お互いを下に見てる日陰者同士が初々しいキスをするまで

紙城境介

第1話 日陰の中で


 子供の頃から、ずっと妄想していた。


 初めてキスをする相手はどんな女の子だろう。

 髪が長くて清楚な子? 誰にでも優しくて明るい子?

 それはきっと、誰もが羨むような可愛い子で、僕は心臓が割れるくらいドキドキしながら、そっとまぶたを閉じたその子の顔に、自分の顔を近づける――


 ――だけど、今僕の目の前にあるのは、そんな妄想とは似ても似つかない現実だった。


「な……何……? しないの……?」


 不愉快そうに眉根が寄る。

 常に何かを睨みつけてるような反抗的な目つきは、聞いたところ近眼気味なのが原因らしい。だったらメガネをかけるかコンタクトをするかすればいいのに、メガネはオタクっぽくて嫌だといい、コンタクトは怖いから嫌だという。


 そんな偏見まみれでわがままな女の子こそ、今、僕が腰を抱いている相手――隅野すみのみかげだった。


「今更ビビんないでくれる……? これだから陰キャ童貞はさ……」

「うるさいな陰キャ処女……こ、心の準備があるんだよ……」

「頭の中で何回もしてきたでしょ……? さ、さっさと済ませてよ……」

「黙ってくれないとできないだろ……」


 あまり丁寧に手入れはされてなさそうな、ちょっと乾いた髪質の黒髪を軽く払いながら、隅野の頬に手を添える。

 そうすると隅野は怯えたようにピクッと震えて、反射的にか、僕から離れようとする。

 僕はその細いを超えて不健康な腰をちゃんと捕まえて、彼女が逃げないようにした。


「……き、キスだけだからね……。それだけだからね……」

「わかってるって……」

「興奮しすぎないでね!?」

「それは君だろ、ドスケベ陰キャ」


 ゆっくりと、顔を近づける。

 隅野が、ぎゅっとまぶたを閉じる。


 こんな日が来るとは思ってなかった。

 僕が女の子とキスできるとも思ってなかったし、その相手が隅野だとも思ってなかった。


 どうしてこうなったのか、思い出す。

 きっと運命が変わったのはあのときだ。


 隅野が汚い悲鳴を上げてカーテンを閉めた、あのときに違いなかった。




◆◆◆




 小学校の頃は友達がいた。

 その頃はまだ交友関係というのは単純で、足が速かったり、家にゲーム機があったり、スマブラが強かったりするだけで一目置かれ、複雑なコミュニケーションスキルは必要とされなかったからだ。


