3-6

 翌朝、目を覚ますと隣に雨谷はいなかった。不思議と焦りは感じなかった。とても長い夢を見ていただけで、昨日までの出来事がまるで作り物だったみたいに思えた。


 彼女を探しに行こうだとか、そういう気も湧かなかった。本当に、人生で一番と言えるぐらいのいい夢を見て、ふと目が覚めてしまって、ああ、いい夢だったなと思って日常に戻る、そんな感覚だった。端的に言えば彼女との生活に諦めがついてしまっていた。


 荷物も雨谷のものだけ無くなっていた。俺が背負ってきたリュックサックだけが、寂しそうに取り残されていた。


 俺は朝風呂に行った。頭をすっきりさせたかった。昨日ほど、湯船につかっている間に思考はできなかった。頭を空っぽにできていたと思う。


 一人で朝食を食べた。食事を運んでくれた仲居さんが、雨谷の姿が見当たらないのを不思議に思っていたので、急用ができて先に帰ってしまったと嘘を吐いた。


 朝食を食べ終わって、荷物をまとめてチェックアウトした。特に寄る場所もなかったので、そのまま帰路についた。


 昼過ぎに帰宅すると、この部屋には似つかない大きな冷蔵庫から冷凍食品を取り出して、電子レンジで温めて食べた。独りでいるこの部屋は、ひどく寂れていて無駄に広く感じた。


 大きな冷蔵庫も、数々の調理器具も俺にとっては無用の長物となったが、わざわざ売る気にもならなかった。もしかしたら何かの拍子に雨谷が帰ってくるのではないかとか、そんなことを頭の片隅で考えているからかもしれない。



 結論から話すと、雨谷が帰ってくることはなかった。雨谷が俺の元を去って、気がつけば一週間が過ぎていて、八月はとうに終わっていた。夏も、終わりを迎えようとしていた。


 終わりかけの夏は未練がましく暑さを振り撒いていて、俺はそんな中で日雇いのアルバイトをやって過ごしていた。このまま、独りの日常が返ってくるのだと思っていた。


 その日は、何かの資格試験の監督補助のアルバイトだった。最後にいつ着たのかも分からないスーツをクローゼットから引っ張り出して、試験会場の大学に向かう。俺が通っていた大学だった。久しぶりに足を踏み入れた大学は、まだ夏休みなこともあって人は疎らだったが、サークル活動なのか、ギターケースを背負った女子大生とすれ違った。視線を感じた気がするが、気のせいだろう。


 試験問題を配ったり、解答用紙を回収したり、試験中は適当に机の間をふらふら歩いて試験内容をのぞき見したり(理系の資格のようで何をやっているのかは分からなかったが)、楽なアルバイトだと思った。


 夕方に終わって帰宅する。料理はしないのでスーパーには寄らない。普段はコンビニで適当な弁当を買って帰るが、いつの間にか月が替わっていたので、この日はお気に入りのカツ丼屋に向かった。俺が店内に入ると店主は驚いていた。「また来てくれて嬉しいよ」と、笑っていた。女子大生ぐらいのアルバイトの子がオーダーを取りに来る。


「今日、大学にいましたよね?」


 そんな風に言われ、すれ違ったギターケース女子大生が目の前のエプロンをした女の子だと気づく。俺は頷いて、適当な返事をした。いつもの一番安いメニューを彼女に伝える。しばらくして運ばれてきた料理を平らげて、金を払って店を出る。後ろから、「また来てくださいね」と女子大生の声が聞こえた。


 帰宅してシャワーを浴びて、特にやることもないので床に就く。目を閉じる。


 それを繰り返す日々は味気のないものだった。自殺をしようとする前よりも、ずっと死んだような生き方をしているような気がした。


 そんな風な生活をして、さらに一週間が経った。


 夏の暑さは未だに尾を引いていた。まるで、世界がこの夏を終わらすまいとしているかのように思えた。俺としては、さっさと終わってほしいと思った。暑いし、汗をかくと不快だし、何より楽しかった雨谷との日々を思い出してしまうのだ。


