MANAMIサロンの夜

清瀬 六朗

第1話 閉店時間後の来訪者

 その日は朝から雨だった。夕方からは雷の音も聞こえる強い雨になった。

 ピアノは木でできているので、湿気の強い日はその湿気を吸って音が変わる、という。

 たぶん、ピアノの音を伝える空気の性質も変わるのだろう。

 お母さんなら、わかったんだろうな。

 「外、雨、強いみたいですから気をつけてください」

と言って、玉橋たまはし紗那美さなみは、ピアノ教室に来ていた師弟二人組を送り出す。

 東京のはずれにあるこのMANAMIマナミシンフォニエッタ・サロンは音楽ホールで、小規模な室内オーケストラならば演奏会を開くこともできる。

 でも、本格的なグランドピアノが二台あるので、ほんもののピアノを使った楽器練習やピアノ教室、音楽を弾くプロやアマチュアの語らいの場としても使ってほしい。

 そんな思いから、ここを「ホール」でも「スタジオ」でもなく、「サロン」と名づけたのは、お母さん。

 紗那美の母、八城やしろ真那美まなみだ。

 自分が「えと」四回りしたから、と、自分が四十八になる年に、もともと運送会社のオフィスが入っていたビルの八階のフロアを買い取り、防音工事をやって、この「サロン」を開いた。

 「えと」の四回りよりも、一人娘の紗那美が中学校の体育教師の職に就いて結婚し、生活も安定して親許から離れたと思ったからだったろう。

 そのお母さんが、その数年後、いまからちょうど十年前に、全身の筋力の衰える病気が見つかって入院し、引退した。

 前から不調は感じていたはずだが、お母さんのことだから、だれにも言わずにがまんしていたのだろう。

 その日も、目がぼんやりする、と、眼鏡を作るつもりで眼科のお医者さんに行って病気が見つかったのだ。

 治療は長引きそうだった。

 それで、紗那美は、同じように教師をやっている夫とも相談して学校を辞め、母からこのサロンを受け継いだ。

 そのお母さんも闘病生活の果てに亡くなり、それからはこの「サロン」が広く見えるようになった。

 入院してから、お母さんは一度もここには来ていない。だから、紗那美がここの主人になってから、お母さんがここにいたことは一度もなかった。

 でも、やっぱり紗那美はここに自分の母の存在を感じていたのだろう。

 そのお母さんが亡くなって、その「存在感」も消えてしまった。

 そして、自分は、このサロンを経営するにはまだまだだと思う。何より、お母さんと違って、ピアノは「見よう見まね」程度にしか弾けないし、ほかの楽器もできない。

 夫の教師の仕事は激務だ。

 いまから帰ってもまだ夫は帰っていないだろう。学校を出た、という知らせのメッセージも来ない。

 だったら、帰るまえに、お茶を飲む時間はあるだろう。

 お湯は沸いていたので、そのお湯でお茶を入れようとしたときのことだ。

 MANAMIシンフォニエッタ・サロンのドアの向こうで、エレベーターの戸が開く音がした。

 もうサロンの閉店時間は過ぎている。

 昼にここを使っただれかが忘れ物でもしたのだろうか。

 紗那美は、鍵を締めた戸を開けて、エレベーターの前を見る。

 いたのは、黒い三角形の何者か。

 何か黒光りしている。

 すぐには判別がつかないが、何かファンタジーに出て来る魔物っぽい。

 こちらに向かってくるわけでもないので、サロンの戸を閉めようかと思ったとき、その「何者か」が立ち上がった。

 エレベーターを降りたところで力尽きたか、下りるときに転びかけたか。

 黒いコートを着た、髪も黒い、女だ。

 「何者か」ではなく、もちろん魔物でもなく、人間の女。

 黒光りしていたのは、外の雨でコートが濡れていたからだ。

 何をしに来たんだろう、と、歳上らしいその女の顔を見て、五秒ぐらい。

 「あ」

と声が漏れる。

 目が大きく見開いたのも、自分でわかった。

 「愛弥子あみこ……先生!」

 その紗那美の声に、竹中たけなか愛弥子先生は、無表情なまましばらくいたけれど。

 やがて、はっきり、うん、とうなずいた。

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