4-2
私の話をメインに書いていくとは言ったけど、もう一つだけ大事なことを書き忘れていた。
実を言うと、雨谷涼夏は楓くんのことをよく知っていたんだ。なんていったって同じ小学校に通っていたからね。楓くんだって、彼女のことを認識していたでしょう?
でも、楓くんが彼女を認識していることと、彼女が楓くんのことを認識しているのとでは、少しだけ意味合いが違っていた。
旅行に行ったとき、水族館に行ったことが有るか無いかの話をしたよね。学外授業がどうこうっていう。あのとき、楓くんは水族館のことをほとんど覚えていないって言っていた。それはそうなんだ。だって学外授業があったあの日、楓くんはずっと雨谷涼夏と一緒にバスの車内に残っていたんだから。
あの日、彼女はバスに酔って体調を崩しちゃったんだ。引率の先生は一人で、さすがに置いて行かざるを得なかった。バスの運転手さんもいるから、危険なことはないだろうという判断だったと思う。そのときに、なぜか楓くんはバスを降りなかった。先生に呼ばれても、楓くんは「雨谷さんが心配なので」と動かなかった。楓くんは彼女の隣に座って、具合の悪い彼女の手をぎゅっと握ってくれていた。
優しい人だな、と彼女は思った。それは本当に、楓くんの持つ純粋な優しさなんだと思う。それ自体に特別なものはなくて、もっと言ってしまえばバスに酔ったのが雨谷涼夏じゃなくても、楓くんは酔ってしまった誰かに同じことをしたんじゃないかなと私は思う。
でも、その優しくされた記憶っていうのは、雨谷涼夏の人生を振り返れば分かるんだけど、かなり強烈だったんだ。それ以降、優しくされたことがないから。その記憶だけにずっと色がついていて、褪せることがなかった。それ以外の記憶がグレースケールのモノクロームで刻まれれば刻まれるほど、その記憶は輝いた。
だから、神社で神頼みをしたあの日、あの瞬間に楓くんが現れたことは雨谷涼夏にとって強い意味を持った。それはもう、神様と見紛うほどに。
その気持ちは、もちろん私にも伝播した。私にも楓くんが神様に見えた。この人なら、雨谷涼夏を愛してくれるんじゃないかと思った。彼女の人生をただの悲しいだけのお話から、ヒーローがいる感動作品にしてくれるんじゃないかって。
あわよくば、彼女が自殺そのものを諦めて、私が消えてしまえたら、それが一番幸せな結末だと思った。
けれど私は、楓くんが彼女を描いているところをずっと見ていて、描き終わった後の帰り道も少し後ろから二人を眺めていて、私という偽物が消える気配はなかった。
雨谷涼夏の自殺するという決意は、思いのほか強固なものだったんだ。
その理由も、納得できるものだった。幸せなまま死にたかったんだ。雨谷涼夏の灰色の世界に垂らされた、一滴の彩色された雫が、滲んで広がっていく。広がっていくと、灰色と混ざって汚い色になってしまう。夏の彩度を保ったままの状態で、つまりは夏が終わるまでの幸せな状態で、人生を終えたかったんだ。
楓くんを見つめるその瞳から、彼女のそんな心積もりがありありと伝わった。私は納得してしまった。
彼女はあの夏が束の間の幸せだと思い込んでいた。だから、基本的には幸せだったんだ。楓くんに毎日のように会って、お話をして、描いてもらって、その指先に記憶してもらって、網膜に焼いてもらって、記憶に刻んでもらって。着々と終わりに向かっていたけれど、その日々を全部大切にしていた。そうして雨谷涼夏は、楓くんに恋をした。
びっくりしたよ。彼女の恋心も私には伝わってくる。ある日突然、普段と変わらない毎日に鼓動が速くなる。楓くんの息遣いを意識して、その触れられそうな距離感に動揺する。
そのときに私は、〝知識として〟恋とか愛とかを知った。知ってしまった。
そして私が見る限り、楓くんも雨谷涼夏に恋をしていた。
想い合う二人を見て、ようやく私はフェイカーとしてごく当たり前の状態にあると思った。本来フェイカーは、独りぼっちで死ぬような人の代役をやる必要はないからね。
そのときの二人はラブストーリーのイントロを見ているみたいだった。中学生二人が、お互いを似た者同士だと認識して仲良くなって、普通とはちょっと違う、けれど温かい関係性を育んで距離を縮めていく。そこから大恋愛に発展する、最初に描かれる過去の日常パートみたいな、そんな感じ。
夕暮れの神社で、画家の真似事に耽る二人を眺めていた。
花火を眺める二人を眺めていた。
夕立に遭って雨宿りをする二人を眺めていた。
全部全部、夏の影から見ていた。
無感情に見ていたと書くと、ちょっと嘘になる。私は雨谷涼夏と同じ感情を抱いていた。ただ、その感情は私のものではなくて、あくまでも雨谷涼夏のものだから、感情そのものを客観的なものとして捉えていた。
例え話にするなら、恋心に実体があるとして、その輪郭や形は見て取れるけど、その表面の触り心地だとか、温度だとか、そういう本質的なことは分からない。そういう感覚を抱きながら、私は二人を眺めていた。
二人の間にできた結びつきは多分、普通と比較したらひどく異質で捻じ曲がったものだと思うけど、その分とても強かった。あの夏だけは、楓くんと雨谷涼夏二人のためにあると錯覚してしまうほどに、二人の世界は夏の重力も暑さも、飲み込んでいた。
