3-4
八月の最終週に入って三日が過ぎた。夏も終わりに近づいているはずなのに、秋めく気配はない。それどころか、これからが夏本番だとでも言いたげな、うだるような暑さが世間を覆っていた。
そして、相変わらず俺たちはかつての再現をするように、神社に足を運んでは画家の真似事をやっている。夕方に神社に行って、そこに佇む雨谷を描く。たったそれだけ。
帰宅して夕飯を済ませる。インディアンポーカーで負けたので、俺が台所に立つことになった。無様に崩壊した卵焼きが振舞われ、雨谷はそれを美味しそうに食べていた。食器を洗って、順番にシャワーを浴びて、各々好きなように過ごす。
テーブルの向こう側で雨谷は本を読んでいて、俺はそんな雨谷を見つめながら酒を飲んだり彼女を描いたりした。本を読む雨谷は、神社にいる雨谷よりも上手く描けた。彼女と暮らし始めてからずっとそうだった。神社にいる雨谷は、どうしてか納得のいく出来にはならなかった。
雨谷はそれを見て「上手だね」とか「今日も描いてくれてありがとう」とか、昔のように俺に言ってくれるが、俺自身が満足していないせいか、素直に受け取ることはできなかった。
これについては常々考えているのだが、答えが出たことはない。結局今日も、その理由は分からなかった。
そんななんてことのない日常に、俺の感覚は馴染んでいた。雨谷と過ごす静謐な時間が、俺は好きだった。
ふと、雨谷が読んでいる本を閉じた。そして俺の目を真っ直ぐ見て、「旅行に行きたいね」と言った。
俺はスケッチブックの上で動いていた手を止める。
「どこか行きたい場所でもあるの?」
尋ねると、雨谷は「うーん」と唸る。本の上で腕を組んで突っ伏す。口元を腕に埋める。
「水族館、とか」
雨谷の言葉に、魚とかそういうのに興味があるのだろうか、なんていう的外れなことを考えつつも、彼女の真意はそこではないことに俺は気づいていた。
きっと雨谷は、俺と恋人ごっこがしたいのだ。そう思うのは、俺の驕りだろうか。
恋人ごっこ。疑似恋愛。そこにはきっと、恋愛感情はない。俺が過去の雨谷涼夏を忘れるためのロールプレイ以外の意味は持たない。それゆえの提案だ。
それが分かっているのであれば、断ることもできたのだろう。だが、俺はそうしなかった。
「いいね」
俺は彼女の提案に同意した。
俺の頭はどうしても、目の前の雨谷を過去の延長として認識しようとする。別人なのは分かっている。思考として理解している。だが、そんなことはお構いなしに、脊髄反射的に飛び出る俺の言葉は、雨谷涼夏と言葉を交わすときの抑揚を含んでいる。
そうだ、俺は雨谷涼夏と普通にデートがしてみたかったのだ。疑似恋愛をしたがっていたのは、俺の方なのかもしれない。
旅先は海の見える街になった。新幹線と在来線を乗り継がなければならない距離にあるが、魚介類が美味しい街だという話だった。小さな水族館もあって、恋人ごっこをするにはいい舞台だと思った。
一泊二日の旅程を立てて、スマートフォンで宿を予約する。新幹線のチケットを購入する。出発は明日にした。
粗方予約が終わると、「楽しみだね」と雨谷は微笑みながらトランクケースに服や化粧品やらを詰めていた。
「そんなに大荷物で行くほどの旅行じゃないぞ」
大きめのリュックサックに全て詰め込んで行くつもりだった俺は雨谷に言う。すると雨谷は「分かってないなぁ」と頬を膨らませた。
「私だって女の子だよ? デートに行くならお洒落しないと」
そういうものなのかと思った。
「そういうものなのか」
「そういうものなのです」
そういうものらしい。
翌日、始発の電車に乗って新幹線の発着する駅に向かう。駅に着くと、券売機で新幹線の切符を発券した。
