第六節 月を望む
闇村さんが紡いだ謝罪の言葉に、一瞬頭が真っ白になった。
その謝罪の意味を理解するよりも先に、彼女の顔が近づいてくる。
「…………?」
わからない。
闇村さんは私のことをどう思っているの?
不安で涙が零れてきて、頬を伝って落ちていく。
闇村さんはそんな私の涙を拭うように、頬に口づけ、涙を唇で掬って、それから私の唇に唇を寄せた。
貴女とのファーストキスは、自分の涙の味だった。
「――……」
どうして、こんなに切ない思いをするの。
闇村さんの唇は柔らかくて、優しい。触れている箇所から伝わってくる体温を感じていると、胸がぎゅっと締め付けられる。
切なくて苦しいのに、嬉しいと思っている私がいる。
ああ、でもこれが慰めのキスなのだとしたら私は哀れだと、そんなことを思って、私から顔を離した。
「私じゃ、だめですか……」
闇村さんは、未練がましく見つめてしまう私を見て、目を細める。
「ううん、だめじゃないの。私も貴女のことが好きよ」
「……え?」
「最初から好みだったから名刺を渡したのよ。可愛かったなんて嘘をついたのも、貴女を揺さぶりたかったからに他ならない。私に何も見せてくれない貴女のことが欲しくなってしまった。……そして、それを見せてくれた貴女をもっと好きになった――これが私の気持ち」
「あ……え、えっと……」
嬉しい。とても嬉しい。それが上手く言葉にならない。
でも、だとしたら、さっきの謝罪は。
闇村さんの腕が伸び、私の体を抱き寄せる。もう一方の手は私の頭を抱いた。
そうして、きつく抱きしめられ、
「んっ」
――深い、キスをされる。
その甘い唇が私をとかしていく。
呼吸が覚束なくなるほどに、熱く求められることは、喜びでもあった。
人の姿がない夜の公園とは言え、こんな公共の場所で深いキスをする背徳感も相まって、ぞく、と痺れるような感覚に襲われた。
「や、みむらさん……」
キスでとろけた私を見て、闇村さんは目を細め、私の唇を指でなぞった。
「あのね。私と貴女は両思いになれるわ。でも、私は、貴女だけを愛することができない」
「……ど、どういうことですか。闇村さん、恋人がいるんですか? 私、フラれるって、ことですか」
「ううん。恋人はいないし、振ったりもしない。貴女をずっとずっと愛してあげる。けれど私の愛を貴女は独占できない」
独占、できない。
心の中で復唱して、それがつらく苦しいことであると理解する。
闇村さんに私だけを見てほしいという願いは当然ある。
でないと私は嫉妬してしまうだろう。
「でも私は、貴女がそれでもいいと頷けるほどに、貴女を愛してあげることもできる」
「――……」
そんなことが可能なのだろうか。
だけれど、まっすぐに目を見つめて、言われてしまったら。
甘言が、例え罠だとしても。
甘い言葉を紡ぐのが闇村さんである限り、私はそれに従うことしかできない。それほどに私は溶かされていた。
「その覚悟があるなら、望月さん、貴女の名前を教えてほしい」
「――名前」
……? ……あれ?
私の名前は、望月真昼だけれど――あれ?
もしかして私、今まで、闇村さんに下の名前を名乗っていない?
