3-3

 雨谷を描く日々を送っているうちに、夏祭りがある土曜日になった。家のすぐ近くのバス停も、退勤ラッシュで人がごった返す駅前も、この日は浴衣を着た男女がまばらに見える。


 俺たちも例外ではなかった。いや、正確には浴衣を着ているのは雨谷だけなのだが、まあ、やっていることはその辺りを歩く若者と概ね同じだろう。皆、夏に染まって大切な人と時間を共有したいのだ。


「似合うかな」と隣を歩く雨谷が言う。下駄がカランコロンと音を立てる。


 白地に向日葵の図柄が単色で描かれている浴衣で、茶色い帯が黄色い向日葵を映えさせていた。色味が全体的に淡いせいか、落ち着いた雰囲気を醸している。


「似合っているよ」と俺は彼女を褒める。


 すると彼女は恥ずかしそうに「ありがと」と感謝を溢した。


 夏祭りは、最寄り駅から二駅ほど移動した先の神社の参道で行われている。この神社も、一度だけ雨谷と一緒に足を運んでいた。夕日が綺麗に差し込む神社だった。長い石階段を登っていく必要があるのも、あの夏の神社と似通っていた。


 ただ、小学校が近いせいか子供たちの遊び場にもなっているようで、初めて訪れたときには先客の子どもたちにイチャイチャしているだのなんだのと揶揄われた。すぐに帰ってしまうのは癪だったので、しっかりと一枚スケッチを描いてから神社を後にした。それ以降は来ていない。この夏祭りで来るのが二度目だった。


 この日は交通規制が掛かっていて、町全体がお祭りムードだった。どこからともなく祭囃子が聞こえ、夏を彩っている。


 人で溢れる車道を二人並んで歩く。人の流れに乗って雑踏の中を進んでいく。溢れんばかりの人々の喧騒が、俺の耳を揺する。


 両脇に立ち並ぶ屋台からは香ばしい香りと、甘い香りが混ざって鼻腔を刺激した。綿あめ、りんご飴、イカ焼きにたこ焼き、焼きそば。人混みを避け続けて生きてきたため、こういった祭りに足を運んだことがない俺は、屋台って本当に屋台なんだな、なんて程度の低い感想を抱いた。


「何か食べたいものはある?」


 俺が雨谷に尋ねると、雨谷は周囲を見回して、たこ焼きの屋台を指さした。俺はそんな雨谷の手を握って、人波を横断するような形で屋台まで行くと八個入りのたこ焼きを買った。少し高いと思った。


 それから、二人でたこ焼きをつまみながら屋台に沿って歩いて行く。焼きそばを買ったり、フランクフルトを買ったりした。デザートという名目でりんご飴も買った。


 雨谷がりんご飴を小さく齧る。小さなりんごが纏っている飴が、ガラスみたいに割れる。


「楽しいね」


 りんご飴に舌鼓を打ちながら雨谷が言う。


「そうだね」と相槌を打つ。すると、俺の手を握る雨谷の力が少しだけ強くなる。


「私、嬉しいんだ」


「なにが?」


「こうして、楓くんといろんな新しいことを経験して、新しい思い出ができていくの。昔は、お互いに絵を描いて、描かれて、多分それだけでよかった。けどね、私はもっとたくさん、楓くんといろんなことがやりたいんだ」


 そう言いながら、雨谷は目を少しだけ細めて笑っていた。


 雨谷の言葉は理解できた。彼女が先日言った「上書き」というのが、つまり今の言葉の中身なのだろう。上書きされることで、俺はきっとあの夏の雨谷涼夏を完全に過去のものとして消化でき、今の雨谷を好きになっていくのだろう。きっとそれが一番幸せで、一番賢い選択だ。


 ただ、俺は本当にそれでいいのかとも思う。


 向日葵畑で雨谷を描いたとき、彼女の脳を焼くほどの魅力と俺の体温に、俺は少し怖くなった。俺の指先にまで染み渡って滲んでいたあの夏の雨谷が、今の雨谷の放つ甘い香りに塗り替えられて、霞んで、見えなくなって、最後には消えてしまうような気がした。