 僕はスマブラが強かった。

 口数は今と対して変わりはしないけど、僕が操るサムスには誰も敵わなかったので、スマブラ自慢の男子たちが次々と僕の家に押し寄せた。

 そのことごとくが我がチャージショットの前に砕け散り、僕はその名声を確固たるものにした。


 中学の頃は、まだその余韻のようなものがあった。

 各小学校で最強の名を欲しいままにしていたやつらが一堂に会し、ここが俺たちの篝火だとばかりに雌雄を決したのだが、僕はそこでトップ4に甘んじてしまった。

 所詮井の中の蛙というやつで、本当に強いやつはいくらでもいる。僕はただ飛び道具の処理の仕方を知らないガキを狩っていただけの、ちょっとずる賢いガキにすぎなかった。


 そのときが僕の人生のピークである。


 それから時間が経つにつれ、運動部と文化部、そして帰宅部の間に格差のようなものができていった。

 ゲームによるコミュニケーションは下火になり、周りの連中はお小遣いをポケモンカードよりもマックやラーメンに使うようになった。

 成長期が訪れ、運動が得意なやつらはぐんぐん身体が大きくなり、なのに僕はさっぱり大きくならなかった。


 気付けば僕は1人になっていた。

 親に買ってもらったゲーム機でFPSをして、野良の味方の鬱陶しいピン連打を無感情に無視しながら、黙々と1人でランクを上げる――それが日常になっていた。


 日中に喋ることはない。

 夜になればゲームをしたり、動画サイトで配信者の声を聞くから寂しいという感覚もない。

 中学を卒業する頃には、自分はこういう人間だったんだと受け入れることができていた。


 そりゃあ、コラボ配信をするVTuberみたいに、仲良く騒がしく遊べたら楽しいだろうと思う。

 だけどそれには才能がいる。

 自分にその才能はないと、15年も生きればそろそろ気付く。


 だったら、素直に諦めようじゃないか。

 友達は作らない。

 恋愛もしない。

 それでも今の世の中は、十分楽しめるようにできている。


 高校でも、多くは求めないようにしよう。

 漫画で描かれるような青春なんて、期待しないようにしよう。


 僕の名前は端山はしやま太陽。

 しかし太陽なんて名前は、親が勝手に決めたものだ。

 僕の生き方は、僕が決める。


 大丈夫。

 身の程をわきまえている時点で、僕は日陰者の中では上等だ。








 ――そうして、高校に入学して1ヶ月が過ぎた。


 入学の前にちょっと予定と違うトラブルがあったけど、それ以外はほぼ予定通り。

 僕は教室の片隅で、ただ黙って、クラスメイトたちがグループを作っていくのを眺めている。


 無事にグループに属することができたやつらは、きっと僕みたいにならなくてよかったと思ってるんだろうな。

 だけど別にいい。自分から受け入れているポジションだ。

 ぼっちになることで発生する問題も、どうにかクリアできつつある。


 特に、体育の授業でペアになる相手が見つかったのは僥倖だった。

 ペアを作るとき、僕と同じように相手がいなかった人がいて、その人が話しかけてきてくれたのだ。

 黒崎君と言って、友達と呼べるほど親しくはないものの、控えめな性格でシンパシーを覚える男子だった。

 彼もどうやら友達作りは苦手なようで、話が弾みはしなかったが、こっち側の人間なのは間違いなかった。


 きっと彼とは、これから多くの行事を共にすることになるだろう。

 休み時間に話したりはしないものの、同じクラスに同じ日陰者がいると思うだけで、心強い気持ちに――


「――おぇいっ! 黒崎! 昨日はあれからどうだった!?」

「あれってなんだよ……」

「わかってんだろ? 白河さんだよ、白河さん……! 絶対脈あるぜ、お前?」

「からかうなって。ちょっと一緒に映画行っただけだろう」

「それをデートって言うんだろバカ!」


 机に突っ伏してうとうとしていたところに聞こえてきた話し声に、僕は静かに冷や汗を流した。


 白河さん?

 白河さんって、白河しらかわ光梨ひかりのことか?

 このクラスで一番輝いている女子。他ではなかなかお目にかかれない清楚な黒髪ロングで、親は女優だとか社長だとか言われている、あの……?


 黒崎君……あのウルトラ美少女と映画デートに行ったのか?

 パッとしない見た目と雰囲気なのに、何があって?


 白河さんのことが好きだったわけでもないのに、僕は密かに大きなショックを受けた。

 黒崎も、女子とデートしたことがあるんだ。

 しかも、あの白河さんと……。


 自分と一緒だと思っていた黒崎君が、急に遠くに行ってしまったような気がして、僕は勝手に置き去りにされたような気持ちになった。

 いや、いいけどね。

 僕は最初から諦めてるし。恋愛なんてするつもりないし。

 ……でも、女子と一緒に映画に行くことができるその才能は、間違いなく僕にはないものだった。


 人知れずショックを引きずりながら、午前の授業を終える。

 教師が教室を出ていくなり、僕は速やかにリュックから弁当を引っ張り出した。


 世の中、ご飯を1人で食べることを寂しいことだ、恥ずかしいことだと認識している勢力があるらしいけど、僕はそうではない。

 そもそも食事の時間とは食事のための時間であり、つまり黙って食べるほうが本来の姿である。

 よって僕は友達がいなくても堂々と、教室で母親が準備してくれた弁当を食べる。


 今日は白米に塩昆布が乗っていた。

 塩昆布がご飯の水気を吸い取ってうまいんだよな。

 蓋を開けるなりちょっと上機嫌になった僕は、横目でそそくさと教室を出ていく1人の女子の姿を捉える。


 そのちっこい後ろ姿を見間違えるはずがなかった。

 男子の中で一番小さいのは僕だが、女子の中で一番小さいのは彼女だ。

 僕よりも多分、20センチくらいは小さいから、140センチ代の真ん中くらいか。そして肩くらいまで伸ばした髪は、一目で櫛を通してないのがわかるくらいボサボサで、白河さんの麗しい黒髪ロングとはまるで正反対だった。


