台湾百鬼夜行

カイクウ

第1話 消えない檳榔西施 (前)

「昔の台北では、道端で血を吐いている人がたくさんいましたよね?」


 台北に住んで三十年になる高橋さんの言葉に、私は少し驚いたが――やがてその言いたいことに気付き、そうですね、と笑って頷いた。


 勿論、本当に血を吐いていたのではない――檳榔びんろうのことだ。



 檳榔とは、檳榔子というヤシ科植物のタネに葉っぱを巻き付けた嗜好品で、軽い興奮作用があり、長距離運転手などに特に重宝されていた。


 ただ、それを噛んでいると、やたらと唾液が湧きだしてくる。その唾液は飲み込んではならないので、皆道端に吐き捨てることとなる――その唾液は、檳榔子の汁の為に真っ赤に染まっている。だから、それを吐きだす人は、まるで血を吐いているように見えてしまうのだ。


 昔の台北では、そこらじゅうでそんな光景が見られた。


「でも、十数年前から、台北では殆どそれを見かけなくなりましたよね――理由は知っていますか?」


 確か、赤い唾液を吐き捨てると罰金、という法律が出来たんですよね、と私は言った。


 何せ、沢山の人が赤い唾液を吐き散らすのだから、通りはどんどん汚くなって行く。また、私自身、すぐ横を通りがかった不注意な運転手が、窓を開けて唾液を吐き出したせいで、服を赤く染められてしまったことさえある。


 唾液の吐き捨ては、タバコのポイ捨てよりも遥かにタチが悪い――禁止されたことを聞いて、私などもホッとしたものだ。


 

 また、檳榔には発癌性物質が含まれている、という知識が広まったのも大きかったろう。健康志向の高まりと共に、多くの人が檳榔を噛まないようになった。


 かくして、街が赤く染まることはなくなった。




 私の言葉に、高橋さんはその通りだと頷き、そして言った。


「でもね、その前に、檳榔西施びんろうせいしが禁止されたのも、かなり影響がありましたよ」


 檳榔西施――久々に聞いたその単語に、私は懐かしさを覚えた。



 西施とは、中華文明における伝説上の美女のことである。


 そして檳榔西施とは、独裁政治終了直後の一九九〇年代に現れた、露出の激しい恰好で檳榔を売る女性達のことだ。


 彼女達は、国道沿いの、ネオンサインで飾り立てたガラス張りのボックスの中にいて、裸に近いような薄着で、長い足を組んで座っている。そしてボックス前に車が停まると、勢いよく飛び出して行き、笑顔で運転手に檳榔を売る――そんな檳榔西施が台湾じゅうにいたものだ。


 けれども、台湾社会の変化と共に、檳榔と共にこの檳榔西施も規制の対象となった。


 何せ、子供も見られる公の場所にセクシーな女性がいるのだ。中には、商品をドライバーの所まで持って行く際、特別料金で体を触らせたりする檳榔西施もいたようで――彼女達の存在は社会問題にされ、ついには追放されてしまったのだ。


 けれども勿論、反対運動はあった。


 何より檳榔西施達は、貧しい農家の娘であることが多い――そして台湾では、そういう女性の就ける仕事が本当に少ない。


 彼女達にとって、檳榔西施とは、元手がほとんどかからない上に、自分自身の能力次第でそれなりのお金を稼ぐことの出来る、数少ない重要な産業だったのだ。


 だから、檳榔西施業の禁止は、彼女達の生死に関わる問題だった。彼女達は猛然と反対運動をしたが――台湾政府が持つ力は、日本政府のそれとは比べ物にならない。


 その運動はあっという間に沈静化され、街から檳榔西施は消えて行った。



 そして、と高橋さんは言った。


「私が話すのは、その――街から消えた筈の、檳榔西施についての話です」




 つい先日のこと、彼は商用で台北郊外にある中和という街を訪れた。


 そこは、彼が台湾に移住したばかりの時に住んでいた街だったが、そこから引っ越して以降、一度も訪れることはなかった。だからそれは、実に三十年ぶりの訪問だった。


 そしてその日の仕事が早く終わったため、彼は、かつて自分がよく散歩していたコースを歩いてみることにした。


 しかし、変化の激しい台北のことだ、街は完全に様変わりしていた――住んでいたアパートは四十七階建てのタワーマンションに生まれ変わり、行きつけだった安食堂も回転寿司屋に生まれ変わり、その店頭には『スシロー』というカタカナの踊る巨大な看板がかかっていた。


