仮面の作り方・2

翌日、雪音はいつも通り自分の教室へと向かう。扉を開け、自分の席に着いて教科書類を机の引き出しに入れる――いつも通りの行動だ。

 

 櫻川雪音という少女は、端的に換言してしまえば「陰キャ」と呼ばれる類の人種である。

 友達と呼べる存在はいない訳ではないが、基本的に自分から話しかける事は無い。話す事が苦手な訳では無い。ただ、積極性が欠落しているだけなのだ。


 だから今日も、十五年間培われてきた消極性を身に纏いながら小説を読み始める。

 ――が、今回は少し違った。


「…………」


 時折小説から目を離し、教室を見渡す。そして、また小説に視線を落とす。

 見渡し、目線を逸らす――その繰り返し。雪音はクラスメイト達の様子を観察していた。


 バカ騒ぎする男子、昨日のドラマについて語り合う女子、机に突っ伏して寝る男子、真面目に授業の予習をする女子――皆、それぞれ違った行動をしている。最初は皆、ぎこちない雰囲気であったが、ひと月も経過すればその凝った雰囲気も解消されるものだ。


 雪音はそんな緩み切った光景を、機械的にひたすらに観察していた。


「〝理想の存在〟……」


 昨日の保科の言葉を反芻する。雪音は今、その〝理想の存在〟を探しているのだ。令名な劇団の歌姫も、数多の舞台を乗り越えてきた歴戦の俳優も、何故か雪音の心を揺るがす事は無く、そのせいであまり眠れずにいた。


 早く、早く上達したい――早く、演者として花開きたい。その願望が、執念が、雪音の思考を加速させていた。名誉ある存在が〝理想〟として雪音の瞳に映らなかった。


 であるなら、それはきっと身近にいるのではないかと、彼女は思った。灯台下暗し、と言う訳だ。だからまずは、クラスメイト達の中から探し出して見せる。自分の心を奮い立たせ、輝ける〝理想の存在〟を。


 だが、現時点ではそれは見当たらない。確かにこのクラスには容姿が整った爽やかな男子や可憐な顔立ちと仕草の女子などと言った、眉目秀麗で風光明媚な人もいる。しかし、雪音の心は未だ光を得ていない。


「……近くにいると思ったんだけどなぁ」


 雪音は嘆息する。やはり〝理想の存在〟と言うものは、簡単には現れないものなのだろうか。もしかしたら永遠に見つけられないのではないか――そんな不安すら感じてしまう。


 少なくともこの教室にはいないと見切りをつけて、雪音は本に視線を落とす。

 

 が、次の瞬間。

 ――ガラガラ、と後ろの扉が開かれる。女子の一部が振り向くと、彼女たちは嬉しそうにその扉を開けた主に手を振った。


「あ、凪奈! おっはよー‼」


 そこにいたのは、絵画から飛び出してきた天使のような少女であった。麦穂色の艶やかな長髪と垂れ目気味な琥珀色の双眸、そしてミロのヴィーナスを髣髴とさせるような整った体格と顔立ち。そして纏う雰囲気は太陽そのもの。可憐で絢爛な金木犀を思わせるその微笑みは、誰もが見惚れるものであった。


「おはよ。あ、優菜もしかして髪切った? 雰囲気が何か爽やかだね」


「分かる~? 伸びてきたからせっかくなら今までと違った髪型にしたくてさ~」


「うん、ボブカットも可愛かったけど、ウルフカットだとカッコよく見えるよ」


「えへへ~」


「そう言えば聞いた? 昨日、数学の浅野が――」


 と、先程までよりもずっと空間が活気に溢れる。女子は彼女に寄って談笑し、男子は遠巻きからその輝ける少女を羨望と憧憬の眼差しを向けていた。


 ――鏑木凪奈かぶらぎなな

 それが、彼女の名前である。このクラスの委員長を務め、生徒教師問わずあらゆる人々から人気を博している完璧超人である。容姿端麗で、質実剛健。文武両道で、才色兼備。誰にでも明るく優しく接し、時にお茶目な姿も見せる可愛らしさを振り撒く。


 その高嶺の花に手を伸ばそうとする輩も当然いて、この薊が丘高校でもイケメンと評判の先輩も告白していたが、悉く玉砕した。言葉は交わせる、友情は育める。だけど、その先へと踏み入る事は出来ない。檻に隔てられた獅子のよう、あるいは御簾の先に座する姫君のような、手に届きそうで届かない、もどかしく、美しい存在。


 ヴェールに覆われた太陽――それが、鏑木凪奈と言う少女なのだ。


「凪奈、聞いたよ? また告白されたんでしょ? それも、バスケ部の藤原でしょ?」


「うん……まぁでも、断っちゃったけどね」


「どうして彼氏作ろうって思わないの? タイプな男子とかいないの? 先生とかでもさ」


「いないなぁ……いや別に嫌いなわけじゃないよ! 皆一生懸命で、カッコいい所もあると思うよ? 思うけど……うーん」


「やっぱりあれ? 恋愛に興味が無い的な?」


「それもあるけど……」


 凪奈は次に、破顔してこう答えた。



「私、思ったよりも普通だから……皆の色鮮やかな人生を汚しそうで怖い……みたいな?」



 ――これだ。

 ああ、これが、これだ。

 雪音は今、感じた事の無い新鮮さの、清々しさの水槽に浸った。


「ええ~? 意味わかんな~い」


「あはは、自分でも何言ってるか分かんないや」


 凪奈はお道化てそう答える。他の生徒も笑い合う。そうしてチャイムが鳴り響き、各々席に着いて授業の始まりを待つ。


 一方で、雪音は心ここに在らずと言わんばかりに机をじっと見つめていた。

 読んでいた小説が、気付けば最後のページまで捲れていた。虚無感に襲われたような表情をしているが、実際彼女はそれとは対照的な、極限なまでの充足感に襲われていた。


 先輩たる保科の助言――「〝理想の存在〟を見つける事」――それを今、櫻川雪音は達成したのだ。


 驕らず、謙虚に。誰かを讃え、慈しむ。ずっと楽しそうに、微笑んでいる。

 そんな姿に、雪音は見惚れてしまった。最早、初恋と呼んでもいい。今まで、どんな迫真の演技を見ようとも、どんなに上手い演技を目の当たりにしようと、全ては「凄い」という憧憬の念に留まっていた。


 だが、改めて周囲を観察して――周囲に気を配る事で、彼女はようやく憧憬と言う名の障壁を越えて、明確なる欲望の領域へと足を踏み入れた。「こうなりたい」と言う願望へと昇華したのだ。それは雪音にとって、初めての感覚であった。


 ――ああ、これならきっとより演技が上手くなる。

 そうだ、あの子の――鏑木さんの真似をすればいいんだ。そうすればきっと、私もああ言う風に綺麗で、優しくて、謙虚な子になれる。そして、演技の質も上がるはずだ。


 雪音は理解した。〝理想の存在〟の意義を。そうなりたいと、そうあれかしと願う事で、動く事できっと、次なる段階へと進めると。


 まずはノートを取り出した。授業で使うノートだ。これを破って、それからシャーペンを手に取る。そうして――書き出す。ただひたすらに、鏑木凪奈の姿の一瞬を。一挙手一投足を、全てを、ひたすらに書き記していく。


「絶対に、なってみせる……っ‼」


 ――こうして、櫻川雪音の〝理想〟へと至る為の道が開けた。

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