言うなら楠木くんから話しかけて欲しい。これは我儘だろうか。
「……一つ聞いてみたいことあるんだけど、いい?」
「うん。なんでも聞いて!」
楠木くんが知りたい事は全部教えてあげる。私の事もっと知って、もっと好きになってもらいたい。
「ありがとう。透花ちゃんはなんで学校でもロリータ服着てるの?休みの日とかだけじゃ駄目なの?」
楠木くんの雰囲気がさっきまでとは少し変わって真摯な態度になっていた。私も彼に答えるように真面目に話す。
「毎日着るから意味があるんだよ」
「へぇどんな意味?」
「お姫様になれる」
「……本気?」
「本気だよ。だってお姫様は毎日ドレスを着てるでしょ?私も大好きな服を着てお姫様になりきってるんだよ。一日でも服装を変えたら魔法がとけちゃいそうだし」
これは私の美学だ。もしかしたら他の人には理解できないのかもしれないけど、楠木くんには知って欲しかった。
「魔法でお姫様になってるの?」
「だって本当は私普通の人間だし。それに魔法にかかってお姫様になってるって設定の方が夢があって素敵」
「なるほどね。でもどうしてお姫様になりたいの?」
「お姫様って可憐で可愛いのに芯が強くて勇気があるでしょ」
「そういうイメージはあるね」
「私もそんな風になりたいの。そして……誰よりも幸せになりたい」
誰にも負けてはいけない。
「誰よりも?」
「誰よりも。世界で一番私が幸せだって思えるようになりたい。だから脇役なんかじゃ満足出来ないの。主役じゃなきゃ、お姫様じゃなきゃ生きてる意味なんてないよ」
私は表舞台に立っていたい。そしてお姫様になって王子様に幸せにしてもらいたい。だって王子様に選んでもらえるのはお姫様だけだから。
……さすがにそこまで言うのはやめた。自分の口からいきなり王子様に私を選んでと言うのはナンセンスすぎるし、私は彼の意思で選ばれたい。
「誰よりも幸せに、か。それが透花ちゃんなんだね」
「うん。それが私」
楠木くんはこちらを真っ直ぐ見つめてくれる。
「教えてくれてありがとう」
「どういたしまして!……もし、良かったら楠木くんの事も教えて欲しいな?」
私はこんなに楠木くんの事が好きなのに楠木くんの事をあまり知らない。私だって楠木くんの事を知りたい。どんな些細なことでもいい。私の中の楠木くんをより鮮明にしたい。
「何を教えて欲しいの?」
「うーん。好きな食べ物は?」
「揚げ物かな。唐揚げとかとんかつとか。あ、あとエビフライ」
「揚げ物か……覚えた!」
今日からなるべく揚げ物を作るようにしよう。楠木くんに手料理を振る舞う事になった時にとびきり美味しいのを食べさせてあげたい。
「覚える程の事じゃないよ」
「私にとっては大事なの!じゃあ次、好きな色は?」
「色?色かぁ」
「私はピンク。あ、でも水色も白も好き。いや黒も好きかな。あと紫も!」
「透花ちゃんは好きなものが沢山あっていいね」
「楠木くんは沢山無いの?」
「俺にはないかな」
楠木くんは相変わらずかっこよくて何を考えているのか分からない。でも、彼に好きなものが沢山ある必要なんて無い。私の事さえ好きでいてくれればあとのものなんてどうでもいい。
「だから透花ちゃんが羨ましいよ。自分の信念があって、好きなものが沢山ある」
楠木くんは独り言のように言った。
どうして楠木くんが私を羨ましがるのか理解出来なかった。楠木くんは完璧で私なんかとは程遠い人間だ。羨ましがってもらえるようなものでは無いのに。
私は返事が出来なかった。でも楠木くんの反応を見るに、彼も私からの返事を求めていなかった。
「ここまででいいよ」
またあっという間に終わってしまった。名残惜しいけど引き止める訳にはいかない。私は引き止められる側だから。
「透花ちゃん」
「どうしたの?」
私は心を落ち着かせながら彼に目線を合わせた。何を言われてもいいように。突然ここで私に愛を告げてもおかしくなんてないのだ。
「連絡先交換しない?透花ちゃんクラスのグループ入ってないよね?」
「する!し、入ってない!というかあるのも知らなかった」
