2-7

 土曜日、俺と雨谷は例の神社に行く。夕方には日下部が来るので、趣向を変えて早朝に行った。日が昇るか昇らないかの、薄明の下で車を走らせる。


 神社に着く頃には日の出時刻を過ぎていたが、相変わらず神社は山に囲まれており、朝日が差し込むようなことはなかった。きっと、昼間に来ればこの神社も陽光を浴びることができるのだろうが、あいにくその時間帯は人間が外で何かするには適していない。


 早朝なためか、モデルになっている雨谷はまだ眠そうだった。目は半開きで、欠伸を繰り返していた。それはそれで、可愛らしいものだと思う。


 この神社以外にも、俺と雨谷は神社を探している。火曜は洋食屋で食事を済ませた後、南に向けて車を走らせた。どうやら、景色のいい神社があるとSNSで話題になったことがあるらしい。調べると三年前の投稿だったので、さすがに流行りは過ぎているだろうと思い、その神社に向かった。


 結果から言ってしまえば、人が多かったのでやめた。その日は助手席でうたた寝をする雨谷を描いて終わった。


 次の日は、いっそのこと観光地に行ってしまおうかということで、大きな神社に向かった。なかなかに広く、一周するだけでもそれなりに時間が掛かった。


 甘味処であんみつを頬張る雨谷を描いた。


 次の日も神社を探す。その次の日も神社を探す。そんな日々を送っていた。


 神社をわざわざ探すぐらいなら、実家に帰ってあの神社に行けばいいと言われるかもしれないが、俺の中ではあの神社はあの夏にしかないのだ。


 今行ったところで、きっと「何かが足りない」で終わってしまう。


 俺と暮らす雨谷涼夏は紛れもなく雨谷涼夏だ。こればかりはもう否定のしようがないくらい、俺の脳と心に馴染んでいた。


 ただ、そこには漠然とした「何かが足りない」という感覚が付きまとっている。それをこの数日で実感している。


 答えは分かりきっている。俺はあの夏の重力に囚われたままでいるのだ。


 あの夏の雨谷と、今俺の側にいる雨谷はほとんど同一人物であるが、それは決してイコールではない。当たり前かもしれないが、きっと何かが少しだけ違っているのだ。


 俺はそれに目を瞑って、今日も彼女をスケッチしている。



 俺と雨谷は、日下部からの「あと一時間ぐらいで駅に着く」というメッセージを受けてから、タイミングを見計らって家を出た。


 駅舎の白い壁が、夕日を受けて朱に染まっている。駅に入ると、すでに日下部は改札を出たところで壁に寄りかかっていた。


 待っていたと言わんばかりに、背の高い男が手を挙げる。白いシャツにデニムパンツというシンプルな出で立ちだったが、ほんの少し焼けた薄褐色の肌にはよく似合っていた。


 日下部は俺の顔を認めると、視線を横にスライドさせ、俺の隣の雨谷を見やる。目が合ったのか、雨谷は「お久しぶりです」と小さく会釈する。


 そういえば、雨谷は一度日下部を尋ねているのだったと俺は思い出す。そのときの日下部の対応は、詐欺師に対するそれであったので、雨谷にとってはあまり印象の良いものではなかったはずだ。もしかしたら、何かひどいことを言われるかもとびくびくしているかもしれない。


 相変わらず、日下部は訝しむように雨谷を見つめている。その視線に気圧されるように、雨谷は俺の後ろに隠れた。


「日下部、お前はただでさえデカくて圧が強いんだから、そんなに見つめてやらないでくれ」


 俺がそう言うと、日下部は「すまん」と謝罪を入れる。


「ただ、本当に吉澤の妄言じゃなかったんだなと思って」


 妄言だと思われていたことは心外だが、死んだはずの人間が隣にいると言えば誰だって同じことを思うだろう。


 そんな死んだはずの人間を、日下部はなおも不思議そうに眺めている。そして雨谷はやはり日下部に対して少し戸惑っていた。


「とりあえず、どこか店に入ろうか」


 そんな雰囲気を変えようと提案する。


 俺は雨谷の手を握ると、予め目星をつけておいた居酒屋に直行する。


 その後ろを、日下部が無言でついてくる。



 席に着くと、俺と日下部はビールを、雨谷は先日の反省を込めてかウーロン茶を注文する。飲み物が運ばれる間に適当なつまみをタッチパネルで注文し、飲み物が運ばれると流れるように乾杯した。


