第四節 部屋
すぐに帰ってもらうつもりだった。
私の部屋には人が寛げる用意もないし、そもそも人を家に上げること自体、前例がなかった。
私のルールとして。他人はどこか汚いものだという意識があったのだろう。
「美咲さんの部屋の消毒ルールを教えてくれる?」
「そうですね……外から戻ったときはまず玄関で顔よりも下全体に消毒スプレーをかけて、それから洗面所で手を洗ってすぐに着替え。洗顔もして、できればそのままお風呂。私のルーチンはこんな感じです」
「わかったわ」
わかったわ、じゃない。
鍵で玄関のドアを開けて、お礼をして別れるべきところでこのルール説明を挟んだものだから。タイミングを逃してしまった。
「……ちょ、ちょっと待って。そもそも貴女は望月先生の、恋人ですよね?」
言っている間に、闇村さんは消毒スプレーを全身にかけ始めている。
シュー、シュー、とスプレーの音が何度もする中、闇村さんはどこか悪戯っぽく笑った。
「美咲さんが、私を部屋に上げたくない理由って、私が真昼の恋人だから? 後ろめたい?」
「……何を言って。望月先生に後ろめたく思うようなことなんて何もない、です」
「じゃあ、ほかに何か理由はある?」
…………。
…………。
闇村さんを部屋に上げたくない理由。
考えても、思い浮かばない。
思い浮かばないことが、不思議だった。
他人は汚いものなのに――それなのに。
この女性に対しては、嫌悪感がなかったし、むしろ。
もう少しだけ、いてほしいと思う自分がいて。
それが本当は、とてもとても後ろめたかった。
「美咲さんとほとんど同じサイズで良かった」
「……」
「胸はちょっときついけどね」
「……う、うるさい」
冗談めかす闇村さんに、小声で悪態を吐く。
私の予備パジャマを着ている闇村さんは、胸元が窮屈そうだ。
いや、そんな――そんなことよりも。
「泊まっていくとは聞いてません……」
「お風呂にまで入れさせておいて、この格好で帰れって言うの?」
ワンルームの狭いアパートで、布団だって一組しかない。
鏡の前で、ドライヤーで髪を乾かす闇村さん。私は部屋の隅の布団の上で座り込んでいる。余裕のある闇村さんに対して、どうしていいかわからない。
「や、やっぱり泊めるのは無理……悪いけれど……」
「どうして? 私が寝込みを襲う女に見える?」
「はっきり言うけど、見えるわ……」
半分の不安はそれだ。望月先生に悪い。既に部屋に上げてしまった後ろめたさもある。
そしてもう半分は、バレッタのこと。私の潔癖症のことだ。
先程もお風呂の鍵をかけて入浴したけれど、気が気じゃなかった。
眠る時だって、バレッタは外す。
私はその時、冷静であれるかわからない。
この自室を綺麗な空間に保っているのは、バレッタを外すため、といっても過言ではない。
遮光カーテンにして、騒音が聞こえないようにノイズキャンセリングのイヤホンもする。外からの刺激をできる限り入れないようにして。
そうして私は毎日、束の間の安寧を得るのだ。
しばらくドライヤーだけが部屋の中でごうごうと音を立てていたが、やがてそれも止んだ。
「終わりましたか?」
ドライヤーを片付けようと思って立ち上がる。髪を梳かしている闇村さんは「ありがとう」と、私にドライヤーを渡した。
「髪を梳かした後は、櫛を綺麗にしてください。あと、床も粘着クリーナーでころころってしておいてもらえると助かります」
「わかったわ。……ふふ」
受け取って所定の位置に戻し、笑みを浮かべている闇村さんに「何?」と問う。
「ううん。美咲って、注文が多いから一緒に暮らすの大変そうって思っただけ」
ドキッとした。
でも、それは。
そんなことはありえないでしょう。
一瞬でも想像で思い描いてしまった自分が恥ずかしい。
「そんな予定ないからいいんです。ほら、髪も乾いたでしょ」
少しだけ、少しだけ勇気を奮って、そして背後から闇村さんの肩に手を置いて。
「――――帰って」
ころころは私がしておくから。
だから、お願いだから帰って。
じゃないと、このままだと。怖くて。
自分が自分じゃなくなりそうで。
望月先生のことも裏切ってしまう。
「ねえ、美咲」
「っ……」
闇村さんの手が、私の手に重なった。
鏡越しに、視線が合って。彼女は優しく微笑んだ。
その微笑みは、罪深く、私を、許していく。
「私の本音を言うわね。今、とっても、美咲のことを抱きたいと思ってる」
「……やっぱり、貴女も穢らわしいのね……」
「本当にそう思ってる? 美咲も私に抱かれたいって、本当は思ってない?」
――――……そんな、こと。
「ち、違う。……私はそんな穢れたことはしない」
「それ。美咲にとっての穢れってなぁに?」
「……」
穢れが何かって、それは。
世界中にあるものだ。
だけど。
闇村さんの手と私の手が触れて、伝わってくる体温に、思考が麻痺してしまう。
「聞き方を変えるわね。美咲が私に対して嫌悪感があったなら、部屋に入れることをしなかったと思う。……美咲が嫌いなのは、汚いもの、でしょ?」
「…………、そうね」
今になって、望月先生の言葉が理解できた。
『闇村さんのこと、綺麗だと思いませんか?』
あれは恋人の自慢なんかじゃ、ない。
本当に闇村さんのことを、綺麗だと思っている人の、率直な思いだ。
望月先生は私にそれを共有したくて、闇村さんを紹介した?