 それを、あの夏の雨谷は望んでいるのだろうか。


 俺の中からあの夏の雨谷が消えてしまうことを、俺の中に刻まれている呪いが赦すだろうか。


 今、隣を歩いている雨谷と、あの夏の雨谷は別人だ。どれだけ容姿が同じでも、どれだけ言動が同じでも、どれだけ魅力的に見えても、おそらくは全く別の存在であるはずだ。


 あの夏の雨谷の言葉を、今の雨谷が塗りつぶすのであれば、それは俺の望むところではない気がした。


 しかし、俺の意思は薄弱だった。こんなだから自殺の一つもできないのだろう。頭では分かっていても、景色だったり、色だったり、音だったり、匂いだったり、雰囲気だったり、そういった心以外の要因が俺の体を動かすこともある。


 俺は、雨谷の手を引いて歩く。金魚すくいの屋台の前で立ち止まって、


「それじゃあいろいろなことを経験しよう。実は、金魚すくいをやったことがないんだ」


 心の声を無視した。


「私も」と雨谷がしゃがむ。俺はポイを二つ買って、一つを雨谷に渡す。



 結果からすると、金魚は一匹も掬えなかった。俺は落胆した。あんな薄くて濡れた状態の布だか紙だか分からないもので、跳ねる金魚を掬えるわけがないだろう。ぼったくりだと思った。それと同時に巧い商売だとも思った。


 雨谷もさぞ落胆しているだろうと思って横を見てみるが、意外にも涼しい顔をしていた。


「かえって一匹も掬えなくてよかったかも」と雨谷が言う。


「どうして?」


「自分の命を粗末にしちゃうような私だから、きっと金魚も育てられないよ」


 ブラックジョークのつもりだったらしく、そんなことを言って笑っていた。


 そのとき、破裂音が藍の夜空に響く。俺と雨谷は同時に空を見上げる。


「花火だ」


 俺はぽつりと呟く。


 見れば、道路中に溢れていた人の波はいくらか隙間を作っていて、隙間を埋めていた人たちはこの花火のためにどこか見晴らしのいいところに移動した後だったようだ。道路に残っている人はみな立ち止まって、大輪が咲く夜空を見上げている。


 この花火は、毎年自分の部屋から眺めていた。ちょうど、建物の隙間から少しだけ見えることがあった。花火の色と音は、俺の中の夏を呼び起こすためのアラームみたいだった。花火を見てから、パソコンに向かって文章を書いた。ギターを抱えてメロディを作った。


 そんな花火を、今は雨谷と見ている。



 最後の一発が打ち上がる。それはそれは大きな花火で、空を埋め尽くさん勢いで弾けた。


「そろそろ行こうか」


 俺は雨谷の手を握って歩き出す。


「もう帰るの?」


 首を傾げる雨谷に振り返ると彼女に微笑みかける。


「二人で線香花火をしよう」



 近くのコンビニに行って、ノズルの長い着火ライターと水と花火を買った。


 そのまま歩いて神社まで向かおうと思ったが、慣れない下駄を履いていたせいか、雨谷は既に歩き疲れている様子だった。


 俺は彼女を背負って石段を登る。神社から降りていく人と何度もすれ違う。「背負わせてごめんね」だとか、「私、重くないかな。たくさん食べちゃったから絶対重いよ」なんて声が背中から聞こえる。終いには、消え入りそうな声で「恥ずかしい……」と溢していた。


 階段を登りきって神社に着くと、果たしてそこには誰もいなかった。花火も終わって、見晴らしのいいこの神社にいる必要もなくなったのだろう。


 つい先ほどすれ違った浴衣姿の男女が最後だったみたいだ。


 俺は雨谷を座らせるような形で境内に降ろすと、少し離れたところで花火を開封した。花火に同封されていた紙バケツに水を入れると、俺は雨谷に手招きをする。


 近寄ってきた雨谷に花火を一本手渡し、先端に火をつけた。ほどなくして、緑色の花が勢いよく咲き始める。緑から黄色、黄色から赤へと花は徐々に色を変え、そうして萎んでいく。