 各々が一度喉を潤したところで、日下部が口を開く。


「雨谷涼夏は死んだはずだ」


 その疑問は、日下部の口から出てきて当たり前のものだった。日下部が真っ直ぐに雨谷を見つめる。その視線を、雨谷が見つめ返す。


 その質問が飛んでくること自体は雨谷も想定していたのだろう。「うん、そうだね」と、俺が同じ質問をしたときと同様にそれを肯定した。


「あっさり認めるんだな」


「うん。雨谷涼夏が死んだのは事実だからね」


「どうして、死者を騙って吉澤に近づく必要があった?」


「それは、私が雨谷涼夏だから」


 そんな会話を、俺は黙って眺める。今の雨谷の回答は、日下部から見れば要領を得ていないはずだ。なぜなら雨谷の言い分はたったの二言で矛盾しているからだ。


 その矛盾が、あまりにも堂々と語られている。日下部はうーんと唸るほかなかった。


「……吉澤からある程度の話は聞いている。あんたが吉澤と雨谷しか知らない情報を持っているだとか、昔の雨谷の面影があるとか。俺もびっくりしたよ。俺は今日、小学校の卒業アルバムの雨谷を見てからここに来ている。本当に、そのまま成長させればこうなるだろうな、という感想以外出てこない。あんたを雨谷涼夏ではないと断言するための材料がない。こんなもの、悪魔の証明だ。俺は現状、あんたのことを雨谷涼夏だと認めざるを得ない」


 それが、日下部が出した答えだった。


 そう、認めるしかないのだ。誰がどう見てもあり得ない状況だが、彼女は雨谷涼夏を名乗り、雨谷涼夏の記憶を持ち、雨谷涼夏として生きている。それ以外に、何が必要というのだろうか。


 彼女は雨谷涼夏以外の何者でもないのだ。


 そんな日下部の回答を聞いて、雨谷は「うん」と深く頷いて、


「今はそれでいいの」


 そう付け足した。



 この会話以降、日下部は彼女のことを本物の雨谷涼夏として接していた。日下部も気になっていたであろう彼女自身のこと、俺との関係のことを尋ねていた。


 話の半分は、概ね俺が電車の中で雨谷から聞いた自殺理由の話だった。日下部はそれを黙って、注意深く聞いていた。それはまるで、詐欺師の言葉の端々に見え隠れするボロを見逃すまいとするような、狩人のような目つきだった。


 ただ、これとは対照的に雨谷は日下部の質問に淀みなく答えていた。自らの死にまつわる話であるにもかかわらず、濁すことも逸らすこともなかった。


 そうして俺の近況であったり、日下部の近況であったりが語られて、一時間半があっという間に過ぎていく。


 日下部の、こちらに用事があるというその用事については、俺自身あまり興味がなかったので聞かないでいたが、どうにも仕事関係であるようなことを言っていた。



 もうすぐ二時間になろうかというとき、雨谷がお手洗いに立つ。その背を見つめる日下部が、俺に向けて口を開いた。


「雨谷涼夏の死には不可解な点がある」


 言って、ゆっくりと視線をこちらに移した。


 おそらく、最初からこの話を俺にしようと思っていたのだろう。ただ、俺の妄言の真相を確かめたかったのもあり、ずっとこのタイミングを計っていたのだ。


「さっきの、雨谷の話を聞いて俺なりにこの時間でいろいろと考えてみた」


「聞こうか」


 俺はジョッキに入った少ないビールを飲み干して、前のめりになって日下部を見る。日下部は一つ咳払いをしてから、話を続ける。


「俺がお前と雨谷の関係を聞いたとき、不躾だが雨谷涼夏のことが気になってな。彼女の死について少し調べた。当時担当した警察っていうのが、俺たちの同級生の猿渡ってやつの父親だった。覚えているか?」