 そうだ、楽しかったのだ。


 雨谷と何でもない会話をして、夕方に神社に行って絵を描いて、夕飯の材料をスーパーで買って、料理当番をゲームで決めて、夜になって読書に耽る雨谷を描いて。


 俺の中の、あの夏の雨谷涼夏は消えずに済んだ。上書きされずに済んだ。それなのに、心にぽっかりと穴が開いたような猛烈な虚無感がある。生活の中に雨谷がいないことを意識してしまっている。


 朝に目を覚ましたとき、台所には誰もいない。ページを捲る音が室内の時間を進めていたのに、今は時計の秒針の音しか聞こえない。無意識的に夕方に外に出て、目的がないことを後になって思い出す。


 そうして雨谷がいないことを認識して、いつもため息をついている。



 今日も寝床についてからため息をついた。暗い部屋でぼんやりとスマートフォンで何かの動画を見ている。特に何も考えていない。動画の内容は頭に入っていない。けれど、無音よりはマシだった。視線は動画の中身ではなく、少しずつ前進する赤色のシークバーを追っていた。


 不意にスマートフォンが震える。画面上部に着信の知らせがある。俺は緑色の受話器のボタンを押して、電話に出た。


 電話の主は、俺が電話に出たと同時に口を開く。


『雨谷涼夏に会ったぞ』


 電話の向こう側で、日下部がそう言った。


「どこで?」


 俺はまるで興味がないとでも言いたげな気怠い声で聞き返す。


『俺の家を訪ねてきた。お前のことをよろしくと言われた』


「そうか」


 俺が適当な相槌を打っていると、


『なにがあった?』


 そんな風に日下部は尋ねてきた。


「別に、何もないよ。化けの皮が剝がれたんだろう」


『人間のふりをしていた皮が、か?』


 俺は日下部のその問いには答えずに、持論を展開する。


「……俺の見立てでは、ドッペルゲンガーみたいなものなんじゃないかと思ってる。ドッペルゲンガーは死と強く結びつくし、オリジナルの雨谷は彼女に遭って自殺に至ったということも考えられる。芥川龍之介だってそういう逸話がある」


 自分でも、中身のない持論だと思った。すると日下部は一つため息を吐く。


『お前、本気でそんなことを言っているのか?』


「どういう意味だ?」


『彼女がお前の元を去ったことは、彼女の正体がそれほどまでに強く関係しているのか? 仮に関係していたとしても、それは主要因ではないんじゃないか?』


 日下部の含みのある言い方に俺は苛立ちを覚える。わざとらしく息を吐く。


「何が言いたい」


『それはお前が一番よく分かっているんじゃないか? 少し前より、お前の声色は暗い』


 それだけ言って、日下部は電話を切った。


 俺はスマートフォンを床に投げた。鈍い音が響いた。


 日下部が何を言いたかったのか。それを一番よく知っているのは俺だと日下部は言った。


 日下部の直感は往々にして正しい。彼は俺にとっても信用できる人物だし、嘘は言わない。そして妙に勘がいい。今回も、俺との少ない会話から俺の心中を推察したのだろう。


 俺は布団から出て、部屋の明かりをつけた。放り投げたスマートフォンを拾った。画面に貼った保護フィルムにヒビが一つ刻まれていた。


 俺はカレンダーアプリを開いて、今後の予定を確認する。一週間は日雇いのアルバイトで埋まりきっていた。その二日後の土曜日は特に予定は入っていなかった。俺はその日に一つ予定を入れて、スマートフォンを充電器に繋げて就寝した。



 予定を入れた土曜日の夕方、俺は神社に向かうことにした。雨谷とよく一緒に出掛けた、老夫婦がいる田舎の神社だ。日下部からの電話の後、すぐに向かってもよかったのだが、自分の中で思考を整理する時間が欲しかった。アルバイトが入っているというのはお金を稼ぐ手段ではなく、時間を作るための方便に成り下がっていた。


