4章_3:またお会いできる日を楽しみにしております。

人間は、あらゆるものに意味を見出してきた。

特に"数字"には、まじないの領域にも達したものさえある。

たとえば、数字の『1』には、すべての始まりや、無に対する有の意味がある。

今ここで達成されようとしているものがある。

今ここで、"帰還"を待ち望んでいるものが、ある。




──住宅街の街外れ。今では誰も住むことのない一軒家の前で、"彼"は、鞄を携えひとり、佇む。


これでよかったのだ。


ぼくは、そもそも長く生きるつもりもなかったんだから。


"彼"は廃屋に足を踏み入れ、最奥まで進む。

不気味なほどに静まり返っているこの家屋は、まるでこの侵入者の決断を、見届けるかのようだった。

"彼"は、身辺整理を済ませ、自宅を捨ててきたのである。


薄暗い月明かりの中、"彼"は慣れた手つきで荷ほどきをし、準備を進める。

手袋。メス。記録用の紙とペン……。ライトも、携帯も、もちろん置いてきた。


"彼"の目、表情、手際に、迷いはなかった。


女も使えない。"あいつ"もいない。自分の名前さえもう、わからない。

言葉を発することもままならない。


だが、"彼"の中で、かろうじて生きていたものがあった。


今は、ただ、それのみに、意識を向け続ける。


道具を配置し、シャツを脱ぐ。記録もきちんととれる。



結局、誰にも、どこにも、なにかにも。


ただただ"彼"は、その手のひらに納めたかっただけだったのだ。


かつて"彼"を魅了した、輝きと、境界を。


どこで、踏み誤ったのだろうか。ふと、そんな思考が巡るも、すぐに塵となって消える。


今の自分には、必要のないものだ。



『ブゥン……』



さあ、はじめよう。


自身の名前さえも忘却した男による、最後の実験を。


記憶として忘れていても、手順は体が覚えている。


おまえはここで死ぬんだよ、"   "。



さて。ぼくの人生とは、なんだったのだろうか。


ぼくは誰を嫌って、何を怨み、どれを嘆いていたのか。


刃が滑るたび、皮膚はまるで紙のように裂けていく。

刃の、冷酷になぞる無慈悲な感触が、今のぼくには気持ちいい。


この体はどこまでもつのだろうか。この体くらいは、ぼくの期待に応えてくれるのだろうか。


なんだっていい、どうだっていい。


やつらは、理解しなかった。


やつらは、ぼくをどこまでも、廃棄した。


静寂の中で、無言の切開が行われる。

それを詳細に、書き記そうとする手は、震えている。


誰が見るのだろうか、こんなもの。


それでも、ぼくは書き記した。


表皮、組織、内部構造……。


世界が沈黙する夜更け。

ぼくの内側から発せられる湿った音だけが、今、この実験室を満たす。


ぼくの右手が腹部へ向いた。


何をためらうことがある。


やれ。


やるんだ……。




"そうだよ。"



は?


今、なにが……



"そうだよ。"




懐かしいものが、聞こえた気がした。


瞬間、ぼくの右手がぼくの腹を乱暴に散らかし始めた!!

なんだ、なぜだ!ぼくの中を探る手が止まらない……!!


なんだこれ、


なんだこれ、なんだこれなんだこれなんだこれなんだこれ、なんだ……これ……!?


なに、どうして、誰!?痛い!!痛い!!痛い!!止まらない!!



「あ゛!!あッ……ひ、ぐっ、ぅ……!」


声が出ない……!!


声が出ない!!止まらない!!苦しい!!痛い!!


誰か、誰か……!!



『ブゥン』



誰か、助けてくれ……!!死にたくない、いやだ!!死にたくないよ……死にたくないよ!!

死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくな……


脳裏に、ぼくがこの手で殺した、気がする……女が、現れた。



『ブゥン……、』



まただ。

また女が現れた。違う女だ。 


この"音"は、なんだ……?