楠木くんのアイコンは犬の写真だった。白くてもこもこで可愛い。トイプードルかな。
「入る?」
「いやいいよ」
楠木くん以外の通知なんて要らないし。
「分かった。じゃあ、またね」
「うん!また学校で!」
これで私達はいつでも言葉を交わせるし会うことだってできる。寂しがる必要なんてない。それに離れてる時間があるからこそ二人が一緒になれた時の喜びが増えるんだ。おとぎ話の中でも最初からお姫様と王子様が結ばれてる話なんて無い。困難を乗り越えてこそ幸せに辿り着ける。この時間が私達の愛をより強固なものにしてくれるから。
家に帰ってきてスマホを確認すると楠木くんからメッセージが届いていた。
『今日はありがとう』
『透花ちゃんが良かったら今度の日曜日もどこか行かない?』
私は既読をつけてすぐに返事をする。
『行きたい!』
『行きたい場所はある?』
『楠木くんが決めていいよ』
『カラオケとかは?透花ちゃん綺麗な声してるし歌聞いてみたいな』
『いいね でも歌うことなんてそんなに無いからあんまり期待しないでね』
『はーい じゃあ決まりね』
次がある。もうこれからは奇跡に期待する必要なんてないのだ。私と彼はいつでも連絡を取れていつでも会うことが出来る。ああ、幸せだ。
日曜日までの時間はいつもより長く感じた。楽しみすぎて家の中をぐるぐる歩き回ったり、楠木くんの好きなエビフライを作ったりした。普段はあまり料理をしないため、私に揚げ物はハードルが高かった。どのくらい揚げれば良いのか分からないし、油がはねて周りがベトベトになってしまった。完成したエビフライも焦げて真っ黒になっていた。味はやっぱり苦かったが、私は幸せだった。楠木くんの存在が私を支えてくれてる。彼が居れば私は幸せになれる。
「遅くなってごめんなさい」
待ちに待った約束の日だと言うのに私はあろう事か遅刻してしまった。今日に限って髪が上手く纏まらず、巻くのに苦戦してしまった。
「いいよ。俺も今来たところ」
楠木くんの私服はジーパンにTシャツという普通の服装だ。でも彼が着るだけでそれは貴族の服のようになる。何が言いたいのかと言うと楠木くんは王子様だということだ。
彼は前と同じように私の手をとって歩き出す。まるで恋人同士みたいだ。あれ、私達はどうして恋人じゃないんだろう。こんなに相思相愛なのに。
カラオケに来た記憶は小学生の頃家族に連れられてきた思い出しかない。受付の仕方もカラオケの仕組みも調べては来たものの実際に来ると頭から吹き飛んでしまった。でも店員さんの対応は全部楠木くんがしてくれて、私は彼について行くだけで良かった。かっこいいと思う半面、他の人と沢山来て慣れてるんだと思うと複雑だった。
部屋は個室で、二人用だから狭かった。必然的に楠木くんとの距離が近くなり心臓が苦しい。
「どっちが先に歌う?」
「楠木くんが先に歌っていいよ」
「りょーかい」
今流行りの曲は調べてきたけど上手く歌える自信が無い。それにどのくらいの真剣さで歌えばいいのかも分からない。真面目に歌うものなのかそれともふざけながら少し手を抜いて歌うのが正解なのか。
楠木くんが選んだ曲は今一番人気の曲だった。有名なドラマの主題歌らしい。それにしても楠木くんの歌はとても上手くて、声までも人を虜にさせる魅力があるのかと感嘆してしまった。といっても歌手並に上手いという訳ではなく、適当に歌っている訳でもなく、なんというか丁度良い塩梅なのだ。そういう加減が楠木くんは誰よりも優れていると私は思う。
「次、透花ちゃんの番だよ」
気づけば楠木くんの歌は終わっていて私は慌てて曲を入れる。画面が切り替わる前に見えたのは九十二点という文字。それがここにおいては高い方なのか低い方なのかは分からないけど多分、高い。
私が入れた曲も今二番目に人気な曲だった。人気曲なら外しはしないだろうという安直な考えだ。
曲が流れ始めて、私は意を決して歌った。よく考えると私がふざけて歌ったら人に聞かせられるものでは無くなりそうなので真剣に歌った。それでも採点のバーは上がったり下がったり途切れたりしてぐちゃぐちゃだった。歌うのに必死で自分の声はあまり聞けていないけど多分酷いものだろうな。それでも私は自分が世界一の美声だと信じて、世界一の歌手になりきって歌う。そう思えば、そうなるのだ。