改札を通って、人が行き交う駅のホームを雨谷の手を引っ張りながら歩く。その雨谷も、トランクケースを一つ引っ張っている。
しばらくして、新幹線が到着すると車内に乗り込んで、指定していた席に着く。雨谷が窓側で、俺が通路側だった。
「前もこんなことあったね」
雨谷が言う。ガラスに映り込んだ雨谷と目が合った。
前、というのはきっと、俺と雨谷が秘密の倉庫で会って、そのあと一緒に帰った時のことだろう。あのときも、雨谷が窓側で俺が通路側だった。そのときの情景が、あのときと重なった。少しだけ、懐かしいと思った。
少し走ると、ガラス越しに海が見え始める。「わあ」と雨谷が感嘆の息を溢していた。
新幹線を降りて、在来線を乗り継いで、目的の街に到着したのは昼前のことだった。駅を出ると、強い日差しが肌を焼く。地理的にも南下したせいか、普段よりも暑苦しく感じた。
俺たちは先に宿泊予定の旅館に向かうことにした。俺はリュックサック一つしか持ってきていないのであまり問題はなかったが、雨谷のトランクケースを預けておきたかったのだ。
旅館は、駅から出るバスを一回乗り継いで行けるらしかった。
バスの車内は比較的空いていた。進行方向右側の、一人掛けの座席に雨谷を座らせ、俺は彼女のトランクケースを持って吊革に掴まる。
荒い運転に揺さぶられる。車窓の景色も揺れる。
駅から少し離れれば、窓の向こう側で流れる景色は、俺や雨谷の地元とさして変わりのない田舎町だった。片側一車線の細い道路、無駄に広いコンビニエンスストアの駐車場、ほとんど真向かいに立つ家電量販店。部活帰りと思われる中学生が歩道で自転車を漕いでいる。
そんな光景を横目に、バスはさらに寂れた街外れへ進んでいく。
小さい山の麓に立つ川辺の旅館にしたのは、俺も雨谷も観光地の宿泊施設に泊まりたくなかったからだ。二人とも人が多いところが得意なわけではないし、緑があって人が少なそうな宿という条件は、俺たちにとっては魅力的だった。街の中心から外れていて、交通の便が悪いことなど些末な問題だった。
旅館に到着する頃には昼食時をとうに過ぎていた。チェックインをして雨谷のトランクケースを預ける。ついでに俺のリュックサックも預ける。
予約時に今日の夕食と明日の朝食しかつけていなかったため、近場で食事ができるところを旅館の受付カウンターで尋ねると、親切に教えてくれた。近くに蕎麦屋があるらしかった。バスの時間まで一時間ばかりあったので、歩いて教えてもらった蕎麦屋に向かう。
ふたりともざるそばを注文して、それをあっという間に平らげた。冷えた店内は居心地がよかったが、俺も雨谷も食事を終えて涼んでいるだけなのは申し訳ないと思って、食事を終えてすぐに店を出た。バス停に向かって、ゆっくりと歩きながら時間を潰す。
「静かでいいね」と雨谷が言う。川のせせらぎだけが、時間を押し進めている。
俺は深く頷いた。いつの間にか慣れてしまっていた都会の喧騒も、今鼓膜を揺らす環境音に比べればただの雑音に思えた。
昔はこれが当たり前だった。あの夏、家の外へ出れば自然が広がっていた。唯一聞こえてくる人工的な、無機物的な音は車の走行音ぐらいだった。
蜩が鳴いていて、カラスが鳴いていて、俺の靴音が規則正しく石階段を登って、その先に雨谷がいて、鼻唄を歌っていて。
ふと、隣の雨谷が鼻唄を歌っていることに気づいた。なんの歌だったか忘れたが、すごく懐かしいメロディだった。
「その鼻唄、なんの曲だっけ?」
俺が尋ねる。すると雨谷は歌うのを辞めて、少し立ち止まって、少し上を見て、
「なんだろう」
首を傾げていた。
