第三節 車

「恋人同士よ」

 闇村さんの言葉は優しい色をしていた。

 望月先生はそんな闇村さんを見つめては、やがて気恥ずかしそうに俯く。

 ああ、そういうことか。

 雨の日に迎えに来てくれる相手。――しかもこんな高級なスポーツカーで。

 女性からすれば理想のシチュエーションだろう。

「……なんだかごめんなさい。私、完全に」

 お邪魔虫よねと、言いかけた私に、望月先生が声を上げる。

「穂村さんのことを、闇村さんに紹介したかったのは私の本音なんです。もし嫌でなければ、穂村さんの症状のことを闇村さんに話してもいいですか?」

「別に構わないけれど、ここで話す必要ある?」

 別に不貞腐れてはいない。

 ただ恋人との会話で人の病気を話題にするのもどうかとは少し思うし。恋人同士の二人を邪魔するのは悪いので、後部座席で一人になっておいた方がまだいいかと思っただけだ。

 そんな私のことを思っているのかいないのか、望月先生はぎゅっとシートベルトに掴まりながら、顔をこちらに向けようとする。

「あの! 穂村さんに聞きたかったんです。今現在どう感じているかを知りたくて」

「何を?」

「闇村さんのこと、綺麗だと思いませんか?」

「……は?」

 望月先生の言い方に、思わず刺々しく聞き返してしまった。

 惚気けたかったのなら、私じゃなくてもいいのに。どうして患者を、恋人の車に連れ込んで、わざわざ自慢するような真似を――。

「真昼、ストップ。その言い方じゃ穂村さんも混乱すると思うわよ」

「あ、えっと……すみません」

 闇村さんに諌められて、望月先生は暴走を止める。

 そして代わりに闇村さんが、バックミラー越しに私と視線を合わせた。

「ねえ、穂村さん。良かったら聞かせてもらえる? 貴女が何に悩んでいるのか。貴女がどんな症状に苛まれているのか。一助になれるかはわからないけれど」

「……知りたいですか? つまらない話ですけど」


 少しいやいやではあったけれど、私は自分が潔癖症であることと。そして、蝶々のバレッタが、抑制装置のような役割をしているという秘密について話して聞かせた。以前のカウンセリングで、バレッタの秘密をお医者様に伝えないでほしいと言ったのは、それが本当に気が触れている人間の言動だと思われたら嫌だったからだ。