本意はわからないけれど。
今私も、怖いくらいに感じている。
闇村さんは、なんて綺麗なんだろう――と。
「……闇村さん。……触れても、いいですか?」
「ええ、勿論よ」
座っている闇村さんの黒髪をひと束そっと手で掬う。
お風呂上がりでさらさらの髪は、絹のように滑らかで、私の指先から逃げていく。
「……っ」
逃げられると、もっと、欲しくなる。
膝をついて、恐る恐る闇村さんの体に背後から手を回して、そうしたら彼女の手が、大丈夫というように導いてくれたから、ぎゅっと抱きしめた。
「闇村さんはどうして、自分が綺麗だって自覚があるんですか?」
「美咲に好きになってもらえるように振舞った。だからかしら」
「私が好きに……?」
「そう。美咲は私に恋をしようとしてる。……私は貴女みたいな女性に甘いの。とびきり甘く接するわ。……そうさせたのは美咲。だから、私自身が美しいのではなくて、美咲の見え方が変わったという方が正しいわね」
闇村さんとの初対面は――落ち着いている女性だ、という印象くらいだったけれど。
今は違う。自分でもおかしいとは思う。こんな短期間で、一人の女性のことが心を占めるなんて、信じがたい現象だ。
抱きしめていると、良い香りがする。闇村さんがゆっくりと体重をかけてくれるから、私も彼女に寄り添うように、密着する。支え合って「人」の字になるように。
闇村さんのことを背後から抱きしめている自分が、鏡に映っているのを見ると、何とも言えないむず痒さが湧き上がる。自分が人とこんなふうに甘い行為に及ぶ想像がつかなかったから。
見せつけられるようで、それなのに不思議と、絵になるなと他人事のように思えてしまう私はどこかおかしいのかもしれない。
「そうだ。私が美咲の部屋に上がったのには、一つ目的があったの」
「何?」
目的と言われてもピンとこなくて問いかけると、彼女は私を見上げた後、ゆるりと室内を観察するように視線を動かしていた。
「うん。美咲の部屋が、美しい部屋だという前提よ」
「……?」
「美咲は、この部屋でならバレッタを外して眠れるし、シャワーも浴びられる。そうよね。それなら、この部屋で好きな人と一緒なら、バレッタを外せるんじゃないかと思ったのよ」
「……バレッタを外す? でもそれは……」
怖い、と小さく言いかけた私を、彼女の優しい笑みが制した。
「実際にやってみましょう」
彼女が促すままに腕を解く。これから何をするのだろう。
その疑問に答えるように彼女は一つ一つを説明した。
「美咲。今から一緒に横になっていい?」
「ええ」
「……そのまま、美咲にキスしてもいい?」
「え、ええ」
「じゃあ、言ったとおりにするわね」
言葉で説明されると、想像してしまってそれだけで頭が痺れるような感覚がするのに。
実際に敷布団に横になって腕を伸ばした彼女が手招く。
どうしよう。心拍数が、ずっと落ち着かない。
「し、失礼します……」
その体に寄り添って身を横たえた。
腕枕をされるような形になって、恥ずかしい。
近い距離で、視線が交わると、闇村さんは柔らかく相好を崩す。
「――っ」
……その顔を見て、きゅっと心が震えた。
甘い疼きに襲われる。
それを言語化するならば。彼女のことが、好きだ、と、思った。
見とれていると顔が近づいてきて、触れる直前に囁く。
「美咲、目を閉じてみて」
「ん……」
言われれるままに目を閉じていると、ふわりと唇に柔らかい感触があった。
唇の感触が一瞬離れたけれど、すぐに降りてくる。優しいキス。
目を閉じたまま、そんな口づけをしばらく受けていた頃に。