そして遂に私は全部歌いきった。物凄い達成感だ。点数は……六十三点。これは間違いなく低い方の点数だろう。
「やっぱり綺麗だね。透花ちゃんの声」
楠木くんはそう言って肘を机について私の方を見ていた。
「歌、下手だったでしょ」
「そんな事無いよ」
「嘘。だって六十三点だった!」
「あんなの機械が勝手に言ってるだけだよ。俺は透花ちゃんの歌、好きだよ」
楠木くんが好きならいいか。楠木くんは私の全部を好きでいてくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして。何か食べる?はい、これメニュー」
「あ、私ポテト食べたい!」
「俺も。大きいサイズ頼んで一緒に食べよっか」
なるほど。そういう方法があるのか。
……いつも別の人達とそうやって食べてるのかな。どうしようも無いことだと分かっていてもモヤモヤする。
「どうかした?」
黙り込んでしまった私に楠木くんが話しかける。
「楠木くん、」
私は楠木くんにとってどんな存在?一緒にここに来た事がある他の人達よりも大切?大切ならもうその人達とは会わないで。私だけと遊ぼう。その方がお互いにとって良いよね?何の不安も無くただ幸せだけを感じられるよ。
中々言葉を発さない私を黙って楠木くんは待っててくれる。
「私、楠木くんが好きだよ」
「俺も好きだよ」
間髪入れずに楠木くんが答えた。まるで私が言う事を事前に分かっていたかのように。だけど私はその後なんと言うか考えるのを失念していた。私があたふたしている間に楠木くんはタブレットを取って操作をしている。今、それどころでは無いのに。
「ポテト頼んでおいたよ。来るまで何か歌って待っていようか」
そう言って楠木くんは曲を入れた。それは今三番目に人気の曲だった。
その後は歌ったり食べたりしてまた家の近くまで送ってもらった。その間、好きだと言った事については何も触れなかった。まるで無かったことにでもなったみたいだ。
忘れかけてたが、楠木くんには彼女がいる。だから体裁上私と付き合うことは出来ない。その前に彼女と別れる必要がある。楠木くんは私の事が好きだから別れる事自体は嫌では無いだろう。でも彼女が嫌がる可能性が高い。楠木くんみたいな彼氏なんて何が何でも別れたくないだろう。
私はそこで一つ作戦を思いついた。それは私にとって容易なものでは無いけれど、楠木くんの為、私達が幸せになる為だ。
今日の髪型はツインテールにした。毛先も少し巻いて、黒いリボンが編み込まれてるヘッドドレスをつけた。服も黒い。いつも白やピンクの甘めなロリータを着ることが多いが、今日はゴスロリにした。ああ、これも可愛い。
私はいつもより時間をかけて身だしなみを整えた。なぜなら今日は不戦勝ではなく、自ら戦いに挑むからだ。普段の武装じゃ足りない。もっと固く、絶対に傷がつかないようにしないと。
一度やられてしまえば、終わってしまう。
「よし」
わざわざ声に出して言った。今日の私はいける。怖い事なんて、何も無い。
外は私のやる気に反して雨だった。雨自体は嫌いじゃないし寧ろ好きな方だけど、今は出来れば晴れてて欲しかった。せっかくセットした髪が湿気でうねってしまうのが最悪。それに雨は失敗のイメージがある。一ミリでも負けてしまった時の事なんて考えたくない。
戦場に着くまでの道がいつもより長く感じた。いつもは絶対に関わらない人達だから何も考えずただ横を通り過ぎるだけで良いけど、今日はそういうわけにはいかない。私はこれからこの人達に関わろうとしている。私一人じゃ絶対にありえないことだったが、今は楠木くんがいる。彼の為なら私はなんだって出来る。いや、やって見せる。この愛は本物だから。
教室のドアを開ける。そしてそのまま前の方の席にいる楠木くんの元へ行く。……行こうと、した。
私の足は動いてくれなかった。どうして。目の前に彼がいるのに。動け、動け。なんで、なんで!