そうだ。連絡先交換をしたつもりだったけれど、私が闇村さんから一方的に名刺をもらっただけで、私の名刺は渡していないし、留守電の時だって『望月です。先日は本当にありがとうございました』――あの時初めて苗字を名乗ったんだ。
「ご、ごめんなさい! 私、名乗ってなかった」
「今気づいた? ふふ。だから言ったでしょ。ガードが堅いって」
「そ、それとこれとは別です、本気で気づいてなくて。す、すみません」
慌てふためく私に、闇村さんは笑みを深めた。
綺麗で、彼女の笑みには少女のような可愛らしさもあって、こんな人に愛されるなら……私だけに向けられる愛でなくても、耐えられるかな。
「私の名前は、望月真昼、と言います」
「素敵な名前。だから隠れてたのね。私たち、夜にしか会ってないもの」
確かに、と視線を合わせて、笑い合った。
「闇村さん。呼んでください。私の名前」
「ええ。離さない。愛してるわ、真昼」
「――……私も、離れません。貴女を愛します……」
そうして、深い愛を誓い合うように、どちらからともなく口づけた。
先程から風に吹かれては、カサカサ、と音を立てているものがある。ベンチの闇村さんの向こう側に置いてあるコンビニ袋だ。
「気になってたんですけど、闇村さん何買ってきたんですか?」
「あ、これ?真昼と一緒に食べようと思って。ケーキ」
闇村さんが取り出したのは、コンビニで売っている二切れ入のショートケーキだった。
「早めのクリスマスケーキですか?」
「ああ、違うの。これはね、私の誕生日ケーキ」
「……え? 闇村さん、誕生日なんですか?」
「そうなのよ。今日で二十九歳です」
「そうだったんですか! お誕生日おめでとうございます。もっと早く言ってくれたら、私がケーキも買ったし、何か準備したのに」
彼女をお祝いしながら、申し訳ない思いも抱く。
「ありがとう。いいの、真昼の気持ちが最高のプレゼントだから」
そんなふうに甘く告げる彼女の言葉に、頭がふわふわした。
つい表情が緩んでしまう。私が嬉しいと思う理由は、闇村さんにとって特別なこの日に、私と過ごすことを選んでくれたからだ。
ベンチで、コンビニでもらったプラスチックのフォークでケーキを食べる。
「真昼、あーん」
「……あ、あーんっ」
闇村さんの使っているフォークが、私の口元にケーキを運んできたので、少し照れながら美味しくいただく。
「ふふ、こういうの憧れてたの。何年ぶりかしら。高校生の時以来ね」
「闇村さん昔もこういうことしてたんですか?……なんだか少し妬けます。あ、私からもあーんしていいですか?」
「勿論。……あーん」
親からのエサを待つ雛鳥のように口を開けて闇村さんが可愛すぎて、反則だ。
「真昼、ほっぺにクリームついてる」
「え! は、恥ずかしい」
闇村さんの指が伸びてほっぺのクリームを取ると、それを自分の口に含む彼女に、やっぱり彼女はずるいなと思う。
ドキドキすることをわかっていてやっている、確信犯めいたものを感じるのだ。
闇村さんは大人びていて、とても優しくて。それなのに時々悪戯っぽく笑う。
人の心を惑わすことに、長けているかのようだ。
でも、それでもいい。彼女の言葉の全てが嘘でもいいと思える程に、私は闇村さんが好きだ。
そんな自分の思いに気づけたことに意味がある。
自分を偽ることをやめて、貴女を愛したいと思った自分自身を、私は初めて好きになれた。ありのままの自分の思いを貫く大切さを、貴女は教えてくれた。
十二月二十四日。
クリスマスイブも世の中は平日だし、仕事はいつも通りだ。
今日は心が浮ついていたせいか仕事で少しミスをした。責任を取るため残業を引き受けて、十八時過ぎに勤め先の病院を出た。
空を見上げると、冬の澄み切った空に月が浮かんでいる。
昼には見えぬ月が、顔を出す時間。
望月真昼――以前は、この、月を欲しがるこの名前が嫌いだった。
名前のとおり私はきっと欲張りなんだろう。
両親はそんな名前をつけたくせに、ものを欲しがるのははしたないと私を叱った。
我慢をしていた。妥協をしていた。私には身の丈に合うものがある。分相応のもので、我慢して生きないと――そう思って生きてきたのは、苦しかった。
でも、今は違う。
例え分相応じゃなくても。私は、欲しいものをちゃんと欲しがって生きていく。
今まで泊まったこともない、豪奢なホテルの部屋。
