第二話
ドアをノックする音がした。入れ、と言うと秘書の鈴木が丁寧なお辞儀をしながら社長室に入ってきた。こいつはいつもこの調子だ。
「社長、三鶴銀行の支店長がご挨拶したいということなのですが…」
鈴木がおずおずと口を開く。
「はぁ?三鶴が?忙しいんだ、出直してこいと言え」
「よ、よろしいのですか?」
「ああいいよ、どうせ三鶴で金を借りてくれって話だろ。調子のいい奴らだからな。それからついでに、俺は忙しいんだから会いたいならアポ取ってから来いと伝えとけ」
「申し訳ございません、畏まりました。あの、それから…」
「なんだ、まだ何かあるのか」
「いえ、岸本部長がお話したいと、その、お約束はしているとのことでしたので」
「ああ、そうだったな。分かった、通せ」
そう言うと鈴木は深々と頭を下げドアを出て行った。
ふと窓の外に視線をやる。寒空の中、葉を落とし、単調な色をした木々が等間隔に並ぶ山が目に入ってきた。
久世圭介が社長に就任してから三十年以上が経った。その間、久世林業は幾多の危機を乗り越えてきた。平成の不況の折には木材価格は下落する一方、資金は底をつき、銀行に何度となく頭を下げては断られてを繰り返した。それでもなんとか首の皮一枚で生き残ることができたのは、運が良かったとしか言い様がなかった。
一歩間違えば廃業せざるをえない状況だった。給料の支払いが滞ったのは一度や二度じゃない。社員にも幾度も頭を下げてなんとか耐え忍んだ。だから今になっても銀行は信用出来ないでいる。こっちが軌道に乗れば調子のいい言葉で近づいてくるのだから、本当であれば怒鳴りつけて追い返してもいいぐらいだと思っていた。
どん底だった頃、一つの転機が訪れた。所有していた山の自然がエノキダケの飼育環境に適応していたため、久世はダメ元でエノキダケの生産と販売に乗り出したのだ。これが運良く大ヒットした。健康志向の高まりによりきのこ類が注目を集めたこともあり、売り上げは伸び、なんとか会社は一命を取り留めた。その後すぐに、海外、特に中国でのエノキダケ人気が高まったことでそこから更に爆発的に売上が伸びたのだ。
久世林業は今では売り上げの八割以上をエノキダケと、その関連製品が占めるようになり、今では地元で推しも推されもせぬ優良企業となったのだった。
時流にのった久世林業は精力的に山林を買取りエノキダケの生育、出荷数を増やし、市場のシェアを拡大していった。薄く目を閉じ、あの時の胸の高鳴りを思い出す。今思えば、人生で最も輝いていた時期かもしれない。
久世圭介は今年で六十三になる。ちょうど父が家督を譲った歳だ。だいぶ歳をとってしまった。あのとき父が見た久世林業とは見違えるほど成長した。今は亡き父はなんと思うだろうか。
物思いに耽っていると、秘書に連れられた岸本が入ってきた。
「社長、社員の待遇改善の件ですが…」
久世は窓の外から目を離さないまま答えた。
「何の件だったかな」
「いえ、あの…社員の給料も長い間低いままですし…その、当社もそろそろ改善に取り組んでいかねばと…」
「ああ、そんな話あったかなぁ。待遇改善だなんて、お前らも偉くなったもんだ」
「あ、いや…」
モゴモゴと言葉を濁す岸本にバンっと机を叩きながら力を込めて言った。
「でもな岸本、もっと大事な話があるだろ?なんだこの月次報告は。加工食部門の売上が下がってるようだが。俺の見間違えか?お前の担当部門だったよなぁ」
岸本をジリジリと睨みつける。
「え、ええ…申し訳ありません。しかし…」
「しかしが何だ。社員の給料心配する前にやることがあるんじゃないのか?受注増やす努力してんのか?こうしてる暇があったらさっさと取引先行って頭下げてこいよ。営業だけに任せてるからそんな事になるんだ、お前が汗をかけって言ってるんだ。それとも何か?お前何もせず待遇だけ良くしろっていうのか?」
息つく間もなく捲し立てたあと、手元にあった分厚い稟議書の束を投げつけた。岸本の頭にぶつかりバサリと床に落ちる。
「は…はい…その…」
「そのぉ?何だ?まだ言いたいことがあるのか?社員の待遇改善したいんならまずお前が金稼いでこねえと話になんないんじゃないか?ない袖振るバカがどこにいるんだ。言いたいことあるんなら数字持って来てから語れこの」
