第二章 犯人⑬

 全力で走りながらスマートフォンを手に取る。琳子と行信に「いた、海の香りがする!あたりだ!」と話しながら背後を見ないで走る。涼太郎はただ手を引かれて、されるがままだった。


 ふたりが駆け込んだのは浦島寺だった。太鼓の音は遠くなっている。ふたりが力なく崩れ落ちると、墓地の影から怪異たちが顔をのぞかせた。


 呼吸が落ち着く頃、琳子と行信も浦島寺に戻った。太陽が連れた人を見て、ふたりも目を見開いた。

「涼太郎、お前さんなぜ女物の服を着ている? 単に女物の服が好きというわけでもなさそうだな、そうだろう?」

 歯に衣着せず行信は愉快そうだった。

 涼太郎がずれたロングヘアーのウィッグを取る。パンプスを脱ぐと、慣れない靴で血が滲んでいた。

「とりあえず墓地の方に行け。人に聞かれたくない話ならあそこがいちばんだ。私は茶菓子でも取ってくる」

 また楽しいものを見つけたとでも言いたそうに、機嫌よく行信が庫裡へと向かった。

 涼太郎が墓石に腰を下ろす。行信の影響かすっかり無作法らしい。どこか優美だった涼太郎の姿はそこにはなく、ただ不機嫌そうに足を組んでいる。ロングスカートから覗くストッキングは破れて傷だらけだ。

 いつの間にか、遠くにあった太鼓の音すら止んでいる。静かな町が戻っていた。

「藤倉さんだっけ」と琳子が言う。涼太郎は無視してツンとそっぽを向いた。

「行信に服を借りたら帰る。墓地になんかいたくない」

 琳子が構わず「なんでそんな恰好でうろついてたの?」と聞くと、少し考えてから、涼太郎は「でんでんだよ」と口を開いた。

「文献を読んでないのか? アレは女を襲う妖怪だ」

 琳子が太陽に目線をやる。太陽は「知らなかった」と首を傾げた。

「でんでんのことは行信から?」

「そうだ。アイツ、裏切りやがって」

 悔しそうに頭をかく。涼太郎の髪は汗でうっすら湿っていた。

「人を貶めようとしていた方が悪いんじゃん。因果応報だよ」

「それのどこが悪い? 僕が君たちに親切にしてやる義理なんかないだろう」

「お兄ちゃんに助けてもらったくせに」

 どうにも涼太郎と琳子は相性が悪いらしい。太陽がしびれを切らして「涼太郎」と名前を呼ぶと、涼太郎は面食らった。行信の呼び方がうつっていて、思わず呼び捨てていたことに気付きながらも太陽は続けた。

「でんでんが女を襲うってどういうことなんだ?」

 何なんだ、と涼太郎が一度口を結ぶ。河童の子どもや鶴瓶火が伺うように涼太郎を見つめていた。

 ささやかな罪悪感を煽られている気がして、いくらか迷ってから、涼太郎は答えてやった。

「参考にした文献のひとつにそう書いてあったんだ。崩し字だから読める人間は多くないんだろうな」

「崩し字?」

「国会図書館のアーカイブにある。神奈川宿風俗図画集だ。そこにでんでんの記録があった。あれは太鼓の音と共に、新月の夜に現れる。そして女を襲う」

 浦島寺の怪死事件とまったく同じ。

 やっぱりそうなんじゃないか、と半ば確信を得ながら太陽は続けた。

「他には? 溺死だとか、そういう情報は?」

「死亡鑑定がない時代のことだ。陸上で人が死んだら変死扱いだろうな」

 太鼓の音が止んで、どこからかパトカーの音が聞こえ始めた。墓地の風はざわざわと湿っぽい。

「襲われたとき、海の香りがした。確かに溺れそうな雰囲気だったよ」と身震いしながら涼太郎は続けた。

「僕が知ってるのはこのくらいだ。満足か?」

「やっぱりそうなんだ」と太陽が考え込む。

 太鼓の音、新月、女を襲う海の怪異。そんなものが現れて、これからどれだけの犠牲者が出るのだろう。

 怪異の存在を警察に届ければ琳子の疑いは晴れるかもしれない。しかし、でんでんは一か月後の新月にまた現れる。

 警察はこの怪異を認めて即座に対応してくれるだろうか?

 怪異対策課に警察からの情報提供があってから、事前調査、宗教人の手配や日程調整、実地での対応までどれだけ急いでも二か月はかかる。太陽は間近で見ていて、対応までの手間数の多さを身に染みて理解していた。