「……あ」
ぱちん、と音がして私は驚いて目を開く。
闇村さんが私のバレッタを外した音だとすぐにわかった。
「美咲」
――――、……目の前で微笑む貴女は、変わらずに優しかった。
「ほら、できた。……大丈夫よ、何も怖くない」
「ん……闇村さん……」
本当だ。
私、バレッタなしでも、人と触れ合っている。
世界への恐怖に、今、一人ではなく二人で、打ち勝てている。
ただ、目の前に好きな人の顔があることは、少し落ち着かなくて。
「……あの」
少し熱い吐息を漏らしていることが、恥ずかしい。
闇村さんは私の髪を梳くように撫で「なぁに?」と額をくっつける。
「綺麗です。とても、きれい……」
「ふふ。……美咲も綺麗よ」
闇村さんの体に更に身を寄せて密着すると、腕枕をしていた手に、自分の手を重ねて。恋人のように繋ぎあわせ、固く結んだ。
この部屋にあるのは、綺麗なものばかり。
ピカピカのデスク、毎日替えるシーツ、隅々まで掃除した床、曇りのない鏡。
闇村さんも、本当に綺麗で。
――ああ、この世界の全てが、こんなふうだったらいいのに。
そんなありえないことも、闇村さんなら叶えてくれそうな気がして。
私は彼女に愛されたくて、彼女を愛したいと思った。
だからこうして溺れていく。
「美咲。私だけのものになってくれる?」
ピロートークで私に向けられた問いかけに、私は躊躇いなく頷いた。
狭い布団の中で身を寄せ合って、間近にある体温をこんなにも感じている。
「貴女が私に綺麗な世界を見せてくれるなら、お望みのままに。――でも闇村さんは、私だけを愛さないんでしょう?」
「わかるのね、美咲には」
けれど、そう、わかっていた。闇村さんが望月先生を裏切ったわけではないことを。
そしておそらく望月先生も、私たちのこの関係を、容認するのだろう。
「望月先生は、私と同じだったもの」
車の中で見た望月先生の横顔と、さっき鏡で見た己の顔は――同じ人に、恋をしている、熱のこもった瞳をしていた。望月先生が、闇村さんのことを『綺麗』だと言って私に紹介してきたのは、あの人がとんでもないお人好しだったからだ。私のことを本気で心配して、『綺麗』のお裾分けをしてくれただけなのだ。
そんな望月先生から、闇村さんを奪い取ろうだなんて思わない。でも同じように愛は欲しい。
そんなことが叶うのかしらと、少し不思議にも思うけれど――
穏やかに微笑む闇村さんを見ていると、嫉妬だとか、独占欲だとか、そんなもの以上の思いを抱かされる。
「いつも一緒にいられなくてもいい。でも一瞬でも長く一緒にいたい。そういう気持ちが、痛いほどにわかる」
「……そう」
微苦笑する闇村さんの体を抱きしめる。
その背中、背骨のラインをつっと指先で辿って、丁度心臓の裏側辺りに、軽く爪を立てた。
「私と望月先生は大丈夫だと思うけれど……いつか刺されないように、女遊びはほどほどにしてくださいね」
肌を通じて、その奥にある鼓動を聞く。貴女がもしいなくなったら、この音が聞こえなくなってしまったら。どれだけの女性が泣くのだろうな。
「あら、心外ね。遊びじゃないわ。ちゃんと、愛してるんだから」
「……そう言うと思った」
私は肩を揺らして笑う。
この愛が、嘘や偽りでもいい。
私は騙されているだけだとしても、それでもいい。
貴女に満たされている時。
私の目に映る世界は、間違いなく、美しいのだから。
貴女がくれる愛は、綺麗だった。
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