第一章 事件⑧

 自宅に帰ると、琳子はまたすぐに部屋へと閉じこもった。

 太陽が食べたいものはあるかと聞いても答えてくれず、どうやらもう数日何も口にしていないようだ。ラップをかけておいた食事に手がつけられた様子はない。

 それでも、何もしないということは太陽にも苦痛だった。今日は何にしようかと考えながら風呂場脇の洗濯機に服を放り込んでいく。

 吊り戸の奥から苛性ソーダが太陽をのぞいていた。四年前、ウイルスで外出自粛を求められた時に琳子が購入したものだ。家で出来る趣味が欲しい、石鹸づくりはどうだろうという提案だった。

 結局そのまま琳子は臥せってしまったので、苛性ソーダを使ったのは太陽だけだった。素敵な香りの接見を作りたいからと一緒に買わされたエッセンシャルオイルは未開封のままである。

 怪異の琳子は、帰宅する以前の記憶数日分を持っていなかった。だから、病気になる以前にねだった苛性ソーダのことも覚えていない。これは太陽だけの記憶と化していた。

 開封済みの苛性ソーダのボトル、その取っ手には皮脂がにじんでいる。紛れもなく太陽のそれだ。

 太陽は苛性ソーダを一瞥して、洗濯洗剤を取り出すと、乱暴に戸を閉めた。

四年前のすべてが太陽にとって苦々しい記憶だった。琳子が死んで、琳子が帰ってきた。

そこにあるのは今でも夢に見るほど苦々しい決断だった。


 タクシーの中。涼太郎がメモを持つ手は震えていた。

 先ほどの琳子の目線を思い出してどうにも落ち着かないのだ。

「あんな怪異がいるなんて。まるで人間みたいだ」と吐き捨てる低声は、太陽に向けるものとはまるで違う。

 見た目はどこにでもいる女子高生そのもの。ただ浮いていたり、ふらふらうろついている怪異たちとは訳が違う。

 意志を持たなかったり、決まった形を持たないものたちとはまるで違う、こちらと全く同じ形をした怪異の琳子。

 人間たちと同じように思考し、生活する。そのすべてが涼太郎の背筋を寒くさせた。

 あれが怪異だというのなら、人間とはいったい何だ?

 そんな疑問が頭を掠めて、涼太郎は頭を振った。

 鈴木琳子という怪異。登記には〝影法師〟と記録されている。どうやら鈴木家のある地域には影法師の怪談がいくつかあるらしい。

 事情聴取の記録では、太陽は『ウイルスに感染して妹が怪異だと気付いた。人間の真似をするし、普通に生活するし、地元には影法師の怪談があるからそう申請した』と語っている。琳子は本当に何も知らないようだったとあった。

 エアコンのせいか少々肌寒く感じて、涼太郎は「失礼」と言ってタクシーの窓を開けた。

 蒸された熱風が入り込んで涼太郎の頬を温めていく。通り過ぎる景色にはたくさんの人々と怪異がいた。

 鼻をつく、湿った草木の香り。熱に蒸された緑が息苦しいほどだ。

 涼太郎の眼前には数年前までは信じられなかった光景が広がっている。

 木に縄でくくられたままぶら下がる女性、足と尻尾だけの犬のような何か、ソファ程のサイズもある両生類らしきもの。

 それらに顔をしかめていると、タクシーの運転手が「お兄さん、見える方なんですか」と無邪気に話しかけた。

「そうですね。後天性ですけど」

「ウイルス組かあ! いやあね、なんとなく羨ましくて。私もかかったんですけど後遺症はなくてね」

「羨ましいですか」と、乾いた笑いが漏れる。

「だって世界が広がるでしょう。見え方が変わるって素晴らしいですよ」

 本当にそう思っているのだろう、やや弾んだ声の運転手に愛想笑いをして、涼太郎は窓を閉めた。

 目を閉じて太陽との会話を反芻する。

 彼はどうやら犯人が別にいると考えている。それはそれで結構だが、涼太郎には気にかかることがあった。

「鈴木琳子、もう少し調べなければ」

 そうぽつりとこぼして、窓枠に身体を預ける。温められたガラスがじわりと涼太郎の頬を焼いた。

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