水族館に着いたのは午後三時頃だった。目につくのは大学生ぐらいのカップルばかりで、俺たちもその中に紛れるようにして、水槽の前をゆっくりと歩いていく。
水族館の中は薄暗く、大型水槽が映画館のスクリーンのように明るく発色している。その向こうで、大海を忘れた魚たちが群れを成して泳いでいる。
大型の魚が一匹、水槽側を歩く雨谷の横を通り過ぎていく。俺はその魚を、ぼんやりと目で追いかけた。魚はすぐに水槽の奥に行ってしまって、別の大きな魚の影に入って見失ってしまった。
「海の底にいるみたい」
分厚いアクリルガラスに触れながら、雨谷はそんなことを呟いている。俺は視線を水槽から雨谷に移す。
「楓くんは、水族館に来たことがある?」
雨谷の質問に、俺は頷く。
「小さいときに、一度だけ。といっても、小学校低学年のときだから、ほとんど何も覚えていないんだ。初めてみたいなものだよ」
「もしかして、学外授業のときの?」
「そうだったかな。そうだったかもしれない。よく覚えているね」
「覚えてたわけじゃないよ、楓くんに言われて思い出した」
雨谷は微笑んでいた。
そんなこともあったな、と思い出す。確か、市内の小さい水族館に授業で行ったときだ。低学年だから、生活科の授業かなにかだったのだと思う。彼女もきっと、同じ思い出を抱えているのだ。それにしても、俺は水族館の中身を全く思い出せなかった。覚えていなかった。よほど生きている魚に対して無関心だったのだろう。
雨谷にまつわる記憶は、彼女と深く関わって、彼女を失ってしまった中学時代に集中しているが、そういえば同じ小学校だった。あの頃はきっと、お互いにお互いを認識していたわけではないのだろうと思う。
「不思議だね」
雨谷は小さな声でそんなことを口にする。
「何が?」
「楓くんと中学以前の思い出を語れるのが、すごく新鮮で、すごく不思議な感じ」
言って、雨谷は嬉しそうに笑っていた。
外が薄暗くなる前に水族館を出て、旅館に戻ることにした。気温もいくらか下がっていたけれど、湿度が高いせいか体感温度が変わった気はしなかった。雨谷も「今は夕方でも暑いよね」といいながら、手をぱたぱたと動かして扇いでいた。
旅館に戻ると荷物が部屋に運び込まれていて、部屋を案内した仲居の女性が、十九時に食事が運ばれてくることを教えてくれた。時間まで三十分ばかりあったので、俺と雨谷は座椅子に座って足を伸ばした。
「さすがにちょっと疲れたね」
伸びをしながら雨谷が言う。「そうだね」と俺も相槌を打つ。
普段から長距離の移動をしないこともあってか、バスに揺れられているだけでも疲れた気がした。水族館も人が多かったわけではなかったが、周辺に人が多くいる環境というのは、俺にとっても雨谷にとってもやはりあまりいいものではないようだった。
ただ、やはり水族館というのは神秘的で、見ていて心が落ち着いたことは否定できない。貸し切れるのなら貸し切って堪能したいものだとも思った。
そんなことを思っていると、雨谷が水族館の良かったところを語ってくれている。映画館のスクリーンのように大きかった大水槽。その中を泳ぐ鰯の群れ、悠々と泳ぐ大型の魚、水槽を支配しているサメ。小型水槽の向こうではイソギンチャクから顔を出したクマノミが可愛くて、チンアナゴみたいな珍妙な出で立ちをした魚でさえも可愛かった。そう楽しそうに語っていた。
そんな雨谷を見ていて、俺も楽しくて、嬉しくて、笑みが零れた。
夕飯に運ばれてきた食事は船盛だった。多種多様な刺身が乗せられていて、船上を鮮やかに彩っていた。