私の想いと裏腹に私の厚底の靴はコツコツと重い音を鳴らしていつもの席へと向かい、そこに座った。私は何も出来なかった。
チャイムが鳴り、授業が始まる。私は楠木くんの方を見れなかった。気を緩めたら泣いてしまいそうで、ずっと前を向いていた。こんな事も出来ない自分が情けない。でも、怖いんだ。あの場所に行って傷つくのが、あの人達に傷つけられるのが怖い。いつまで経ってもやっぱり私は私のままで何も変わっていなかった。お姫様になんてなれていなかった。
その後別の授業が入っていたけど帰った。ここにこれ以上居るのは耐えられない。これは自分の為だ。もう苦しいのは嫌だから。
家に着いてすぐベッドに潜り込んだ。ここまで入り込んでくる人なんていない。ここは私だけの安地。幸せだけが存在する空間。私は手元にあるシュガーちゃんを抱きしめる。これに触れていると楠木くんに触れているみたいでドキドキする。でも落ち着く。
このまま眠っても悪い夢を見そうで私はスマホでよく聞くクラッシックの音楽をかけた。心地よいバイオリンの音を聞いていると、なんだか今日の出来事が全部嘘のように思えてくる。今日の出来事と言ってもただ私が勝手に苦しんでただけだけど。そのまま私は眠りについた。このまま永遠に眠っていたかった。
悲しい事に私は3時間ほどで目が覚めた。お昼から寝てしまったから気持ちが悪い。少し吐き気がするし頭痛もする。私は台所まで行ってコップに水を注いで飲んだ。何回飲んでも吐き気は消えてくれない。
何もする気が起きなくて私はまた布団に戻る。そしてスマホを開くと通知がきてることに気づいた。……楠木くんだ。
『今日具合悪そうだったけど大丈夫?』
楠木くんは今日私の事を見ていてくれたんだ。嬉しい、嬉しいのに喜べない。今日の私はダメダメだった。お姫様なんかじゃなかった。ただの意気地無しだ。
すぐに返信しようとして、やめた。せっかく心配してくれてるんだしもう少し私の事を考えててもらおう。そう思ったら少しだけ元気が出てきた。楠木くんが私の事を考えている。なら、今日大学に行った意味はきっとあったんだ。そうに違いない。私はまた眠りについた。今度は三十分しか眠れなかった。
夜になって私はやっと楠木くんに返信した。
『大丈夫!ちょっと寝不足だっただけ』
実際寝不足ではあったから嘘はついていない。
『そっか、最近課題多いしね』
『うん、多い』
正直課題のせいでは無いけど楠木くんが言うならそういう事にしておいた方が良い。
『力になれるかわかんないけど何か困ってるとことかあったら聞いてね』
『ありがとう!勉強苦手だから聞くかも』
楠木くんと言葉を交わすだけで幸せだ。私は一人じゃない。
『じゃあ今日はちゃんと寝てね おやすみ』
『うん!おやすみ』
「おやすみ」
文字でも打ったけど、声にも出した。最悪だった一日が楠木くんによって上書きされる。
それでも明日また大学に行くのが怖い。武装をしても駄目だったし、もうこれ以上どうすればいいのか分からない。今まで通り誰とも関わらずにいればいいのかな。そうすれば傷つかずに済む、はず。
昼間に寝すぎたせいで全然眠れそうにないけど私は目を瞑った。楠木くんにちゃんと寝てねと言われてしまったし、おやすみと言い合った。だったらもう寝るしかない。私にはそれしか選択肢なんて無いんだから。
案の定私は全然眠れなかったが、色々空想している内に気づけば眠りについていた。もちろん考えていたのは楠木くんの事。楠木くんと私の結婚式について考えていた。沢山の人に囲まれながらフラワーシャワーを浴びて幸せそうに笑う二人。そんな未来があるなら今は頑張るしかない。それに向けてただ、生き続けなきゃいけない。
朝になった。アラームが警報のように鳴り響く。そんなに大きな音出さなくても分かってるのに。