 いつも小動物みたいにおどおどして、そのくせ何かに反抗しているかのように目つきが悪くて、そして――友達がいない。

 昼休みにはいつも逃げるように教室を出ていくし、多分体育でペアになってくれる相手もいない。

 このクラスのもう1人の日陰者――隅野みかげ。


「……………………」


 隅野が出ていった教室のドアを眺めながら、僕は塩昆布ご飯をもぐもぐと咀嚼した。

 せっかく親が作ってくれた弁当を、トイレなんかで食うなよな。

 こう言ったら悪いけど……彼女よりは僕のほうがマシだ。








 高校入学からあっという間に1ヶ月が過ぎて、ゴールデンウィークに突入した。


 高校1年のゴールデンウィークって、もしかして新しいクラスで友達が作れたかどうかでスケジュールがだいぶ変わってくるんじゃないだろうか。

 まあ僕は来年も再来年も、ゲームして配信見て悠々自適な生活だ。友達付き合いで行きたくもない場所に遊びに行くよりも全然いい。


 だけど今年だけは、ちょっと違ってくるか。

 なぜかといえば、入学の前にいったん流れた予定――すなわち引っ越しがあるからだ。


「うーん……部屋がたくさんある!」


 引っ越し屋のお兄さんたちがダンボールを抱えて忙しそうに行き来する中、父さんは廊下の真ん中で見たまんまなことを言った。


「これが……一戸建て! なんて広さなんだ……! 壁を叩いたり床で飛び跳ねたりしても苦情が来ないって本当か!?」

「どうやら本当らしいですよ!?」


 と、母さんがそのノリに応えてその場で飛び跳ね始める。


「見てください! こんなに暴れても大丈夫なんです! 下には誰もいないので!」

「半地下の家族がいたらびっくりだよ!」

「あはは! パラサイトパラサイト!」


5歳児みたいに飛び跳ねる母さんは、小柄な体格も相まってまるで中学生だった。僕の背が小さいのは間違いなくこの人の遺伝子のせいだ。

 

 明るいとか能天気とかを超えて変なテンションになっている夫婦から、僕は少し距離を取る。

 気持ちはわからなくもない。この夫婦は子供の頃からずっとマンション暮らしだったらしく、このたびついに夢のマイホームを購入したのだ。

 本来は3月の末、僕と妹の進学に合わせて引っ越す予定だったのが、不動産のトラブルで1ヶ月お預けになってしまった、というのもある。多少テンションが上がるのも無理のないことだった。


 とはいえ、はしゃぎ方がえぐい。

 多感な時期の息子としては、これが実の親だとは思われたくなかった。

 こんなんだから、息子が陰キャになる可能性を考慮せずに『太陽』なんて名づけてしまうのだ。


「……僕、上の部屋見てくる」


 僕が控えめに言うと、父さんは満面の笑顔で振り返り、


「おお、見ろ見ろ! いくらでも見るがいい! この俺の家をな! がはははは!!」

叶月かなつきと話し合って自分の部屋決めてねー!」


 軽く手を振って階段のほうに向かうと、後ろから叶月が追いかけてきた。

 妹は僕の顔を見上げると、


「兄さん。部屋、わたしが決めてもいい?」

「別にいいよ。僕はこだわりないから」

「ん」


 こくりとうなずいて、とんとんと先に階段を上がっていく。


 叶月は3つ年下の妹で、今年から中学生になる。

 そのちょっと変わった名前は、星のシリウスの別名だか方言だかが元ネタらしい。僕の名前を太陽にしたせいで、妹の名前まで恒星縛りになってしまったのだ。

 語感的に後ろの『ツキ』がどうしても余計に感じてしまうので、僕は略して『カナ』と呼ぶことが多い。友達にもそう呼ばせているようだ。


 ちなみに、僕にはあんまり懐いていない。

 そのせいか、末っ子らしからぬクールなやつに育った。その点は喜べばいいのか悲しめばいいのか……。

 しかしながら、今日のカナにはどこか浮き足だったものを感じる。年齢不相応の落ち着きを見せる妹だが、さすがに初めて1人部屋が与えられるとなっては、テンションが上がらずにはいられないらしい。


