第2話 愛弥子先生
コートを受け取ってハンガーに掛け、バスタオルを渡して髪を
入って来たときには、振り乱した髪のあいだから目だけがおっかなく光っているという、ほんとうに魔物か妖怪のような姿だったのだが。
櫛を通すと、昔どおりの愛弥子先生だ。
クリーム色の薄手のセーターに、グレーのジャケット、グレー基調のチェックのバイアス地のスカートに黒タイツという姿で、その小ぎれいさも愛弥子先生らしい。
愛弥子先生はフルート奏者で、十年以上前にはお母さんとデュオを組んでフルートを演奏していた。
ピアニストのお母さんと組んで演奏していた演奏家はほかにもいたけれど、お母さんはこの愛弥子先生がいちばん気に入っているようだった。
じっさい、音楽がよくわからない
十年前の前の四月、ここから電車で二時間近くかかる街にある学校の音楽教師兼吹奏楽部顧問として赴任した。お母さんの病気が見つかったのはその年末だから、その前ということになる。
お母さんは、自分の病気のことを愛弥子先生には知らせないようにしていた。だから、紗那美が、その赴任以後愛弥子先生に会ったのは、お母さんのお葬式のときだけだ。
紗那美はトルコで買ってきたお茶セットのグラスに紅茶を入れて、愛弥子先生に出す。
茶葉はイギリスのものだから、あまりトルコ的ではない。でも、あまり大きくない、くびれた形のガラスのグラスを、椅子と同じ高さのテーブルに置いて紅茶を飲むと、紅茶を飲むときの「構えた感じ」が解ける。
震える手でそのトルコ風お茶グラスを取り、濃い紅茶を一口飲むと、愛弥子先生は、やっとふうっとひと息をついた。
「今日は、お仕事で東京ですか?」
と、紗那美は、わざとゆったりした声できく。
違うだろうな、と思いながら。
仕事に来たにしては小さなバッグ以外に荷物を持っていないし、ただ強い雨に
愛弥子先生は、はっ、と顔を上げて、その両目で紗那美の顔を見た。
何も言わずにグラスを置いて目を伏せたのは、自分を落ち着かせるためだろう。
そこから、ゆっくりとまた顔を上げる。
ようやく、
「逃げて来た」
紗那美は緊張する。
ストーカーとかだろうか。だったら、そいつがここに来てしまうかも知れない。
警察に電話したほうがいい?
でも、愛弥子先生は、続けて
「学校から……仕事から、逃げてきた」
と、掠れた声を震わせながら、でもはっきりと、言う。
こんどは驚いた。
でも、驚いてもいないふりで、さりげなく、次をきく。
「
協誠女子中学校・高等学校というのが、愛弥子先生の勤め先の学校の名だ。
愛弥子先生がびくびくっと震えたのがわかった。
今度は答えにならない。
ただ、うん、うんと、紗那美に向かってうなずく。
つけ加えて、言う。
「二度と戻らない」
「いや、それは」
いまは十一月。
学校はまだ学期中のはずだ。
紗那美は、平静を装ってきく。
「でも、いま、学期の途中ですよね?」
ひ弱な新人教師とかならともかく、紗那美よりも十歳歳上の愛弥子先生が、学期の途中で授業を投げ出し、「逃げて」くるなんて、よほどの事情があるのだ。
まして、吹奏楽部の顧問の仕事は、どうするのだろう。
「生徒のいじめに加担した、って」
涙声の手前ぎりぎりの、愛弥子先生の声だ。
「いや」
と、紗那美はまた平静を装って、自分の紅茶グラスを持ち上げる。。
ほんとうは、愛弥子先生が「いじめに加担」なんて考えられないと、心のなかが沸き立っていた。
大きな誤解か、何かにはめられたのか。
そんな思いが心のなかを行き来している。
きく。
「愛弥子先生がいじめなんて、あり得ないでしょ?」
協誠は、剣道、陸上、バレーボール、それに女子野球とさまざまなスポーツで全国に名を知られている。
それだけに校風も「体育会的」だと、もう十年前、就職したばかりのこの愛弥子先生が言っていた。
吹奏楽部も例外ではない。
そんな校風だから、「いじめ」的なことも多いのかも知れない。
何か、許容範囲を超えた事件が起こり、だれかに責任を取らせなければならず、それが愛弥子先生に回って来たのだろうか。
愛弥子先生は、まず、ぶるぶるっと、小さく、でも激しく首を振った。
「
と短く言い、そこでことばを詰まらせる。
それでも、愛弥子先生は、紗那美がきき返す前に、言った。
「信じてたのに、愛萌ちゃんが!」
ようやくそれだけ言うと、支えがはずれたように、愛弥子先生はその紅茶グラスの載っている低いテーブルの上に、泣き崩れた。
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