第5話 教授と女助教授の密会
夕闇が窓ガラスを染めている。外では学生たちの足音が遠くに散り、大学は日常の喧騒から静けさへと移り変わっていた。
山城宗一郎教授の研究室は、大学の古びた建物の一角にある。分厚い書籍が天井まで積まれ、机には原稿と論文の束が無秩序に広がっていた。書斎独特のインクの匂いと、古い紙が湿った空気に重なっている。
「……また、書いたんですか?」
女助教授・一条由美子は、壁際に立って一枚の原稿を手にしていた。白いブラウスの袖をまくり、黒いタイトスカートのシルエットが黄昏の光に浮かび上がる。彼女の声は抑えられていたが、その底には揶揄と批判が含まれている。
「虚構の迷宮、ねぇ。論文のつもりかしら。あなた、最近の文章、ほとんど……小説だわ」
「君は相変わらず鋭いな」
山城教授は苦笑した。スーツの上着は椅子に掛けられ、シャツの袖口は雑に折り返されている。彼の眼鏡の奥にある目は、疲れているはずなのにどこか生気を帯びていた。
「論文が小説のようだと? それは褒め言葉として受け取ろう」
「違うわ、皮肉よ」
由美子はテーブルに原稿を放り投げた。表紙には、先ほどまでの彼女の手の跡が残っている。
『虚構の迷宮:ホワイダニット小説におけるメタフィクションの試み』
「神崎透? 無名の作家崩れの死を、どうしてここまで大仰に論じるの?」
「それは彼が……物語の境界に触れたからだよ」
山城の声は落ち着いていたが、その中に熱が潜んでいる。
「神崎透は書いた。『英雄再誕の彼方へ』という物語を。そしてその物語は、彼自身を取り込み、彼を殺し、さらに『影の筆跡』として書き換えられた。それが何を意味するか、分かるか?」
「物語が現実を……侵食したと?」
「そうだ」
由美子はふっと笑い、髪を耳にかける。その仕草にわずかな挑発が混じる。
「山城先生、あなた、自分でも気づいているんでしょう? これはただの論文じゃない。あなたが書いた“物語”よ」
「……どういう意味だ?」
「書かれた内容が現実を超え、あるいは現実を歪める。あなたの論文だって、どこかで誰かが“フィクション”だと疑うかもしれない。だって、作家の死、探偵の仮説、ラノベの虚構……全部あなたが書いたみたいじゃない?」
山城の目が一瞬だけ鋭くなる。
「面白い仮説だな」
「否定しないの?」
「否定して、どうなる?」
由美子は山城をじっと見つめる。その瞳には微かな怒りと、それ以上に抗い難いものが滲んでいた。
「あなたの論文の中には、作家・神崎透がいて、探偵・月村がいて、勇者リオンがいる。でも彼らは、どこにも存在しない。 それなのに、どうしてこんなにも……生々しいの?」
「それは、彼らが私の中にいるからだ」
「……何?」
山城はゆっくりと立ち上がった。シャツの皺が光の中で浮き立つ。彼は机に手をつき、由美子を見下ろす。
「作家、探偵、異世界の勇者——すべては私が書いたのだよ」
山城の声には静かな確信があった。まるで神のように、彼はそう言い放った。
由美子の背筋が寒気に包まれた。目の前の男の姿が、瞬間的に薄い紙の向こう側にいるように見えたからだ。
「……冗談、でしょう?」
「冗談だと思うか? ならばそれでいい。君が決めればいいさ、何が現実で、何が虚構なのか」
山城は微笑みながら由美子に近づく。その指先が彼女の頬を撫でた。彼女はその手を振り払うべきだと頭では分かっていたが、体は動かなかった。
「あなたは……何をしているの?」
「何を、だって? この物語を書いているのさ」
彼は耳元で囁く。
「すべては書かれた筋書きだよ、由美子。君も、私も、彼らも——」
その夜、大学の研究室の窓には灯りが残っていた。
外から見上げた者には、シルエットが重なり合い、静かに動いているように見えるだろう。
部屋の中、机の上には『虚構の迷宮』の原稿が無造作に置かれ、風がカーテンを揺らしていた。
その原稿の最後のページには、まだ誰にも読まれていない一文が書かれている。
「全ては書かれ、そして書き換えられる。」
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