 僕だってそうだ。

 今まではカナと同部屋で、ゲームをするにも遠慮しながら、エッチなものを見るにもトイレに行きながらだった。

 だけど今日からは完全に自由である。

 高校に入学したときよりもよっぽど、新しい生活が始まるって感じがした。


 カナについていく形で階段を登っていくと、階段の正面に一つ、右側に一つ、ドアがあった。

 妹は部屋の中を一瞬たりとも見ずに、階段から見て右にあるドアに向かい、僕に振り返った。


「わたしの部屋、こっちね」

「中見なくていいの?」

「家の外から見て気付いたけど、そっちの部屋、窓のすぐ外が隣の家になってる。全然日が差し込まない」


 カナは階段正面のドアを指差して言う。

 マジか。部屋には日照権って適用されないの?


「それじゃあ、業者の人に言ってくるから」


 カナは涼やかに言って、僕の隣を通り抜け、階段を1階に下っていった。

 あいつ……それが最初からわかってて自分が部屋決めたいって言い出したんだな。抜け目ないやつだ。

 別にいいけどね。部屋なんて電気があったら大体明るいでしょ。


 僕は階段の正面にあるドアに向かい、そのノブを捻った。

 ドアを開けると、何もない四角いフローリングが広がった。


 広さは多分5畳か6畳ぐらいだけど、家具がないだけでずいぶん広く感じる。

 なによりも、まだ何の生活の痕跡もないまっさらな空間が、これから新しい生活が始まるんだってことを象徴しているような気がして、僕の気分を盛り上げた。


 だけど、こうして広さを実感してくると、窓のすぐ外に他人の家の壁があるっていうのは、ちょっと息苦しく感じてしまうな。

 窓は部屋の奥にあるが、今はカーテンで締め切られている。

 すぐ外って言うけど、どのくらいすぐなのか……。せめて風が通るくらいのスペースがあればいいけど。


 そんなことを考えながら、僕は窓際に歩いていき、カーテンを開けた。

 そこにはカナの言った通り、隣の家の壁――ではなく。


 窓があった。


 そして、その窓の中に。


 女の子がいた。


 見覚えのあるボサボサ髪の。

 見覚えのある悪い目つきの。

 見覚えのある小さい身体の。




 隅野みかげが――ちょうど、シャツをまくり上げたところだった。




「……え?」


 僕は最初、それを現実のものと思えなかった。

 だって、クラスメイトの女子が自分の部屋の窓の外にいるわけないし。

 その子が無防備にカーテンを開けて着替えてるわけもないし。

 あの隅野みかげが、あんな刺繍の入った可愛いブラジャーつけてるわけがないし。

 なにより彼女も、全然僕に気付いた気配がないし。


 窓じゃなくて、でかいモニターなんだ。


 本気でそう思った。

 だけど次の瞬間、僕も認めざるを得なくなった。

 隅野が僕のほうに目を留めて、


「――ハア゛ッッッ!?!?」


 という、喉を枯らしたアヒルみたいな、きっっったない悲鳴をあげたからだ。


「――失礼しました」


 そのまま凍りついた隅野を見て、僕はここ1年で一番なめらかな口調でそう言って、速やかにカーテンを閉じた。

 そして窓に背を向け、その場にへたりこみ、いつの間にか忘れていた呼吸を再開した。


 周回遅れで、バクバクと心臓が早鐘を打つ。

 生まれて初めて……同い年の女の子の下着を見てしまった。

 いや、それよりも、僕が名誉をかけて主張しなければならないのは――


 ――これって、この家を設計した人の責任ですよね?

 

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