羽、音……?


どうでもいい、どうでもいい!!誰か、この右手を止めてくれ!!死んでしまう!!


自身の右手を、左手でなんとか押さえつけようとする、が

何かが乗り移っているような怪力で押し返される!


痛い!!死にたくない!!


「あっあ゛……!!」


声が!!声が出ない!!

喉が、喉を何かが、押しつぶしているようだ!

誰かを呼ぶこともできない……!!


『ブゥゥン……』


まただ!

今までとは別の女が新しく現れた!!


……このままでは、荒らされ尽くすか、体液が流れきるかで、本当に死んでしまう。


痛い、痛いよ、助けてほしい


そう叫ぶことさえも、ぼくは許されなくなってしまったのか。



"そうだよ。"



なんなんだ、おまえは……。


視界がチカチカしてきた。


腹部が燃えるように熱い。



『ブン、』



あの音だ。

だんだん、増えている気がする……。


音の出どころを、目を凝らして、追う。


何かがぼくの左手に触れた。


蠅、だ。

世界は夜更け。ここは無人の家屋。

暗くて視認しづらいが、この形をした生き物は、よく知っている。


だが……、もう、おまえらさえも。

ぼくを捨てたんだろう。


生ぬるいものが、脚を伝い続ける。

どんどんぼくが流れ出ていってしまう。


痛い……痛い……?


寒い……?



なにかがぼくの頬を、濡らす。視界が、ゆがむ。次々と溢れて止まらなく、なり始める。



『……ブウン』



この羽音がぼくの耳に届くたびに、頭の中に知っている気がする女の姿が、それぞれ浮かび上がる。


ぼくはなんのために生きたのだろう。


ぼくは誰のためにここまできたのだろう。


ぼくは、ただ……。


六人の女たちが、ぼくに視線を向けたまま、立ち尽くしている。

何をするわけでもなく、横並びでぼくに視線を向けたまま、立ち尽くしている。


ぼくはただ、


確かめたかっただけなんだ


ソレになれば、ぼくも


ぼくが死んだとしても、誰かの中に残り続ける、輝きに……



『ブゥン』


右手は、何かを見定めるように、ぼくの内側をなぞっている。

視界も、意識も、ぼくの体から離れようとしている。



こんなに痛いなんて、知らなかったよ。


こんなにくるしいなんて、知らなかったよ。


こんなにつらいなんて、知らなかったよ。


こんなにさみしいなんて、知らなかったよ。


こんなに助けてほしいなんて、知らなかったよ。


こんなにわからないなんて、知らなかったよ。


ぼくはなにを……、まちがえたんだろう。



蠅が、一匹、二匹……、三匹……、


七匹? ……いや、八匹目は……、頭がない……。



そうか……。やっぱり、そうなのか。



"そうだよ。"



もう、助けてくれよ。そこで見てるならさァ。


この右手、おまえだろ?おまえがやってるんだろ?


ぼくは気づいちゃったんだ。


なァ……、たすけ






九回目の、羽音。



ぼくの右手は、ぼくの中心を、握りつぶした。







何かが、ぼくに集まってくる。


何かが、ぼくに覆いかぶさってくる。


全体に重みが、ある気がする。




……ああ、


やっと、


終われるんだ



ねえ、ぼくは、


ちゃんと、


やれたかな?




……つかれた。





──世界が寝静まる真夜中に、赤い海へと沈みゆくカタチがひとつ。


一匹、二匹と、蠅たちが横たわる男の体に、停まる。


九匹目の蠅が男の体に着地したのを皮切りに、無数の黒いざわめく波が、"彼"を飲み込む。


重低音を奏でる巨大な羽音は地獄からの呼び声のように、『おかえり』と、迎え入れるように。


誰も知らない、誰かの帰還。


まるで、玉座に王が戻ることを、歓喜するように。


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