私はロリータを着た。これだけは辞める訳にはいかない。やめてしまえば、それこそ私は壊れてしまう。本当に、お姫様では無くなってしまう。
今日は晴れていた。昨日じゃなくて今日雨が降っていて欲しかった。今の私にこの眩しさは辛い。
それでも私はゆっくりと歩みを進める。何も見ないように、何も聞こえないふりをして。そうすればつつがなく一日を終えることが出来る。
気づいた時には私はもう席に着いていた。今日はまだ楠木くんは来ていない。サボりかな。私は正直ほっとした。今の状態で楠木くんと会ってもまともに話を出来る自信がない。楠木くんと話す時はちゃんとお姫様の私でいたいから、今のなんでもない私なんかじゃ彼の隣には立てない。
……それによく考えたら学校で話さなくたっていいんじゃないか。皆に秘密で関係を築いているというのもロマンチックで素敵だし。うん、それがいい。
そう思うと心がすっと軽くなった気がした。別に逃げた訳では無い。考え方を変えてより良いものにしただけだ。
だから今はただ時間が過ぎるのを待つ。楠木くんの居ないこの場所になんて用は無いから。早く帰って幸せな空間に戻りたい。そうだ、今日は私から楠木くんにメッセージを送ってみようか。なんて考えていたから私は周りを何も見ていなかった。
「おはよう」
その声が聞こえた瞬間私はつい振り向いてしまった。会いたくてたまらないはずなのに今一番会いたくない人がそこに居た。
「隣座っていい?」
私は何とか頷く。楠木くんはにこっと笑って私の隣の席に腰をかける。休みかと思って油断していたけど遅刻してきたのか。どうしよう、まだ心の準備が出来ていない。
「実は今日寝坊しちゃってさ。授業始まる時間に間に合わないだろうし行かなくていいかなーって思ってたんだけど……透花ちゃんのこと気になってさ。昨日はよく眠れた?」
こちらの様子を伺うような瞳に私は何と答えるのが正解なのか分からなかった。だってここは戦場なのだ。気を抜く訳にはいかないけど、相手は楠木くんだ。
「う、うん。よく、眠れました」
私の言葉がたどたどしくなってるのが自分でもよく分かった。口の中が乾いて張り付く感じがする。身体中から変な汗がでて体温が上がる。楠木くんの事を見れない。
「そっか。良かった」
今、彼はどんな顔をしてるんだろうか。私に失望してるのか、それとも嘲笑っているのか。前会った時と今の私の違いは歴然だから、何も思わないという事は無いだろう。
目に涙が溜まり、とっさに私は俯いて瞬きをする。怖い、苦しい、逃げたい。今すぐ幸せが欲しい。この苦痛から解放されたい。
でも授業は始まってからまだ十五分しか経っていない。
「透花ちゃん?どうしたの」
そのどうしたのはどういう意味の言葉なんだろう。
「ごめん、なんでもない、から」
「まだ体調悪いんじゃない?大丈夫?」
「大丈夫だから、なんにも、何ともないから。気にしないで」
言葉を紡ぐのに必死で頭が回らない。もっと考える時間さえあれば完璧な返事が出来るはずなのに。
自分の膝に水滴が落ちる。もう楠木くんの方は絶対に見れない。
「透花ちゃん」
「ごめ、ごめんな、さい。私のことは、放っておいて、ください。」
その後も楠木くんが何か言っている気がしたけど私の耳には何も入ってこなかった。私は授業が終わるまでずっと自分の膝を見ていた。だんだん首が痛くなってきたけどそのまま下を向いていた。
チャイムが鳴って私は机の上の物を鞄に流し込むように押し込んで席を立ち、走った。スカートが長くて走りずらい。その上体力も無いからすぐに息切れしてしまう。でも立ち止まったら周りの人の声が、私を蔑む声が聞こえてしまう。
私は自分の出せる全速力で走り続け昇降口へ向かう。そしてあと数歩で外に出れる時。
「待って!」