そんな二人だけの世界からも、彼女の想いは全部伝わってくる。
ずっと楓くんの側にいたい。死んでもずっと側にいたい。楓くんにずっと憶えていてほしい。忘れないでほしい。本当はこの夏が永遠に終わらないでいてほしい。
たぶん彼女は、そんなことばかりを考えていた。
ただ、雨谷涼夏から流れてくる感情や思考とは別で、私には私の思考がある。私は彼女から流れてくる思考の濁流を見て、誰が二人の間に割って入れるんだろうと思った。その強い結びつきを、雨谷涼夏を通して感じ取った私は、私がただの邪魔者になるような気がした。
彼女の死後、私が代役をしたところでそこにいるのはオリジナルの雨谷涼夏ではないし、二人だけの繋がりが、私のような得体の知れない存在のせいで塗りつぶされるべきではないと思った。愛し合った二人の間に、第三者が関わるべきではないと思った。
私がそう思ってしまったから、楓くんは雨谷涼夏の言葉が呪いになってしまったのかもしれないけれど、そのときの私はそう考えるしかなかったんだ。
だから私は、雨谷涼夏の代役を放棄することにした。
そもそも、私たちフェイカーの存在は人間の在り方を愚弄している。
人間の生が美しいのは、最後に必ず死があるからで、それを代替わりしようなんて、そんな考え方はとても傲慢だと思う。
誰かの死を無かったことにして、死者とよく似た知らない誰かが代わりを務めるなんて、生命そのものに対する冒涜だ。生者はフェイカーに騙られ続け、死者は本来自分がいるはずの場所を奪われる。自分が死んだあと、他人が自分に成り代わっていると考えたら、その隣で大切な人が笑っていると考えたら、すごくやるせない気持ちになる。
そういうことを考えてしまったから、私はフェイカーとしては不良品なのだと思う。考えなくてもいいことを考えすぎてしまうのは、私だけじゃなくて、雨谷涼夏や楓くんも同じなのかもしれないけれど。
雨谷涼夏の代役を放棄するのは簡単だった。
彼女が自殺したのは、夏休みの最終日の夜だった。いつも通り楓くんと神社で会って、いつも通り別れて、帰宅した後だった。予め買っておいたロープをカーテンレールに引っ掛けて、首を括って死んだ。
彼女が死んだ瞬間、私は肉体を得た。鏡に映るし、物は掴めるし、発声ができた。月明かりが綺麗な夜だった。
私は、宙吊りになって月光を背に浴びる彼女を眺めていた。そのときに、彼女に触れてしまいたい衝動が私を襲った。その死に顔が、どうしてか美しいと思って手を伸ばしたくなった。
おそらくこれが、フェイカーがオリジナルに成り代わる条件のようなものだと思う。肉体を得たフェイカーが、死亡したオリジナルの肉体に触れる。そうしたら多分、オリジナルの肉体は消えて、フェイカーだけが残るようになっている。
触れないといけないから、その行動が衝動的に実行されるようにプログラムされている。フェイカーの習性みたいなものなのかな。
私は自分の中で湧き上がる衝動に抗った。冷や汗が出て呼吸が乱れた。伸ばした右腕を、左腕で引っ張るみたいにして抑え込んだ。足も、彼女から遠ざかるように一歩一歩ゆっくりとだけど後ずさった。
そうして壁まで後退する。なぜだかひどく疲れて座り込んだ。呼吸は相変わらず安定しなくて、それからは月明かりを頼りに壁伝いに足を引きずって移動した。彼女から遠ざかれば遠ざかるほど、私は自分の意識を手放しそうになった。
私の魂みたいなものが彼女の肉体に繋がりかけていて、八つ裂きの刑みたいな感じで双方に強い力で引っ張っているような状態だったんじゃないかな。
多分、普通だったらオリジナルへの成り代わりは一瞬で終わるんだと思う。例えば交通事故でオリジナルが死んでしまったとき、そのすぐそばにフェイカーが実体を得たときにはもうすでに、フェイカーはオリジナルに触れていて、成り代わりが完了している。
本来はそういう風になるように設計されていたんだろうけど、私は抗った。私はフェイカーにしては特異な例なんだと思う。
そうして隣の部屋に何とか移動して、私は家の固定電話の受話器を取った。電話が置いてある台に縋るようにしながらも、それを支えにして立ち上がる。110を押す。電話がつながった私は、呼吸を整えてから静かにこう言った。
「家で女の子が死んでいる」
そう口にした瞬間、なんだか急に楽になった。私が成り代わりではなく、彼女の死を選択したことによって、成り代わりそのものが不可能になったんじゃないかと私は考えてる。
そのあと、気がついたら私はまた肉体を持たない、思念体のようなものに戻っていた。
しばらくして、赤いランプを灯したパトカーが家にやってきた。救急車もやってきた。家に入ってきた警察が、雨谷涼夏の遺体を認めたところで、きょろきょろと周囲を見回す。多分、通報した人を探していたんだろう。姿の見えない私はその場を離れることにした。
なんだか、辛くなった。私が殺したも同然じゃないかと思った。思考する脳も、それを表現する肉体もない癖に、悲しくなって、泣いていた気がした。
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