2-8

 会計を済ませた後、俺たちは日下部と駅で別れた。どうやら日下部はこの後も別の知人と飲む約束をしているらしかった。俺とは違い、日下部は交友関係が広かった。人との関りを保つには、彼が俺にそうしてくれるように、こまめに連絡を取ることが大切なのだろう。


 現に、そのおかげで俺も彼のことを友人だと認識できている。


 そんな彼の言葉を、俺は反芻する。



 ――今お前の側にいる雨谷涼夏は、果たして本当に人間なのか?



 俺は隣を歩く雨谷を見やる。視線に気づき、不思議そうに俺を見上げる。


 とてもではないが、人間以外の何かには見えなかった。


 俺も日下部と同じで、幽霊や宇宙人などのオカルトをエンタメとしては信じているが、実際に会ったことも見たこともないため、真に信じているわけではない。


 ただ、俺の経験と日下部の話を考慮すると、そういった超常的なものが存在することを前提としなければ、雨谷の存在を説明できないのだ。


 雨谷の自殺を通報した第三者、若い少女の声、俺との過去を事細かに知る雨谷涼夏、俺と吉澤の仲を知る雨谷涼夏。今、俺の隣を歩く女性が仮にその第三者で、何かしらの手段で俺や、生前の雨谷涼夏を見ていたことがあるならば、説明に無理が生じる部分は大きく減るだろう。あくまで、彼女が人間ではないという超常的な前提を信じるのであれば、の話だが。


「どうしたの?」と隣の雨谷が首を傾げる。


 俺は、「なんでもないよ」と誤魔化してから、とってつけたように「夏祭りがあるらしいんだ」と言う。


「いつ?」


「来週の土曜日。夏祭り行きたがっていただろう? 一緒にどうかと思って」


 俺が提案すると、雨谷は目を輝かせた。


「楽しみだなぁ。可愛い浴衣を着て、楓くんの隣を歩いて、屋台の食べ物を一緒に食べて、花火を見て……最後には二人きりで線香花火もしたいな」


「線香花火か、懐かしいね」


「昔はどっちが先に落ちるかで勝負したよね。私が勝ったけど」


「そうだね、俺の完敗だったな」


「負けた方が何でも言うこと聞くって言って、私、楓くんに何をお願いしたか憶えてる?」


 なんてことのない昔話。雨谷は含みのある言い回しでそんなことを俺に聞く。


「ああ」と俺は相槌を打つ。


 忘れたことなどない。その言葉が俺を創作に縛った呪いだ。



 昔、雨谷涼夏と手持ち花火をしたことがある。もちろん、場所は秘密の倉庫だった。


 一人で花火をやりたいからとか嘘を言って、親に買ってもらったのを覚えている。


 雨谷に倉庫で待ってもらい、俺はいったん家に戻る。家でバケツに水を汲んで、それを持って家の裏手にある坂を上った。ポケットには蝋燭が一本と、父から借りたライターが入っている。