能無しがっ!と声を荒げながら勢いよく机を蹴る。
「も、申し訳ございません…」
岸本はそう言うと血の気の引いた顔で出て行った。久世は机の上で足を組み深くため息をついた。
会社をここまで大きくしたのは俺だ。あいつらは何かと言うとすぐ待遇を良くしろだとか職場環境を良くしろだとか駄々を捏ねる。まるで分かっていないから腹が立つのだ。
「どいつもこいつも」
目の前に積み上がった資料を前にやり場のない怒りをぶつけていると、定岡が入って来た。
「久世さん、忙しいとこ悪いね。ちょっと暇なんで与太話でもしに来たんだけど、いいかい?」
「なんだよ定岡さんかよ、珍しいな。虫の居所が悪いんだ、分かるたろ」
「ああ、そりゃ見れば分かるよ。怒鳴り声が外まで聞こえたよ。俺みたいな老人には肝が冷えていけねぇや」
「岸本は下ろすしかねえな、使えねぇ」
「なんだいそりゃ、ちょっと売り上げ下がっただけじゃねえか」
「やんなきゃいけねえこと放り出してよ、無駄なことばっかりしやがんだよ」
はっはっはと定岡が笑った。
「何がおかしいんだよ」
「いやいや、悪いなケン坊」
「ふざけてんのかよ、その名前で呼ぶんじゃねぇよ」
「俺にとっちゃお前はケン坊さぁ。お前さ、ちょっとやりすぎだ。このままじゃ足元掬われんぞって、それだけ言いに来たんだ」
「なんだよ、まだあのこと根に持ってんのか?」
「ははは、親父のことなら別に気にしちゃいねぇよ」
定岡の父が亡くなった時、久世は不義理を働いていた。長年この会社に尽くしてくれた定岡の父に対して、本来であれば社としても葬儀の手伝いや、金銭的なサポートをしなければいけなかった。先代の社長であれば間違いなく協力を惜しまなかっただろう。共に悲しみを共有していたとも思う。しかし久世は、会社が急成長を遂げていた時期ということを理由に、社としても個人としても何もしなかったのだ。
「そんな古い話はどうでもいいんだよ。そうじゃなくてよ、お前この前小倉さんも追い出しただろ?流石に俺も庇えねぇよ」
小倉は、久世の個人的な会社に出資することになった時に異議を唱えてきた財務担当の男だ。費用対効果に疑問があるだの、俺の個人的な事情で資金を流用してるだのしつこく食い下がってきた。この会社がなぜ大きくなったかを理解していない。融通の効かない男だった。
「仕方ないさ。それに、変わりなら
小倉を追い出した代わりに就任した盛沢は優秀な男だった。経営者として既にいくつもの企業を成功させている。そんな人間を外部から起用できたのは正直嬉しかった。
「そうじゃねえよ。ただ、やり過ぎんなよって言ってんだ。俺だってな、久世さんには感謝してるよ、入社したのがあんたより早かったってだけでこんなおいぼれになるまで取締役なんて大層な役につかせてもらってんだ、ここはあんたの会社だ、別に文句言うつもりはないよ」
「そうかよ。じゃあいいじゃねえか。もうあんたは現場に出る必要もない、取締役会以外は大人しく隠居してりゃいいんだ」
「ああそうかい、悪かったな。ちょいと老婆心が先走っちまった。お前が悔いのないようにすりゃいいさ」
それじゃおいとまするよ、と老人は言い残し社長室を出て行った。久世は再び視線を手元の資料に戻し、ため息をつく。
このあとは縁あって出資した会社の役員が来て面談が控えている。会社が傾いてるとかで銀行からも見放され、資金援助してくれと何度も頭を下げてきた男だ。
どうせ上手く行ってないのだろうと想像はつく。さっさと資金を引き上げるか、持っている土地を売って会社を清算するかを選ばせるつもりだった。
ふと窓の外を見る。幾度も定岡と訪れた日渡ヶ森が見える。会社の成長と共に手狭になった事務所を引き払い、この広大な敷地の一角に自社ビルを構えることにしたのだ。街からは離れているため不便は承知だったが、なんとなくここが落ち着くのが理由だった。
ヒュウ。
どこかで鳥の鳴く声が聞こえた。
久世は今も大切にしている、あの時の羽を思い出した。
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