天上界の神々の事情
第33話 池より見下ろす下界
天上界に住まわれる神々の寿命は、悠久という言葉で寿がれるほどに長い。その長い時の流れの中で、何にも不自由することなく、何ごとにも心騒ぐことなく、神々は過ごしておられる。だが、あまりにも長い寿命の中で、そのお一人お一人の心内は、たぶんに孤独であり無聊に苛まれてもおられたことであろう。
昔々のある日のこと。
一人の神がその心内にある悠久の孤独と無聊を持て余しつつ、宮城の中にある庭の一つで池のほとりを散策しておられた時のことだ。
あまりにも時の流れが遅いので、天上界にあって、とくに宮城では季節は巡ることを忘れた。高い塀に囲まれた広大な宮城の中は常に春爛漫だ。
池のほとりを囲む樹木は、葉を枯らすこともなくまた散らすこともなく、みずみずしい緑のひと色のみ。その下で、花々は色鮮やかに咲きみだれ、小煩くはあるが羽虫を遊ばせている。
あたりには甘いよい香りが漂い、ときおり微風が心地よく頬を撫でる。磨きこまれた鏡のような水面すれすれに蜻蛉が飛び交い、睡蓮の葉の上で羽を休めているものもいた。
ふと、足を止められた神は池の中を覗き込まれた。
悠々と泳いでいる魚の姿が見える、まったく濁りのない水だ。
そしてその下にはたなびく薄雲を通して、遥か遠い下界が透けて見えた。渦巻く薄灰色の霧以外にそこには何もなく、混沌だけが存在している。そこでまた、ふと、神は思いつかれた。
「あの混沌とした下界に、天上界に似せた景色を持つ箱庭なるものを造れば、どうなるのか。水面越しにそれを見下ろす趣向は、さぞ、面白かろう。手持ち無沙汰な散策も楽しくなるというものだ」
神の思いつきは他の神々にも受け入れられ、天帝のお許しも出た。
考えさえまとまれば、神々にとって一つの世界を造るくらいは簡単なことだ。
箱庭の北の方角にはすべてを凍てつかせる雪原。
南の方角にはすべてを干乾びさせる灼熱の砂漠。
東の方角には海水が瀑布となって奈落へと流れ込む大海原。
西の方角には万年雪を戴いてそびえたつ高い山々。
しかしながらそれらに閉じ込められた低い山々や森や草原やそして流れる大河は、なんと変化に満ち満ちて美しいことだろう。
下界での、季節をともなった時の流れは速い。あっというまに箱庭の中では、山の形と川の流れが変わり、草原さえもその姿を変える。
それは、見下ろす神々の目を楽しませた。
しかしながらやがてそれだけでは物足りず、天上界と同じように、山には獣を平原には虫を川には魚を空には鳥を放とうと、言い出した神がいた。
「せっかく森の木々に草原の草々に花が咲き実がなるというのに、そのまま朽ちさせてはもったいないではないか」
「そうだな、獣・虫・魚・鳥を放てば、箱庭の景色にも、また違う変化が現れるに違いない」
「それはよい考えだ。眺める楽しみが増えるということだ」
神々は口々に言った。
異議を唱えた神はいなかった。
気の遠くなるような時が流れた。
ある日の夕刻、宴を抜け出した男と女の神が五、六人、池の中の箱庭を見下ろしながらそぞろに歩いていた。まだ酔い足りないと、手には酒を満たした甕を持っている神もいた。
首を伸ばして池を覗き込んだ神の一人が言った。
「我々の箱庭も獣や鳥が増えて確かにおもしろくはなったが。目が慣れてしまうと、面白味が一つ足りないように思われる」
その言葉通りで、今では箱庭を見下ろして楽しもうと思う物好きな神は少ない。彼らのように退屈を持て余した神か、酔いを醒まそうと思う神が時おり訪れるだけだ。
女の神もまた応えて言った。
「その通りですね。こうなってしまうと、わたしたちの住む天上界の山や森や平原と同じですわ」
一人の神が相槌を打ち、また別の神が甕の酒を飲みほした後に言う。
「獣と虫と魚と鳥だけだから、つまらないのだ。どうだろう、我々の姿に似せた生き物を住まわせれば、おもしろくなると思わないか?」
「まあ、それでは、その生き物たちはわたくしたち神と同じような悩みを持ち、わたくしたちと同じように愛し合い、諍い合うということでしょうか?」
「そうだ。きっと、鏡を見ているような気になるに違いない。これはおもしろいぞ」
「でも、その生き物は、わたしたちのような悠久の寿命は持てないはず。短い寿命では、悩みも深いまま、愛は浅いまま、諍いも解決しないままに、寿命が果てるということではありませんか。あまりにも可哀そうですわ」
かなり酔った男の神と女の神の会話に、慌てた口ぶりで別の神が口を挟んできた。
「おいおい、おまえたち、なんていうことを言っているんだ。天帝は、下界に箱庭を造るときも、生き物を放つときもよい顔はされなかった。我ら神に似た生き物などという話がお耳に入れば、とんでもなくお怒りになるはず。もう、そのような話はするな」
「本当にそうでしたわ。もう、このことは忘れましょう」
そして互いに顔を見合わせて、ほんの一時でも自分たちの頭の中に不遜な考えが芽生えたことを恐れた。突然、一陣の常春らしからぬ冷たい風が吹いて彼らの頬を撫で、一人の神をのぞいて皆、酔いが醒めたことを感じた。
「このような忘れ去られた場所に長居をしては、碌なことがない」
「そうでございますとも。宴の席に戻りましょう。皆が探しているかも知れません」
神たちがいっせいにその美しい着物の裾をひるがえし踵を返すと、その背中に向かって、『箱庭にわれわれと同じ姿をしたものを住まわすとおもしろい』と、先ほど言った神が声をかけてきた。
彼はうずくまって俯いている。
「おい、おまえたち、先に戻っていてくれ。沓の中に小石が入ったようだ。取り出さねば、痛くてかなわぬ」
「それは難儀なことでございましょう。だれか、肩を貸してさしあげて」
「いや、一人で大丈夫だ」
その言葉の通り、仲間の神たちが去ったのを見計らうように、一人残った神は沓を履き直して立ち上がった。しかし彼の手の中にあったのは、沓から取り出した小石ではない。
小石を取り出すようにみせかけて、彼は周囲の土塊を集め手の中で丸めた。昨日に降った雨で、土はよいあんばいに湿り気をおびていたので、きれいな形に丸まった。
掌のそれをしばらく満足げに眺めて、やがてふっと息を吹きかけると彼は池の中に投げ込んだ。池におちた土塊は水底を通り過ぎ、雲間を通り抜け、下界に落ちる間に神々に似た姿となった。そして地面に二本の足で立った。
しかし酔ったがための出来心であったので、宴に戻る道すがらにその神は自分のなしたことを酔いが醒めると同時に忘れた。
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