 闇村さんには強制入院や逮捕の権限もないだろうから、隠す必要もない。言わなかったところで、望月先生が話さないとも限らないし。


「――穂村さん、お話してくださってありがとうございます。それでは私はお先に失礼しますね。またカウンセリングでお会いしましょう」

「え?」

 私の話の間に、闇村さんの運転する車は住宅地へと移動していた。

 停車した車と望月先生の言葉に驚いたのは私だ。

「あ、ここ私の家なんですよ。って言っても実家なんですけどね」

「そうじゃなくて。貴女たち恋人なんじゃ……今からデートとか、そういう予定は?」

「いえ、今日は送ってもらうだけだったので大丈夫ですよ」

 全然大丈夫じゃない。第三者の私が言うのもおかしいが、それは恋人としてどうなんだろうか。

「真昼を送ってくるから少しだけ待っててね」

「あ、はい……」

 雨は幾分弱まっていたが、車の外に出た望月先生は、手のひらを上にかざしながら「ひゃー」と悲鳴を上げていた。闇村さんがそれを追ってすぐに傘を差し出す。

 洗練されたエスコートだと思う。

 外見も美しい人だし、身のこなしもそつがない、雰囲気も優しいし、この車を見るだけでもお金持ちだということがわかる。

 二人が家の門の中に消えて、つかの間の別れの時間を楽しんでいるのだろうか。

 そもそも私が同乗しなければ、望月先生はずっと彼女を独占できたのに。どうして私をわざわざ誘ってくれたんだろう。

 そんなことを考えていると、闇村さんは傘をさして戻ってきて、車のドアを開け私に雨が降りかからないようにした上で、促した。

「助手席に移ってもらってもいい?」

「はい」

 後部座席から助手席に移動する、その短い時間でも、傘をさしてくれる。

 自分にこのエスコートを向けられるのはむず痒いが、嫌な感覚ではなかった。

 そして闇村さんも運転席に戻り車を発進させる。


「美咲さんってお仕事は何してるの?」

「一応、事務を。正規雇用ではないですけど」

「そうなのね。お仕事中は、症状は大丈夫?」

「大丈夫というよりは。耐えている、というのが、正しい表現でしょうね。バレッタで抑制していれば、なんとか」

「バレッタをもし外したら――?」

 そう声を潜めて言った闇村さんに、ドキッとして思わず身構える。

 バレッタを外したら大変なことになるだろう。死守せねばならない。

 見ないようにはしているけれど、世界は醜いもので溢れているのだ。

 街中でゴミがポイ捨てされている。煙草の吸殻もそう。有害物質が雨でバラバラに溶け、地面に吸い込まれて、やがてそれは蒸発して雨になる。だから雨は嫌いだ。

 公園のポールは錆っぱなしだし、動物の糞尿の後始末をしない人もいる。

 泥も、ゴミも、汚物も。

 それらの処理に携わる仕事をしている人たちには畏敬の念を抱く。

 私には到底、無理だ。

「外しません。バレッタを外したら、醜悪な世界に耐えられない」

 念押しするように言った。

 汚れと向き合うことは、極力避けたい。

「美咲さんの言う、醜悪なものって。人間も含まれるのよね」

「そうですね。汚れを生み出しているのは人間でもありますから。こういう話をするのも苦手ですけど、人間は生きている限り、汚い。物理的にも、精神的にも」

 人間は代謝をする。老廃物を排出するから、人間は汚い。

 それが私の言う物理的な人間の汚さ。人によって程度の差はあるし、それは生きる上で避けられない汚れでもある。だからこそ妥協もする。例えば私が通勤電車を避けられないことも、自分がトイレに行くことも、嫌だけれど仕方がない。そこは論じても仕方がない。

「精神的な、汚さか」

 闇村さんが復唱したその部分が、私にとっては重要なのだろう。

「……以前、通勤電車で、乗り合わせた女性に痴漢をしようとする男を見たことがあります。相手の気持ちも考えずに、ただ、我欲のままに行動する輩。そんな人間の屑を見た時、心の底から軽蔑して……吐き気がしました。同じ人間として生きていることが恥ずかしかった。ヒールでつま先を思いきり踏んでやりましたが、その靴は捨てました。そういう……人の醜さが、本当に嫌いです」

 思い出しただけでも腹が立って、もやもやする思いを抱いてしまう。

 小さく息を吐いて、変な話でごめんなさい、と付け加えた。

「ううん、話の展開には少しだけ驚いたけれど。美咲さんは、人の悪事を見た時、ちゃんと行動に移せるタイプなのね。面倒事を恐れて看過する人だって多い。でも貴女は、自分の靴を汚してまでも果敢に戦った。それは美しい話だと思うわ」

「そうですか? でも汚れは無尽蔵です。本当にきりがない。……だから見ないふりをするんです。今の話のような耐えられないものはともかく、看過できるものは看過しています。……そのためのバレッタです」

 大抵の汚さは、バレッタがあればなんとか耐えられる。

 私はこれまでそうしてきたように、これからもそうしていくんだろう。


「美咲さんの話を聞いていると、興味深いし、不思議でもある。何が貴女を潔癖にさせているのか。きっかけがあるはずよ。バレッタにも、何か理由があるのだと思う」

 きっかけ。

 もし、きっかけが思い出せたとしても、潔癖が治るかどうかはわからない。

 思い出せない。そもそも私は思い出したいのだろうか。思い出してはいけないことを、無理矢理こじ開けようとしているような。今抱いているのは、そんな苦しさなのではないか。

 闇村さんの関心がバレッタに向いたような気がした。おそらく彼女が思っている以上に、このアクセサリーは、私にとっては大事な役割を果たしている。

「だめですよ。外したら発狂しかねません」

 運転中の彼女が手を伸ばしてくることはないとは知っていたが、手で頭を守るようにガードしてしまう。

「それは、発狂をしたことが、あるってことかしら?」

「……え?」

 不意の問い掛けに、理解が遅れて、少し間が空く。

 私は答えを持たなかった。

 これをつけていなかった時のことを、思い出せない。

 私だって生まれた時から頭に蝶々がとまっているわけではなくて。

 でも――そこを辿ろうとすると、ゾワゾワとした感覚、恐怖感に苛まれて、息が荒くなる。怖い。何か思い出してはいけないことが、あった気がする。

 呼吸が苦しい、肺がぎゅっと締め付けられるような感覚だ。

「美咲さん? 大丈夫? 私の言葉のせいね、ごめんなさい」

「っ、あ……い、いえ……」

 私には蝶々がいる。大丈夫。この子がとまっている限り。

 だけど何故だろう、漠然とした不安感が付きまとう。


「……私のアパート、その駐車場の隣なので。この辺りで大丈夫です」

「だめよ。美咲さんが苦しそうなのに放っておけるわけないでしょ」

「でも――」

 もう家の近くに着いてしまったのに。

 望月先生の恋人である闇村さんに迷惑をかけるわけにいはいかないのに。

 それなのに彼女は、コインパーキングに車を駐車して、車から降りる。

「大丈夫? 立てる?」

 助手席のドアを開けると、先回りしていた闇村さんが傘をさして。

 空いた片手を差し出してくれていた。

「……はい」

 彼女はただ心配してくれているだけ。きっとそうに違いない。

 潔癖で、友達もいない私に、手を差し伸べてくれる人の厚意に甘えたかった。

 この手を取ってしまったら、後戻りできなくなってしまいそうな恐ろしさもある。

 危険だと警鐘を鳴らす私もいるのに。

 少しだけ、もう少しだけと、願うように、彼女の手を取った。

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