 夕方に神社で雨谷を描いた後だったので、外はすでに薄暗く、花火が映えるにはちょうど良かった。


 倉庫に着くと、雨谷が窓枠に座って夜風を浴びていた。「おかえり」と言う雨谷が、風に靡く髪を抑えながら俺の方に振り向く。


「ただいま」


 俺は袋に入った花火をテーブル代わりの段ボール箱の上に置く。蝋燭の下部をライターで炙って溶かしてから、床に立てる。火をつける。


 俺と雨谷は早速花火の袋を開けて、各々好きなものを手に取って、二人横に並んでしゃがんでから、花火の先端を火につけた。しばらくして、赤や緑の花が咲き始める。


「綺麗だね」と雨谷が言う。


「綺麗だね」と同じことを俺も繰り返す。


 花火をして遊ぶ子どもなんてものは、世間一般だともっとはしゃぐものだと思うのだが、俺と雨谷はまるで生け花を愛でるかのように、静かに輝く炎の花を見つめていた。


 花が枯れれば、次の花を手に取って咲かせ、また枯れれば次の花を手に取った。そうして、咲かなくなった花殻をバケツに入れた。


 ずっと手元ばかり見ていた俺は不意に、雨谷はどんな顔をしているんだろう、と思って横を向く。そのとき、雨谷もこちらを向いていて、目が合って、雨谷は微笑んだ。


 俺たちの間に言葉はなかった。ただ、同じ時間で同じ美しさを共有できているだけで、俺は幸せだった。


 そんな風に、残りの花火が二本の線香花火になるまで、咲いては枯れ、咲いては枯れを繰り返す花を見送った。


「楓くん、勝負しようよ」


 線香花火を取り出す俺に、雨谷がそんな提案をする。


「勝負?」


「そう。先に線香花火が落ちた方が負け。負けた方は勝った方の言うことを聞く」


 雨谷が普段なら絶対にしないようなしたり顔を浮かべる。俺は雨谷の勝負に乗ることにした。


 二人同時に線香花火に火をつけて、火花を散らし始めるのをじっと待つ。蕾ができ、牡丹の様に火花が散り始める。しばらくして、火花はさらに大きくなって、密度を増して、松葉のごとく弾け始めた。


 火花に照らされる雨谷の顔を見やる。まるで夕日に照らされているみたいで綺麗だった。その横顔さえもスケッチブックに遺したかったが、線香花火を持っている手前、それはなかなか難しかった。だから、俺は彼女の横顔を網膜に焼くことにした。


 一度も、俺は自分の手元の花火を見なかった。だからだろう。俺は自分の手元で弾けていた線香花火がいつの間にか散っていることにすら気づかなかった。


「私の勝ちだね」と雨谷が言う。しばらくして、雨谷の線香花火が枯れる。


「俺の完敗だ」


 俺は線香花火の花殻をバケツに放ると、蝋燭の火を消した。倉庫の中が暗闇に包まれる。


「それじゃあ、私のお願い、聞いてもらおうかな」


 嬉しそうに雨谷が言う。俺は、まるでお手上げだと言わんばかりに両手を挙げて「なんでも言うといいよ」と言ってみる。


 このときの俺は既に雨谷に恋していたし、雨谷もきっと同じ気持ちだろうと勝手に思っていた。キスを求められたりするんじゃないだろうかとか、そういうませた考え方をするぐらいには、俺は雨谷のことを意識していた。


 だが、実際にそれは単なる自惚れでしかなく、雨谷の要求はもっと単純なものだった。


「私のことをこれからも描いてほしいの」


 思いもよらぬ要求に俺は少しの驚きを感じたものの、「もちろん」と快諾した。そんなことでいいのか、とさえ思った。だってそれは、この夏にやってきたことと何一つ変わらないから。


 ただそれが、雨谷が自殺を決意している前提であるならば、意味合いは大きく変わってくる。


 何かに記録してほしいというのは、遠回しに言えば「忘れないでほしい」であることを知るのは、雨谷が自殺してしまって、彼女の机に置かれた花瓶のスケッチを描いているときだった。


 結論から言ってしまえば、俺は雨谷のお願いを聞くことができなかった。彼女が死んでから、俺は記憶の中の彼女を描くどころか、絵を描くことすら辞めてしまった。ただ、その代わりに俺は小説と音楽を始める。


 彼女の言葉を呪いの様にして創作にのめり込む。



「この一週間、私と過ごして、その言葉を忘れられた?」


 隣を歩く雨谷がそんなことを聞いてくる。彼女の視線は真っ直ぐに前を見つめ、しかしその言葉は俺の方を向いていた。


 その問いが、どういう意味合いで発せられたのだろうと俺は思う。


 そういえば、秘密の倉庫で会ったときに「昔の私が楓くんに付けた傷をただ癒したいだけ」と言っていたのを思い出した。


 もしそうだとすれば、俺の隣を歩く雨谷涼夏は、かつての雨谷涼夏のことを俺に忘れてほしいんじゃないだろうか。一体、何のために?


 彼女の目的を紐解く鍵の一つを見つけた気はしたが、それを指すための鍵穴は、俺の知識と思考の中にはどこにもなかった。


 俺は単純に、「そう簡単に好きな人のことを忘れられるわけがないよ」と答えた。


 俺の返答を受けた雨谷は、「じゃあ」と言って少し駆けて、俺の数歩前で立ち止まって振り返る。


「私ももっと頑張らなきゃだね」


 そうする仕草は、実に雨谷らしく、俺は今考えていたことを全部放棄したくなった。やっぱり俺の目には、俺が恋した雨谷涼夏にしか見えなかった。

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