その言葉で足が止まる。私に誰かの声を無視する勇気なんて無い。
「ロリー……夢城さん!これ、落としたよ」
聞き覚えのある声に恐る恐る振り向くとそこにはよく楠木くんと一緒にいる女の人がいた。手には私が鞄に付けていたシュガーちゃんのぬいぐるみがある。
動かない私を見てその人は怪訝な顔をするだろうと思いきや眉を少し下げて申し訳なさそうな顔をした。
「教室を出ていく時に落としたから追いかけて来たんだけど……ごめん急いでたよね」
そしてその人はシュガーちゃんのぬいぐるみを私の目の前に差し出した。でもなんて言ったらいいのか分からない。怖い。
「このぬいぐるみ可愛いよね。私も好きなんだ」
それを聞いた瞬間、私はもう駄目だった。駄目に、なった。
「う、うっ、ひっ」
泣いても泣いても涙が止まらない。髪はぐちゃぐちゃだし服も着替えずにベッドに入っている。
「うえ、え、うっうっ」
ここは私だけの幸せな空間なはずなのに全然私の事を癒してくれない。こんな幸せじゃ足りなさすぎる。
「あ、あぁぁ、」
もっと幸せが欲しい。苦しい事ばっかりなんて嫌だ。こんな思いをしてまで生きていたくない。苦しい、苦しい、苦しい、苦しい。
息が上手くできない。もう酸素なんて吸いたくないのに体は勝手に酸素を求めて呼吸をする。
私ってなんで生きてるんだろう。まともに生きたいだけなのに。幸せになりたいだけなのに。
私の行動全てが誰かの迷惑になって、誰かを不幸にする。
やっと上手く生きれるようになってきたと思っていた矢先これだ。私は生きることに向いてない。
シュガーちゃんを拾ってくれたあの人は多分楠木くんの彼女だ。私なんかよりずっと可愛くて、優しくて、自立してて、素敵で、楠木くんにお似合いだ。どうして私なんかがあの人に勝てるなんて思ったんだろうか。ぬいぐるみを渡そうとしてくれたあの時、私の顔を見てどう思ったんだろう。ああ、無理だ。もう大学には行けない。楠木くんにも、会えない。……出来ることなら全部やり直したい。何が起こるかさえ分かっていれば上手くやれるはずだから。だからお願いします神様。もう一度だけチャンスをください。なんでもしますから、お願いします。
またあの頃みたいに生きるのなんて嫌なんです。私は一番幸せになりたいだけなんです。幸せだけを浴びて生きていたいんです。もう十分私は苦しみました。あとの人生は幸せだけをください。どうか、どうかお願い、します。
それから一週間私は外に出なかった。スマホも見なかった。ご飯は家にあったインスタント食品だけで済ませて、お風呂もシャワーだけ浴びた。それ以外の時間はずっとベッドの上で横になっていた。本当に私はどうして生きているんだろう。
もう二度と外に出たくないのに、もうすぐ食べ物が底を尽きる。このまま餓死してしまえれば楽になれるのかもしれない。でも私にそんな選択肢は無い。そんな事をしたらそれこそ周りの人全員に迷惑をかけることになる。これ以上私は誰の負担にもなりたく無かった。大学に行かずにいる時点でもうこの先迷惑をかける事なんて目に見えてるのに。
約二年半の努力が水の泡になった。当然の結果だ。私は幸せな人生を送れる程の人間じゃなく、それに至るまでの努力すら出来ないのだ。私が内心馬鹿にしていた人達は皆ある程度の幸せで満足して、まともに働いて、それなりの人生を過ごすんだ。私なんかよりずっと賢くて素晴らしい人間だ。
私に働くなんて無理だろうな。バイトもした事無いし、出来る気がしない。就職なんてもってのほかだ。
これからどうしよう。宝くじとか当たらないかな。買ってないけど。
その日私は大学の人達と仲良くなる夢を見た。夢の中の私は幸せそうで、酷く悲しくなった。