「やっぱり綺麗だね、花火」


 手元で咲く鮮やかな花を見つめながら、雨谷が言う。その花火から火を貰いながら、俺も頷いた。そうして同じ動作を繰り返して、花火から迸る一つの火種を二人で分けあった。



 手持ち花火一袋なんてものは、派手なパッケージのわりに大した本数は入っていない。すぐに無くなっていって、最後に線香花火が二本だけ残る。


「勝負する?」


「もちろん」


 雨谷の問いに俺は力強く答える。


「負けたらなんでもお願い聞くのでいいかな?」


 俺は頷いた。


 二人肩を寄せ合って、着火ライターから出ている炎に線香花火の先端を浸す。しばらくして蕾をつけた線香花火を、二人揃って眺めた。


 パチパチと小さな音を立てて花が咲き始める。


 お願いを聞く。俺のお願いは何だろうと、火花を散らすその中心を見つめながら考える。


 昔の自分は、あのとき何をお願いしようとしていたのだろう。結果として雨谷が勝ってしまったせいか、俺は自分のお願いを思い出せないままでいた。


 中学生の考えることだ。どうせくだらないことを思っていたに違いない。


 それとも、俺が勝って彼女に自分のお願いを伝えていたら、彼女が自殺することはなかったのだろうか。


「楓くん、私のこと考えてるでしょ」


 隣でしゃがんでいる雨谷が言う。その視線は、弾ける線香花火に固定されている。


「そうだね、雨谷のことを考えていた」


 俺はなおも自分の手の下で細い線にしがみついている火花を見つめている。その様は、まるでいつまでも雨谷涼夏に執着している俺みたいだった。


 そうだ。俺は雨谷涼夏に執着しているのだ。あの夏の感情が、雨谷が自殺したことで成仏できずにずっと居座っている。あの夏の地縛霊になっている。


 確かにそれは呪いで、俺を苦しめた元凶で、俺を創作に縛り付けたものだった。けれど、それゆえ本来抜け殻みたいな人生を歩むはずだった俺は、創作に縋ることを赦されていた。それがなければ、きっともっと早く死んでいただろうし、下手をすれば俺すら成仏できずにずっと彷徨っていたかもしれない。


 そういう意味では、雨谷涼夏がいなければ俺は生きていくことができなかった。俺の心の中心には、いつだって彼女がいたんだろう。


 それは多分、これからも変わらない気がする。


「あ」と、隣から声がする。


 俺は勢いを枯らして萎みかけている手元の線香花火から、その隣でついに力尽きた枯れ枝に目を向ける。


「残念、私の負けだね」


「昔とは逆になったな」


 そう言うと、雨谷は静かに「悔しいなぁ」と溢した。どこか安堵した様子だった。


「楓くんのお願いはなに?」


 枯れ枝をバケツに沈めながら言う。枯れ枝は、短い断末魔を上げながら冷たくなる。


「少し考えてみたんだけど、」


 俺も雨谷に倣って、蕾がしがみついた細い線をバケツに沈めた。雨谷のよりも大きな悲鳴を上げながら冷たくなった。


「俺は雨谷涼夏がいないと生きていけないんだ」


「うん。私も楓くんはそうなんだと思う」


 そう相槌を打つ雨谷を一瞥すると、俺は花火に付属されていた凝固剤を水バケツに入れながら言葉を続ける。


「雨谷涼夏の存在は、俺を蝕む呪いなんだと思う。でも、その呪いがないと、俺は空っぽの人間になって、役割を果たせないスケッチブックみたいになる」


「うん」


「だから、俺の中から消えないでほしいんだ」


 つい先ほどまで綺麗な火の花を咲かせていた幾本もの枯れ枝を掴んで、凝固剤を入れた紙バケツをかき混ぜながら、そんなことを口にする。水は少しずつ固まって、徐々に手元が重くなるのを感じた。


 そうして水が固まるまで、沈黙が俺と雨谷の間を流れた。


 かき混ぜられなくなった手を止める。ややあって、雨谷は俺の首に両手を回した。


「私も、楓くんと一緒にいたいよ」


 それが、俺のお願いに対する雨谷の答えなのだと思った。それと同時に、彼女なりの慰めなのだとも思った。


 俺は雨谷が首に腕を回したまま、彼女を負ぶった。「きゃっ」と短い悲鳴が聞こえたが無視する。


「そろそろ帰ろうか」


 そう言って、あの夏みたいに誰もいない石階段を二人で下っていった。

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