第四章 怪異③
今にも走り出したい衝動が全員を支配していた。
どす黒い塊は水を掻き分け、太鼓の音を鳴らしながら彼らを追っている。でん、でん、と音が鳴る度に一歩ずつ進んでいる。
「文勝、距離を保てよ。逃げ出されても追いつかれてもいかん」
はい、と返す文勝の声は震えて、とうに歯が鳴っている。彼の震えながら途絶え途絶えに経文を唱えていた。
モーターに死骸が絡まって、たまにボートが大きく揺れる。行信はでんでんをただじっと見つめていた。
琳子が太陽に隠れるようにして袖を掴んだ。太陽がその手を握り返すと、恐怖で冷え切っている。
でんでんは泥の塊に死骸を張り付けたみたいだった。何十本もの腕が生えて、そのすべてが生白い女の細腕だ。明かりのない夜に肌がぬらりと光っている。
ででん、ででん、と音がするたびに、無数の腕が這うように川を下った。獲物を追い詰めるさまを楽しむように、じわじわと距離を詰めたり、離されたりを繰り返す。
ボートに合わせて陸路を歩く太陽の靴が何かを潰した。
恐る恐るライトを足元へ向ける。
そこには一匹の虫がいた。
「お兄ちゃん!」と琳子が背後の道を照らした。アスファルトの道がどす黒く染まっている。
虫と泥。川からはみだしたでんでんの一部が太陽と琳子に迫っている。
今にも逃げようとする琳子の手を掴んで「ダメだ!」と引き留める。琳子は恐怖に青ざめていた。
じりじりと下流へと進んでいく。汗が額から流れて首まで伝っていた。
「行信、どこまで行けばいい?」と太陽が聞くと、彼は「わかるもんか」と吐き捨てた。
「すぐに河口だ。どこかで適当に飛び乗れ」
「バカじゃないの!?」
「じゃあぼんやりそこを歩いていろ。どちらにせよ、これを海まで連れて行かんことには何も治まらん。それとも太陽を殺すか?」
行信がピシャリと言い放って、琳子が押し黙る。
涼太郎が震える唇を押さえて、文勝に「少し陸に寄せられるか」と聞くと、彼はぶるぶると震えながら小さく頷く。
「太陽くん、琳子さん。ボートを寄せる。合流してくれ」
「転覆しないでしょうね」
「それは運次第だ、琳子」
川の方へ寄りながら落差がない場所を探す。観世音像が船から落ちたら大事だ。
ゆっくりゆっくり、距離が詰められないように河口へ向かう。文勝がハンドルを陸に寄せようとした、その時だった。
ででん、と大きな音が鳴って、女の押し殺したような笑い声が聞こえ始めた。
「うわあ!」
文勝が声を上げた。涼太郎が咄嗟に運転席へライトを向けようとすると、女の手がそれを掴んだ。思わず振り払うと手はからかうように消える。
文勝が叫びながら運転席から転がり出た。
「住職!」と叫んだ口が女の手で塞がれる。そしてそのまま、運転席へと引きずり戻された。無数の手が運転席から伸びていた。
女の手がおもちゃみたいに文勝を弄んでいる。
「文勝さん!」と琳子が呼ぶと、手がずるりと陸路を向く。そして船から一斉に離れると、アスファルトを這いあがり始めた。
行信が腕を掻き分け、引きちぎるようにして運転席へと向かう。文勝の首根っこを掴んだかと思うと、席の外へと放り出した。
ででん、ででん、と楽しそうな太鼓の音が響く。女の腕が川から陸へ、太陽と琳子へ狙いを定めた。
太陽と琳子が思わず足を早めようとした時だった。
上流の車道からヘッドライトが射し込む。ふたりに迫っていた腕がそちらを向いた。
「来い!」と涼太郎が声を上げる。ボートは陸へと寄っていた。
太陽が琳子の手を引いた。川べりで一瞬立ち止まり、意を決し、ふたりで飛ぶ。足の下から無数の手が伸びて汚れた指先が空を掻く。
太陽は涼太郎に、琳子は文勝に受け止められるように船へと飛び移った。ボートが二、三度大きく横揺れする。海水と虫がざぶざぶと船を濡らしていく。
観世音像が不安定に揺れてごとりと倒れた。
ででん、ででん、と太鼓が鳴り続けている。太陽が顔を上げると、すぐそばの車道を銀のアルファードが並走していた。
腕はそのどちらをも追いながら、怒り狂うように水と陸を掻き分ける。車がスピードを上げるせいで怪物も迫るから、行信も仕方なしにボートのアクセルを強く踏んだ。
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