次の日私はついにスマホを開いた。私に連絡をくれる人なんてほとんどいないに等しいし、見る必要も無いと思ってたが、もし彼が連絡をくれてたら。メッセージアプリを開くとそこには何件か楠木くんからの通知が来ていた。恐る恐る私はそこをタップした。
『透花ちゃん、俺が知らない内に君を傷つけていたんだとしたら本当にごめん。俺いつも何も考えずに喋ってるからそのせいで何か嫌な事言っちゃったのかもしれない。でも透花ちゃんが嫌いでそんな事言った訳じゃないんだ』
『俺の事が嫌いになったなら全部無視していいから。今まで何回も話しかけたりしてごめん。もうこれからは会っても話しかけたりしないから安心して欲しい』
『透花ちゃん返信はしなくていいから既読だけでも付けて欲しい。何日も学校に来てないし君に何かあったんじゃないかって心配なんだ。お願い、無事かどうかだけ教えて』
『不在着信』
『不在着信』
楠木くんは優しい。私なんかはこの人に相応しくない。楠木くんには幸せになって欲しいからもう私は関わるべきじゃないんだ。
私はスマホの電源を落として机に置いた。
その瞬間、ピンポーンと家のチャイムが鳴った。
お母さんかもしれない。もしかして大学の方から連絡がいったのかな。申し訳ないな。大学費も出して貰って、一人暮らしもさせてもらってるのにこんな有様になって。
私はインターホンを見ずにドアを開けた。刹那、腕を引かれて前が見えなくなった。背中に恐らく腕を回されていて動けない。お母さんではない。
「無事で良かった……」
声が聞こえた瞬間やっと今何が起きてるのか理解出来た。理解は出来たけど理屈が分からない。彼は何故ここに居るんだろう。
「あの、楠木くん、ですよね?」
彼は何も言わず私を抱きしめる。こんなに密着するのは初めてで、緊張を通り越して頭が真っ白になっていた。
「……そうだよ。いきなり来てごめん」
「大丈夫、です」
私は楠木くんと距離を取りたくて彼の胸板を押すが、全然動いてくれない。
「あの、一回離して欲しいです」
「ごめん無理。離したら、どっか行っちゃうでしょ」
楠木くんの声はいつものような芯のある声じゃなくて、どこか弱々しさがあった。そんな声を聞いてしまったら私はもう何も言えなくなった。
「透花ちゃん……俺の事、嫌い?」
「嫌いじゃないです」
「じゃあ、好き?」
「……」
私が楠木くんに好き、なんて言う資格は無い。でも嘘なんて付けないから私は黙るしか無かった。
「ねぇ好きって言ってよ」
楠木くんの腕の力が強まる。
「嫌いじゃないんでしょ。じゃあ好きって事じゃん」
「ほらはやく、前俺に好きって言ったみたいにまた好きって言って」
急かすように私にそう言ってくる。どうしてそんなことを言わせたいのか分からない。楠木くんは何を考えているんだろうか。
「ねぇお願い……何したら俺の事好きになってくれる?俺、なんでもするよ」
「……なんでも?」
段々私は哀れな気持ちになってきていた。楠木くんは何考えてるか分からないし、こんな姿の私を見られて恥ずかしいし、この先に希望なんて無かったから。だからもう全部どうでも良かった。それに無理難題を言えば楠木くんも諦めてくれるはず。もうこの時間を早く終わらせたい。またベッドに戻りたい。
「じゃあ私と駆け落ちしてくれる?」
「いいよ」
「え」
私が思考する時間もなく即座に返事が返ってきた。この人分かったって言った?
「俺がどこへでも連れて行ってあげる。どこに行きたい?」
まるで王子様みたいなセリフだ。きっと楠木くんなら本当にどこにでも連れて行ってくれそうな予感がした。
「誰も私の事知らない場所に行きたい」
「分かった。一緒に行こう」
やっと彼は私の体を解放してくれた。その時見た楠木くんの顔は今までで一番穏やかな笑みを浮かべていた。
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