水族館で魚を見てから魚を食べるのはどうなのかとか、そんなことを俺は考えていたが、雨谷は気にしていない様子だった。「美味しそう」と言う雨谷に、俺は同意した。そもそも、魚介類が美味しいらしいというのは事前情報としてあったわけで、旅館を予約するときも夕食のメニューには目を通しているわけで、その上で水族館に行くことを選んだのだから、単に俺の考えたデートプランというのが割と無神経なだけだったかもしれない。自分の無神経さに、自分で突っかかっていたのだ。むしろ、雨谷が気にしていなくて安心した。
他にも煮魚だったり焼き魚だったり、いろいろな料理が提供された。二人で食べるには少し多い量を何とか平らげ、俺たちは膨れた自分の腹を摩りながら、座椅子に凭れた。
「美味しかったね」と味を称賛し、「量が多かったね」と自分たちの胃袋の小ささを嘆いた。
食事を済ませて、各々温泉に入る。汗ばんだ体を洗い、疲れた体を温かい湯で解す。
男風呂には俺のほかにも何人か男性宿泊客がいて、誰もが体を芯まで温めていた。俺も、彼らに倣って湯船に肩まで浸かって頭を空っぽにする。疲れを癒すことに専念する。ぼんやりとする。ぼんやりしようとする。
やはりというか、俺は頭を空っぽにできなかった。そういう性分なのだろう。頭の中では雨谷の笑顔が浮かんでいて、その中から何か、創作のヒントを探していた。俺たちの間で生まれた言葉を探していた。
そのときになってようやく気づく。俺は久しぶりに、創作について考えている。俺を創作に縛っていた過去の雨谷を抜きにして、創作のことを考えている。そこには、今の雨谷が介在してはいるのだが、俺は過去を過去のものとして切り離して思考している。
今の雨谷が、俺の思考の大半を支配している。それはなんだか心地が良くて、それが本来あるべき形で、ごく自然的であるように思えた。
雨谷の笑顔があって、それを俺が描いていて、あの夏と同じように毎日を繰り返している。
あの夏と同じように。
ふと、俺は違和感を覚える。本当に同じなのか?
今の雨谷は、やはり過去の雨谷とは違う存在で、過去の延長線上にはない。だが、限りなく雨谷涼夏に近くて、その再現性は過去の延長そのものだ。現に、俺は過去の雨谷が生きていれば、今もこんな生活をしているだろうと思っている。
ほとんど毎日神社に行って、
――神社。
――神社と、雨谷涼夏。
違和感が形をとる。俺の中の霧が、言葉の形を得ようとしている。
どうしてか、今の雨谷と神社を描いたとき、納得のいく出来にはならなかった。それ以外は、どれも素晴らしいと思えたのに。過去を正確になぞったときだけ、その線がずれていた。逆に、新しく描いた線だけ、思い出だけ、あまりにも鮮やかで、明るくて、綺麗だった。
綺麗だったのだ。
その綺麗さが、俺の思い出を塗りつぶしているような気がした。
俺にとって、創作は生きることそのもので、それが空回りしてしまったから俺は自殺しようと思った。それぐらい、大事なものだった。その呪いを与えてくれたのは、過去の雨谷涼夏だ。
今の雨谷は、それを忘れさせようとしている。塗りつぶそうとしている。
俺が彼女の魅力に恐怖していたのは、俺が後生大事に抱えようとしていた呪いを、塗りつぶされそうになったからだ。
そうして俺は過去を忘れて、何事もなかったかのように今の雨谷を想って筆を執るだろう。音を拾うだろう。その方が心地いいから。
それを過去の雨谷涼夏は望むだろうか?
これからも私を描いてほしいと、忘れないでいてほしいと、そう願った彼女の想いを、俺は手放していいのか?
思考が熱くなっているのを感じた。少し、のぼせている気がした。気がつけば、周りの宿泊客はいなくなっていた。
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