私は夜景を背にして、闇村さんと抱き合っている。
彼女の手が焦らすように体に触れ、身をよじる。
息も切れ切れの私の声は、甘くとろけながら、愛しい人の名前を呼んだ。
「――っ、闇村さ、ん……」
「真昼、可愛い」
「あ……ぁっ」
服を着たままなのに、闇村さんの手つきが、囁く声が、ピンポイントで私の心地よいところを撫でていくから、私の理性は溶けていく。
自分が同性愛者だとは思っていなかった。彼氏のことだって好きだったと過去形にして言える。しかし人間は、残酷な生き物だ。時が経つにつれ思いは移ろい、恋なんてあっけなく終わる。
「真昼、携帯鳴ってるけど、いいの?」
「……あ、ごめんなさい、マナーにしてなかった。……少し出ていいですか?」
でも、闇村さんへの愛に、終わりは来ないでほしい。
『もしもし、真昼さん? 約束の時間になっても来ないから、心配で。何かあった?』
「ん……。ごめんなさい。……今日は行けないし、二度と会えない。別れてほしい」
『は? 何? なんで――』
「好きな人ができたの。だから、さようなら」
電話を切ると、携帯の電源を落とした。
彼には説明を聞く権利があるだろうけれど、だけど、今は。
「いいの? 恋人だったんでしょ?」
「……もういいんです。闇村さん、私は貴女だけを見ていたい。だから今は、今だけでいいから、私だけを見て、愛して――」
彼女の顔に手を伸ばして、そっと頬をなぞって、誘うように顔を近づける。
ふと妖艶な笑みを浮かべる闇村さんはキスをくれるかと思ったけれど、私のニットを引っ張って、首筋を露にさせた。そして、寄せられた唇が吸い付く。
「……あぁ」
唇は甘いリップ音を立てて、唾液を絡ませ、何度も何度も執拗に。
そこに私が闇村さんだけのものである、証をつけるように。
恍惚とした声を漏らしてしまう私から唇を離すと、闇村さんは優しく言った。
「真昼……。私のこと、どのくらい好き?」
「沢山、目一杯…………言葉では言い表せないくらい、私の全部で好きです」
「ふふ、ありがとう。――あ、そうだ」
このまま抱いてほしかったのに、不意に何かを思い出したように離れていく体温。所在なく持て余す私の温度を知ってか知らずか、闇村さんはバッグから何か取り出してから私に微笑む。
「真昼にプレゼントがあるの」
彼女が取り出したのは、ブランド物のギフトボックスだった。
「え? ……私に? あ、ありがとうございます」
「開けてみて」
突然のプレゼントにドキドキしながらボックスを開けると、細い革紐とシルバーのトップが見え、ペンダントだと思った。シルバートップは小さな輪のような形をしている。
「つけてみてもいいですか?」
「条件があるわ」
「条件?」
闇村さんは私の肩を抱いて鏡の前に導く。
そうして、綺麗な指先でボックスの中からアクセサリーを取り出し、私の首元に当てて――自分にあてがわれたアクセサリーを鏡で見て、気づく。
これはペンダントではなく、チョーカーだ。
私を束縛するように、拘束するように、貴女は私に求めるのだ。
「私の、ペットになってほしい。勿論真昼が嫌なら強要はしない、けれど」
意地悪な響きだった。
けれど――と、いう言葉の続きを、言ってほしかったけれど、言わなくてもわかる。私にはわかってしまった。
闇村さんは、私がそれを拒絶したら、愛してくれなくなってしまうのではないかと。
「ペット……闇村さんは、私のことを」
「動物とは思ってないし、体目当てでもないから安心して。……貴女を愛してる、慈しみたいと思っている。だから、私だけのペットになってほしい」
もう一度繰り返される、その望み。
私は闇村さんを信じている。
貴女が愛おしいし、貴女は私を、愛してくれると言った。
だから私は、決意した。
「……少し怖いけれど、貴女の望みならば喜んで。貴女に私の全てを捧げます」
するりと、私の首に回されるチョーカーは、後ろで交差して留められる。
首周りに革紐が触れる、今までにはなかった窮屈感で、私が闇村さんのものなのだと改めて認識する。隷属の証を身につけた自分の姿にゾクゾクした。
「……闇村さん、愛してます。ずっと――ずっと」
もう戻ることはできない。
貴女の闇が、底なしの深淵であろうとも構わない。
どこまでも、堕ちていこうと決めた。
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