第4話 鬼の住む山


 台湾で一番有名な妖怪は芒神――魔神仔とも表記する――です、と陳さんは言った。


「私の世代の子供達は皆、芒神の恐ろしさを何度も何度も聞かされたものです」


 頭の大きな幼児のような外見で赤い髪をしている。手は蛙のよう、舌は蛇のよう。そして山の中に迷い込んだ人を攫い、全身の血を抜き取って殺す。


 多分、と陳さんは言った。


「台湾の山は、昔はとても危険な場所でした。クマや野犬などの害獣の他に、原住民がいましたからね。だから、山には絶対に近づかないように――人々にそう言い聞かせる為に、この妖怪を作り出したのでしょう」


 原住民とは、漢民族が台湾に渡って来るよりも遥か以前からそこに住んでいた、南方系の人々だ。主に山間の高地に住み、狩猟や採取等をして暮らしていた。漢民族と交流を持つことは殆どない上に、出草――通りがかった相手の首をはねて持ち帰る、所謂首狩りだ――という習慣まであったのだから、とにかく恐ろしい存在だった。


「だから、日本の統治が始まり、原住民が日本に服従した頃から、山は安全な場所にと変わり――その分、芒神も存在感がなくなりましたね」


 今の台湾の子供達は、ジバニャンは知っていても芒神は知りません、と陳さんは笑った。


「それでも、現代――五十年前、その妖怪の存在が、大きくクローズアップされた、不思議な出来事があるんです」


 台湾中部でのことです、と陳さんは言った。


 *


 一九七二年のことだ。その年八月、邱高という名の青年をリーダーとした大学生三人が、標高三千六百メートルの高峰、奇萊山登山に挑んだ。奇萊山はやや危険な山として知られていたが、彼らは十分な登山経験を積んだ若者達であり、周囲の人々は特に心配はしていなかった。


 しかし、下山予定日である五日目を過ぎても、三人は戻って来なかった。当初は、予定が遅れているだけか、そのままどこかに遊びに行っているだけだろうと、人々は楽観視していたのだが――十日経って戻って来ないことで、ようやく捜索願が出された。警察はすぐさま救助隊を組んだ。人々は考えた、三人は山中のどこかで遭難したのだろう、そしてどこかで救助を待っているのだろう――幸い季節は夏、高山であるとはいえ、若者の体力なら生き延びている可能性は十分ある。捜索隊は山道へ急行した。 


 しかしそこで捜索隊が見たものは、ごくごく意外なものだった――三人の姿はどこにもなかった。その代わりに、登山道具一式が見つかったのだ――乾電池、乾麺などの非常食、胃腸薬、タオルや衣類、ロープ、マッチ、懐中電灯、ストック等々――登山道具一式が、山道上に散らばっていたのだ。さらに詳しく調べると、周囲の土の上には乱れた幾つもの足跡があった――そしてそれは山道を逸れ、森の中へと向かい、そこでプツリと途切れていた。


 これを見た人々はひたすらに困惑した。滑落してバッグが破れた等であれば、登山道具が散乱するのも分かる。けれどもそこは険しくもない山道上、滑落の跡などどこにもない。誰かがバッグを逆さにして中身をぶちまけた――そうとしか思えない。けれども、何故そんなことをしたのか?


 議論の挙句、捜索隊は一つの推論を立てた――登山中、彼らは何らかの理由で登山道具のチェックを行っていた。するとそこに何か恐ろしい物が現れ――恐らく熊だ――彼らは大慌てでそれら放置して森に逃げ込んだ。そしてそのまま道を見失い、登山道具の回収も出来ぬまま遭難してしまったのではないか。と。


 そう判断した彼らは、森の中を懸命に捜索した。けれども、三日が過ぎ一週間が経ち二週間が経過しても――痕跡一つ見つからなかった。消息を絶ってから一か月、山は急速に冷え込み始め、雪さえちらつき始めた――これ以上の捜索は危険であるし、何より最早生存の望みなしと、ついに捜索の終了が決定された。


 しかしその最終日、ある捜索隊員が思わぬ発見をした――森深くの大木の根元に、二人分のジャケット、身分証、博物館の入場券が落ちていたのだ。それらを詳しく改めてみると、ジャケットも身分証も間違いなく失踪した三人中二人のものだった。興奮した隊員は、さらに博物館の入場券を子細に眺めてみて――その裏に短い文章が記されているのを見つけた。それは乱雑な筆跡ではあったが、辛うじてこう読めた。


 芒神在這里――芒神がここにいる。


 芒神とは、山中に迷い込んだ人を攫うと信じられている、著名な妖怪の名前だった。これを読んだ隊員は酷く怯えたが――ただ、大学生たちは何か幻覚を見ただけだろう、とにかくここに彼らが迷い込んでいたことは確かなのだから、と自らを励まし、仲間を呼び寄せて、その場所を中心に懸命の捜索を続けた。上着を置いて遠くまで行くはずがない――生死はともかくとして、近くに彼らがいる筈だ。人々はさらなる熱意をもって、三人の行方を探した。


 ――けれども、どれだけ探しても彼らの姿は見えず、足音一つ見つからなかった。

 ただ、その代わりに、捜索隊は酷く奇妙な物を見つけた――地面に刺さった、三膳の箸。


 それが何を意味しているのかは分からなかったし、誰がやったのかもまるで分からなかった――ただ、それを見た一人が言った。これは、芒神が三人を殺した上で、三人の魂を祀る為に箸を突き刺したものなのではないか、と。その意見に反対するものは一人もおらず――ただ彼らは、最早三人が見つかることはないと確信した。そうして、捜索は完全に終了したのだった。


 ――そして、十年近くの時が過ぎた。勿論三人が生きて帰って来ることもなく、奇萊山の登山者が三人の痕跡を見つけることもなかった。三人の姿はこの世から完全に消え失せたようで、それに応じて三人の記憶も人々の間から失われて行った。


 しかし――一九八一年、人々は突如三人のことを――そして、芒神のことを、思い出すことになった。


 そのきっかけは、一枚の写真だった。ある登山家が、奇妙な写真が撮れたと言い、それをテレビ局に持ち込んだの。それを見せるにあたって、登山家は断言した――周囲には絶対に他の人はいなかった、と。確かに、台湾において高地登山をするには、当局の許可が必要になる。そしてその日には、その登山家以外の入山者は一人もいなかったのだ。


 そんな状況で撮ったその写真には――登山家のすぐ後ろに、一人の人物の姿がはっきり映っていたのだ。そして、いる筈のないその人物は、奇妙なジャケットをまとっていた――緑色の、特別なデザインのものを。


 その写真を見たある女性は、すぐにテレビ局に電話をかけ、そして言った――これは十年前に山で消えた息子・邱高が着ていたものだ。このデザインのこの色のジャケットは、十年前に販売停止になっており、今持っている人などいない筈だし――何より、三人の遭難者の中で唯一、邱高のジャケットだけが見つかっていなかったのだ。


 そう、つまりその写真の人物は――芒神にさらわれた邱高が、三十年が過ぎた今でも、奇萊山の中をただ彷徨っている姿なのだ、と。

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