「いや」


「まあ、そうだろうな。その猿渡に話を聞いたところ、雨谷の自殺は、現場である彼女の自宅からの通報を受けて発覚したらしい」


「母親が通報したのか?」


「俺も最初はそう思っていたんだが、さっきの雨谷の話を聞いたところ、雨谷の母親はその時期にはすでに雨谷を棄てている。帰ってきたりはしていないはずだ」


 そこで会話に一区切りつく。日下部もビールを飲み干す。


「それに加えて、通報の主は若い少女の声だったとのことだ。不思議だったからよく覚えていると話していた。通報を受けて現場に向かったら、通報した本人はどこにもおらず、ただ自殺した雨谷の遺体だけがぶら下がっている。まるで、死者が自分から通報したみたいだったと」


 俺は酔った思考で今の話を咀嚼する。日下部の話を簡潔にまとめると、雨谷の自殺現場には若い少女の声の第三者がいたが、警察が着く頃にはいなかった、ということだ。


 俺は不意に、居酒屋のトイレがある方に目を向ける。まだ、雨谷が出てくる気配はない。


「つまり俺が吉澤に言いたいのは、」


「俺の前に現れた雨谷涼夏がその第三者であるということか」


 俺が言葉を被せると、日下部は深く頷いた。


「俺は、その第三者――お前の側にいる雨谷涼夏が、本物の雨谷涼夏と親密な関係だったと推測する。そうであれば、本物の雨谷がその第三者にお前のことを話していてもおかしくはない」


「それはありえない」と、俺は日下部の仮説を否定する。


「彼女が仮に、雨谷涼夏ではない人物だとした場合、なぜその顔が、言動が、雨谷涼夏にそっくりなのか。前提として彼女に姉妹はない。あそこまでそっくりな他人がそう近くにいるとは思えない。それに、本物の雨谷が第三者の雨谷に俺のことを話していたとして、俺との会話の中に齟齬がない。人から聞いただけの話を、さも自分のことであるかのように話すにしては、あまりにも言葉に淀みがない」


 俺の指摘に日下部は黙り込む。


 実際に今の雨谷と言葉を交わした身としては、彼女はあまりにも雨谷涼夏そのものなのだ。むしろ、それ以外である可能性を考える方が難しい。昔の思い出を語るときの言い草はあまりにも自然で違和感がない。それどころか、俺が言われて思い出すようなことでさえ、彼女は記憶にとどめている。


 もしそのすべてが演技なら、とんでもない役者だ。アカデミー賞を総なめすることだろう。


「……もう一つ、俺としては気になる点がある」と、日下部が再び口を開く。


「第三者の雨谷は、どこで俺と吉澤の仲を知った? 雨谷涼夏は中学生のときにはすでに故人で、そのときは俺とお前はまだ親密になっていなかった。俺とお前が話すようになったのは高校に入ってからだ。それを雨谷はどこで知った? 高校の同級生何人かに、『俺と吉澤の関係について聞いてきたやつがいるか』と連絡を取ったが、全員が首を横に振った。それどころか、吉澤のことを覚えてすらいないやつもいた。つまり、第三者の雨谷は最初から俺と吉澤の関係を知っていた」


 そう語る日下部の向こうに、雨谷の姿が見える。その視線に気づいてか、日下部も背後を一瞥する。ため息をついて日下部が声のトーンを落として続ける。


「これは、お前の話を聞いた上での俺の結論だ。先に言っておくが、俺は幽霊とか宇宙人とか、そういうオカルトはエンタメとしては信じるが、心の底から信じているわけじゃない。それでも、今の話を総合的に捉えても、この結論しか出なかった」


 雨谷がこちらに戻ってくる。日下部が小声で俺にこう言う。


「今お前の側にいる雨谷涼夏は、果たして本当に人間なのか?」

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