第15話 霧のギリギリデート

 週末の午後、澄み切った空には一片の曇りもなく、木々の葉が柔らかな日差しを受けて輝いていた。駅前の時計台の下、霧は少しばかり緊張した面持ちで立っている。

 今日は特別な日――そう心に言い聞かせて、彼は朝から鏡の前で身支度に勤しんだのだ。

(見た目に金をかける余裕はないけど、ダサいとは思われたくないしな……)


 髪は念入りにセットされており、わざとらしくならない程度に整えられている。着る服にも細心の注意を払った。シンプルな白いTシャツの上に軽いブルゾンを羽織り、目立たないけど清潔感だけは意識した…これが精一杯だった。

(白鷺に“想像していたよりまともなんだ”くらいには思ってもらえたらラッキーってとこだな)


 そんなモノローグを脳内で繰り返していると、ふわりと優雅な香りが漂ってきた。顔を上げると、そこには沙羅の姿があった。


 彼女は白のブラウスに象牙色のフレアスカートを合わせた装い。どちらも派手ではないのに、明らかに生地や仕立ての良さが際立っている。バッグにはさりげなく輝くハイブランドのロゴが添えられており、胸元に光るアクセサリーもきっと高価なものに違いない。沙羅自身はそれを全く気取らず、自然体で身にまとっているのだから、なおさら厄介だ。


「桐崎君、お待たせ!」

 沙羅が小さく手を振って近づいてきた。その笑顔は眩しくて、霧の思考を一瞬止めた。


「あ、いや、俺も今来たとこだし!」

 焦りながら返した言葉は、声が少し裏返った。沙羅は「そっか、よかった!」と微笑んで、霧の胸をさらにドキリとさせる。


 沙羅の服装と比べ、自分の“予算内でまとめました感”が急に恥ずかしく思えてくる。それでも霧は気を取り直した。

(いや、いいんだ。俺はこれでベスト尽くしたし!大事なのは中身、中身だよ……!)



 二人並んで歩き出すと、霧の心臓はいつもより早く鼓動していた。沙羅は嬉しそうに周りを見渡しながら、軽い調子で話しかけてくる。


「ねえ桐崎君、今日のカフェって新しくオープンしたんだよね?どんなメニューがあるのかな~?」

 その無邪気な笑顔に、霧は危うく足をもつれさせそうになりながらも、平静を装った。


「えっと、確か……チーズケーキが人気らしいよ。あと、なんか名前が長すぎて覚えられなかったフレンチ系のスイーツもあったかな」

「名前が長すぎて覚えられないって……桐崎君、情報雑すぎない?」

 沙羅はくすっと笑った。

 二人並んで歩きながら、沙羅がふと思い出したように尋ねた。

「桐崎君、そのペアチケットって、全部無料になるの?」

 その無邪気な質問に、霧は一瞬足を止めそうになったが、すぐに平静を装う。

「え、ああ……まあ、そうだね。全部無料だから、気にしないで好きなもの頼んでいいよ!」

 霧は手をひらひらさせながら爽やかさを装っていたが、頭の中では違う声が響いていた。


(……全部嘘だ。ペアチケットなんて当たってないし、そもそもそんな抽選に応募すらしてない。全部、白鷺を誘うための方便だ。)


 一歩踏み出すたび、財布の中身の残高が脳裏に浮かび上がる。数字は無情にも減り続けるイメージだった。

霧は沙羅の笑顔にチラリと目をやり、再び心の中で深くため息をついた。


(ま、先行投資だ、先行投資。ここでケチったら俺の印象が悪くなるだけだし、チャンスは二度と巡ってこない。未来の“ヒモライフ”のためだと思えば、ここで散財する価値はある……はずだ)

 そんな自己暗示をかけながら、霧はカフェの扉を押し開けた。入口から漂ってくる甘い香りが彼を包み込み、目の前にはシンプルながら洗練された空間が広がっていた。白い壁にナチュラルウッドのテーブル、そして棚に並ぶ色とりどりのスイーツたちが、まるで霧に向かってようこそと微笑みかけているようだった。


「わぁ、すっごくおしゃれな雰囲気だね!」

 沙羅は目を輝かせて店内を見渡す。霧はその横顔に一瞬心を奪われつつも、すぐに現実へ引き戻された。


(安っぽい店だと白鷺が誘いに乗らなさそうだし、新しくできた店なら来てくれそうだと思ってここにしたんだけど、やっぱり高そうだな……なんだこの壁のメニュー、“季節限定プレミアムモンブラン”って……プレミアムとかつく時点で嫌な予感しかしない。でも、これも白鷺との距離を縮めるためだ、仕方ない!)


「どこに座ろうか?」

 沙羅が楽しげに聞く。霧は少しでも価格の衝撃を緩和するため、無意識に財布をポケットで確認しながら笑顔を作った。


「奥の窓際とかどう?景色もいいし、ゆっくりできそう」

「いいね!じゃあ、あそこにしよう!」

 沙羅は軽快な足取りで指定の席に向かい、霧も後を追った。


二人が席につくと、店員がすぐにメニューを持ってきた。沙羅がメニューを開くと同時に、「このパフェ、可愛い!」「あ、このケーキも美味しそう!」と、次々に感嘆の声を漏らす。霧はその隣で、内心冷や汗を流しながらメニューの端から端まで目を走らせた。


(くそっ……全部高いじゃねえか!パフェ一つでこの値段?こんなもん、どんな材料使ってたらこうなるんだよ。でも、ここでケチったら男が廃る。)


「どれも美味しそうだし、思ったよりそんなに高くないね」

 沙羅は気軽な口調で言ったが、その言葉に霧は背筋が凍った。

「ほんとだね」と、軽く相槌を打ちながらも、霧の目は値段に釘付けだった。


(嘘だろ……この値段で高くないって、白鷺、普段どんな店に行ってるんだよ?俺の財布が悲鳴上げてるぞ……)


沙羅はメニューをじっくり見つめながら楽しげに選び、霧もそれに合わせてメニューを開いているふりをしていた。しかし、霧の頭の中はすでに暗算の嵐だった。

(これ頼まれたらアウト。あ、でもこのケーキ単品ならギリ……いや、ドリンクセットにされたら……)


「ねえ、桐崎君は何にする?」

 沙羅の声が現実に引き戻す。


 霧は慌ててメニューの適当なページを指差し「あ、俺はこの……チーズケーキにしようかな」と答えた。

「チーズケーキいいね!私はこのパフェにしようかな。季節限定って魅力的だよね」

 沙羅の決定的な一言に、霧は頬を引きつらせながらも、精一杯の笑顔を浮かべた。

「そ、そうだね。季節限定は特別感があっていいよな……!」

(頼む、神様。俺の財布が持ちこたえられるようにしてくれ……)


 店員が注文を取りに来る頃には、霧はすべてを諦めたような顔で「これも先行投資だ……」と自分に言い聞かせるしかなかったのだった。

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