太陽や行信と連絡を取っていたことが割れれば涼太郎は組織内の信用を失う。証言が信用されやすいとは思えなかった。

 現状、第三者からすれば、この場は容疑者しかいないのだ。

 涼太郎が襲われていた時の光景が太陽の頭をよぎった。相手が彼でも助けてやらないといけないと思うほど、恐ろしかったのだ。

 太鼓の音が響いて、うずくまる涼太郎をゆっくりと水が囲んでいた。周りには藻屑や魚の死骸がぞろぞろと這っていて、それを巨大な泥が見下ろしていたのだ。

 恨みを固めたような黒い何か。それが太鼓の音を鳴らして、びちゃり、びちゃり、と涼太郎に手を伸ばす。

 太陽はくそ、と毒づいた。そして「証拠を作るしかない」と呟く。

「涼太郎、協力してくれ。次の新月にもう一度でんでんを観測する」

 涼太郎と琳子が同時に驚愕の声を上げた。

「お兄ちゃん、何言ってるの? 確認できたからいいじゃん。この人に証言させたらいいでしょ!」

「アレが犯人だって突きつけないと疑いは晴れない。警察をおびき寄せるでも何でもいい。このまま情報を持ちこんでもすぐに対応してくれるわけじゃない。事前調査が必要ないくらいまで調べないと」

「斎藤にも証言させたらいいじゃん。私のアリバイは証明されるよ」

「それだと容疑が薄くなるだけだ。警察が納得するまでにもっと被害が出るかもしれない」

「本気か?」と涼太郎が眉をひそめる。太陽は「本気だ」と言い返した。

「涼太郎に証言させても、俺たちとつながっていたのがバレたら信用されないだろ」

「それはそうだが」と涼太郎は苦々しそうな顔をした。

「やだ! 私この人嫌いだもん! 行信だって別にどうなってもいい! 私たちは悪くないってだけ証明して終わらせようよ!」

 琳子の声を遮るようにパトカーがいくつも通り過ぎていく。彼女はハッと辺りを見回した。涼太郎の顔にまた恐怖が灯る。

「これが続くんだぞ」と太陽は静かに言った。

 何も言わなくても全員が察していた。太陽が涼太郎を助けて、あの場にでんでんだけが残されたのだ。

 太鼓の音が止んで、パトカーが走り出す。考えられることはひとつ。

 今、犠牲になった誰かがいる。

「きっと事故か何かだよ……太陽くん、これがでんでんの仕業だって言うのか?」

「そうとしか思えない。この時間に出歩く女性だっているだろ」

 一拍置いて「誰かがまた襲われたんだよ」と声に出す。急に実感がわいて、足元がぞわりと粟立った。

 琳子が口を抑えた。手が震えて、瞳に涙が浮かぶ。

 月に一度、深夜に響く太鼓の音。

 これが続く限り必ず犠牲者が出る。

 おおい、と声がした。振り向くと墓地の入り口から行信が顔をのぞかせて、両手に大量の菓子やらジュースやらを抱えている。

「話はまとまったか?」と言いながら、それぞれに飲み物を配る。涼太郎には缶ビールだ。

「お前は飲むだろう? それでどうなった? おもしろい話なら私も一枚噛みたいところだ」

「お兄ちゃんがでんでんを捕まえるって」

 琳子がため息交じりに答える。行信は一瞬間を開けて「そりゃいい」と上機嫌になった。

「うちにも江戸だか明治だかの記録がある。いくつか読ませてやってもいい。参考になるかはわからんがな」

「本気か?」と鼻で笑う涼太郎に、行信は「本気だ」と答えた。

「その方がずっとおもしろい」

 行信はどかりと暮石に腰を下ろして、プルタブを起こした。

「私も暴れている怪異の鎮魂に参加したことがあるけどな。行政手続きの時間がかかること。結局多少の被害は出ていたよ」

「税金で動かすからな。決裁が大量にあるんだ。文書主義だよ」と太陽が苦々しい顔でプルタブを開けた。

「そう、それよ。怪異の存在を認めると手続きが発生する。すると迅速な動きができるようになるまで年数がかかる。災害対応は人命の上に作られるものだ」

 涼太郎が観念するように缶ビールを開けた。

「だから止めるって言うのか」

「被害を出さないようにするんだ。警察と行政で迅速に動けるように証拠も集める」

「それだと僕の目的が達成されない」

「好きにしろ。お前さんがその恰好でうろついていたと通報されてもいいならな」

「悪徳坊主め」と涼太郎が毒づく。

 行信は満足そうに缶を掲げた。太陽もそれにならって、覚悟を決める。

「次に動くのは一月後か。それまでに親交を深めようじゃないか」

 乾杯と軽く宣言して行信は缶をあおった。どうにでもなれという顔で涼太郎もビールを口に含む。

「おじさんってワケわかんない」と吐き捨てる琳子に苦笑いながら、太陽もまた、缶を傾けた。

 ずっと難しい顔をしている涼太郎のそばに、球体に手足が生えたみたいな怪異が近付く。以前涼太郎にあしらわれた五体面だ。

 少し迷うような素振りをしてから、球体の顔を滑稽に歪ませる。それを何度も繰り返して涼太郎に見せつけていた。

 彼が思わず苦笑いをすると、五体面はパッと顔を明るくさせた。

 墓地の怪異たちが陽気に騒ぎ始めた。凄惨な事件は自分たちには関係ないと主張するみたいに、たのしげな足音がぺたぺたと走り出す。

 それは人間の都合など考えない自然そのもので、本質はでんでんと同じだ。

 そのことに太陽は少し悲しくなって、缶ジュースをひといきに煽った。

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