 けれども、ある裏道に入ったところで、彼は驚いて立ち止まった。


 そこには、見覚えのある『檳榔』という看板と、ガラス張りのボックスがあった――共にひどく汚れてはいるものの、確かに営業中であるらしく、中から光が漏れている。それは間違いなく、彼の記憶にある檳榔屋――彼が親しくしていた檳榔西施のいる、その檳榔屋だった。


 確かに、檳榔の吐き捨ては禁じられ、檳榔西施は追放されたものの、檳榔そのものが禁止された訳ではない。売り上げは激減しているとはいえ、今でも郊外や高速道路のインターチェンジなどでは、露出のない普通の格好をした女性が、唾液を吐き入れるためのコップをつけて、檳榔を販売している。


 けれども、その檳榔屋がまだ健在であることには、彼はひどく驚いた。


 何せ、檳榔が社会問題化するはるか以前から、その店の檳榔はまるで売れていなかったからだ。


 そこは国道ではなくその側道沿い、道路は舗装もされておらず、周囲は草が伸び放題の空き地だった――車通りはおろか、人通りさえも殆どないような場所だったのだから、それもどうしようもないことだった。


 しかも、今でもその店の前の道路は舗装もされていないし、周囲は空き地のままだった。だから、その場所の檳榔店がまだ生き残っているというのは、酷く意外なことだった。


 彼はその店に近づきながら、まさか、と思った。


 まさか、あの檳榔西施がまだそこに座ってはいないだろうな、と。


 

 三十年前、彼が親しくしていたその檳榔西施――当時既に五十は過ぎていただろう、それでも露出の激しい格好で頑張っていた女主人は、常に暇そうにしていたものだった。


 だから、台湾に身一つで飛び込んだばかり、仕事もなければ友人もおらず、暇にあかせて家の周囲の散歩ばかりしていた彼が、その檳榔西施と顔馴染みになり、やがてボックス内で腰を落ち着けて会話をするようになるまで、それほど時間はかからなかった。


 エアコンなどのない、ボロボロの扇風機がけたたましい音をたてて回るだけのその暑いボックス内で、日本語の話せない檳榔西施と、中国語の話せない彼は、身振り手振りを交えて様々な話をした。


 客の来ないボックスの中で、彼女の渡す檳榔を噛み、そして道端に赤い唾液を吐き捨てながら、お互いの身の上話や将来の夢、日本や台湾の紹介など、二人は毎日、色んなことを語り合った。


 けれども、そんな日々は突然終わった。突然彼の仕事が決まり、一気に暇がなくなったからだ。週休一日でしかも半ば肉体労働、慣れない異国暮らしもあって、疲れ果てていた彼には、休日でさえ散歩に出かけるような気力が湧かなかった。


 そして、その檳榔西施と会わないままに時間が過ぎた。やがて、彼女の存在すら忘れた頃――彼は仕事の都合で都心部に引っ越すこととなった。


 以降三十年間、彼がその街に来ることはなかった。





 そんな彼は、三十年ぶりにその店を見て、思った。


 ――もしかしたら、今でもあの店の中に、あの檳榔西施が座っているのではないか。



 もしそうだとしたら、彼女はもう八十代になっているだろう。


 それでも――彼女は相変わらず露出の多い格好をして、相変わらず暇そうにしている――そんな姿が、彼の脳裏にありありと浮かんできた。もしそうだったら――こんな嬉しいことはない。


 彼は足を速めて、その店に近づいた。


 ボックスの中で、一人の女性が暇そうに腰かけていた。

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