第三章 正義⑦
蝉もそろそろ鳴き疲れる、まだ暮れない夕刻。行信が帰ると、母のサチが玄関に座り込んでいた。
どうやらデイサービスから帰ってずっとそこにいたらしい。服は余所行きのままで、寂しそうに外を眺めている。
行信が前に立つと、隠れてしまうほどに小さい姿だった。
「何しとる。熱中症にでもなったら死ぬぞ。私はもうしばらく親族の供養なんざごめんだ」
そう言いながら覗き込むも、母は寂しそうに傍にはべる人面犬を撫でていた。行信の霊感はサチ譲りで、怪異にまったく動じないのもこの母の教育故だ。
昔は白剛寺の坊守さんとして快活で有名だったらしい。今は背が曲がり、どこかのんびりとした雰囲気を纏って、ただ寺の行く末を見守るようだった。
行信が「どうかしたのか?」と横に座ると、コンクリートは焼けて熱くなっていた。
サチはぼうっと墓地の方を見ながら「琳子ちゃん、出ていったのねえ」と呟いた。
「ああ、もうここにいる必要もないからな」
「お盆までいてもらったらよかったのに。文勝さんも忙しそうだわ」
「いつまでも無償で娘っ子を置いとくわけにもいかん。恵美子がいたら別だけどな」
「恵美子さんねえ。どこかからパッと現れてくれないかしらって思うのよ」
「そんなことがあっては私が困る。あれはもう浄土へ行った。今頃阿弥陀様を顎で使ってるだろうよ」
「あらそう? 寂しいわね」
帰路を急ぐカラスが鳴いていた。墓地の怪異がいたずらをしているらしく、卒塔婆が境内を飛んでいる。
外は子どもの声や車のエンジンが響いている。しかし街中にあってもどこか俗世離れした寺社という場所では、すべての音が遠くに聞こえるようだった。
鋭い陽射しが少しずつ傾いている。盆も数日後に迫り、最後の猛暑が路地を縫うように流れこんでいた。
ぬるい風に嫌気がさして行信が立ち上がる。
「母さん立ってくれ。こんなところにいたらゆで上がってしまうだろ」
何度もしつこく促して、ようやく母親も腰を上げた。
「太陽さんや、涼太郎さんは今度いつ遊びに来るの?」
「もう来ない。用事が済んだからな」
「まあ。ゆきのぶちゃんが初めて友達を連れてきたと思ったのに」
サチの記憶では行信に親しい者がいたことはほとんどない。他所の寺から嫁入りした恵美子に対しても、当初は随分とよそよそしくかったのだ。
ただこの恵美子、相当に活発な女だったせいで、いつの間に行信の傍にいるのが当たり前になっていた。
行信は友達と言う単語に対してウエ、と吐き戻すような仕草をして見せた。昔から友人と呼べる者がいないことを気にも留めない、変わり者の息子が彼なのだ。
「友達とかいう気持ち悪いもの私はいらない、金さえあればいい。金はいいぞ、母さん。ボケ防止にギャンブルでもやってみないかね」
「またそんなこと言って。この子は仏様の何を学んだのかしら」
「仏の道に入ったからこそだ。煩悩は消滅するものじゃない」
「恵美子さんがいたら叱ってもらうのに。あなたは言うこと聞きやしないだろうけど」
「もういいから、部屋に戻って体をよく冷やせ。倒れられちゃかなわん。恵美子はまだしも私は気付かないからな」
はいはい、とサチはゆっくり廊下を歩いていく。いくらか進むと行信を振り返って「ゆきのぶちゃん」と彼を呼んだ。
呼べばきちんと振り向くのだから、彼にも人の情はある。そう思ってサチは少しだけ大きな声を出した。
「琳子ちゃんと、太陽さんと、涼太郎さん。いつでもいらっしゃいと伝えておいてね。ババで良ければお話しますからね」
「何を話すと言うんだ」
「ゆきのぶちゃんが、いつもお世話になっていますって話すのよ」
「いらん、いらん」と手を振って行信は庫裡へと下がる。廊下にぽつんと残されたサチは、静かになった寺務所を見て息をついた。
たった一週間前かそこら、二日間ほど。寺はとても賑やかだった。大体は行信と涼太郎の言い合いで、それを貸与と琳子が諫めて、文勝が遠巻きに見守っている。
裏にある隠し事や駆け引きは、サチには想像すらできなかった。ただその光景を好ましく思っていたのだ。
何より行信が楽しそうに見えていた。
「さみしいわねえ。私も一緒に朝ごはんしたかったわ」
サチはゆっくり、ゆっくりと廊下の奥へと進んでいく。
そうしてまた寺務所は寡黙になった。
ひとりきりの部屋で「まったく面倒なバアさんだ」と行信は肩を揉んだ。
ソファの片側に寄って腰かけていることに気がついて真ん中に座り直すも、どうも居心地が悪い。また一人分空けて座り直す。右側は恵美子の領域だった。
彼のギャンブル狂いをとがめはしたが「罰されないのも阿弥陀様の慈悲かしらね」とけらけら笑うのが恵美子だった。治安の悪いところには行かないでよと釘を刺し、行信が言いつけを破る度に飽きもせず説教をしていた。
部屋は恵美子の趣味で彩られている。グレートーンのベッドとソファ、嫁入り道具のドレッサー。片付けのしようもなく、彼女の化粧道具が死んだ日のまま放置されている。
昔から人間嫌いで怪異を連れ歩く行信だったが、恵美子はその境界線を無理やり乗り越える女で、行信はずっと恵美子のことが苦手だと思っていた。
そう思っている内に彼女はでんでんによって命を奪われた。胸の内にあるティースプーン一さじの感情を理解できないまま、行信はひとり、首を傾げた。
どこかの寺で鐘が鳴る。その音に合わせて行信を食事に呼ぶ人は、常世にはもういない。
竹を割ったような彼女は、きっととっくに浄土にいるのだ。
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