 その結果として、俺は神社に出向く気になった。そうしなければいけないと思った。俺と雨谷涼夏はよく似ていて、同じように空っぽな人間だった。あの夏以降、俺が雨谷を神社で待ちぼうけしたように、雨谷もそうしているような気がした。根拠はない。そんな気がしただけだ。


 田舎に着いて、いつもの田んぼ横の空き地に車を停める。老夫婦の姿は見当たらなかった。


 独りで参道を登って神社へ向かう。蜩の鳴き声も、八月に比べればかなり減っている気はしたが、短い夏を懸命に歌っていた。


 神社に着くと、果たしてそこには誰もいなかった。山の影になって茜の差さない神社がひっそりと佇んでいるだけだった。探していた人影はどこにも見当たらなかった。


 結局俺はまた、大事なものを手放してしまった。それも今回は、拾えたはずのものを自ら切り捨ててしまった。過去に固執するあまり、手の中にあったものを取りこぼしてしまった。


 俺は本当に馬鹿だった。日下部に言われなければ、取りこぼしてしまった後悔からずっと目を背けたまま、生きようとしていた。その後悔に向き合う覚悟もなかなかできなくて、結局、俺は彼女に本心を伝えられなかった。


 俺の心がとうに絆されていることに、俺は気づいていながら知らないふりをしていたのだ。彼女が雨谷涼夏に似ているから、彼女の声で、言葉で喋るから、思い出を共有できたから。それは全部、過去の雨谷に引っ張られているだけだと思い込むようにしていた。


 そうすべきではなかったと、今になって思う。


 俺はスケッチブックを荷物から取り出した。自分を慰めてやろうと思った。神社を描いて、その中に、記憶の中の、過去のではない雨谷を埋め込んでやろうと思った。


 スケッチブックを開く。色鉛筆を手に取る。被写体を観察する。この神社を見るのは実に一か月ぶりぐらいだったが、特段変わったところはなかった。


 小さくてボロボロで、今にも壊れそうで、雨谷はいつも、あの境内に腰掛けて――。



 何かがある。境内に何かが置かれている。俺は駆け足で近づいて、その存在を確認する。そこに置かれていたのは、小学生が使うようなビニル製の連絡袋だった。チャックが閉じられていて、中にはノートが二冊入っている。


 一つは見覚えがあった。雨谷が日記を書くのに使っていたノートだ。


 それを見たとき、やはり雨谷はここに来ていたんだと悟った。そして、これをわざわざ置いている事を鑑みるに、もう姿を表すつもりはないのだろう。


 もう一つは知らないノートだった。新品で、表紙にはネームペンでこう書かれている。



「楓くんへ」



 俺は連絡袋からノートを取り出して開いた。手紙だった。手書きの綺麗な文字が、罫線に沿って丁寧に書かれている。



 一ページ目。


「まずは、急に楓くんのところから居なくなってごめんなさい。私も、どうしていいか分からなくなって逃げてしまって、いろいろ考えて、この手紙を書くことにしました。もしかしたら、私が最初から全部説明していたら、もっと違う結果になっていたのかなと思うけど、楓くんの大切なものを傷つけてまで隣にいたくはないと思ったので、最初からきっと、結末はこれしかなかったんだと思う。けれど私は、楓くんのことが好き。大好き。多分こういう気持ちのことを〝愛している〟って言うんだろうね。消えてしまう前に分かってよかった。本当はそういうことを伝えようと思ったわけじゃないんだけど、手紙を書くのって難しい。書いているうちに文章が支離滅裂になっちゃう。


 本題に入ると、次のページから私のことを書こうと思う。超特大のラブレターだと思ってもらってもいいよ。これを読む機会が訪れるかどうかは、楓くん次第だと思うけど、きっと読んでくれると思うから、頑張って書きます。いつ読むことになるか分からないから、いくつか注意事項。


 1、長いので夏に読む場合は涼しい部屋で読むこと


 2、長いので冬に読む場合は温かい部屋で読むこと


 3、一気に読もうとして夜更かししないこと


 4、後悔しないこと



 心の準備ができたら、ページを捲って読み始めてね。」

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