第一章 事件②
いくつかのクラクションが太陽のそばを通り過ぎたとき、その手首が掴まれた。
そのまま後ろに引かれて警察署側の歩道へ誘導される。ハッと手を振り払ってみると、太陽の後ろには上品なベストスーツを着込んだ、三十代半ばの男性がいる。
「急にごめんね。でもあのままだと危ないので」と微苦笑する顔は、好青年といった雰囲気だ。
藍色のスラックスは恐らくどこかでオーダーしたもので、長身に良く似合っている。
汗がにじむデニムジーンズを隠すように一歩引いて、太陽は「ありがとうございます」と簡素な礼を述べた。
「いいえ。あの、僕は藤倉といいます。失礼ですが浦島寺の件で呼ばれた鈴木さんであってますか?」
浦島寺、という言葉にぴくりと反応した太陽は静かに腕を組んだ。その警戒に困ってみせた、藤倉と名乗った男は、ううんと唸った。
「驚かせましたよね、ごめんなさい。ああ、暑いのでこちらにどうぞ」
そう言って自動販売機の前に移動し、適当に缶コーヒーを二本買う。缶コーヒーと一緒に差し出された名刺には『神奈川県警察』とあった。
「改めまして。神奈川県警察、警務課長の藤倉涼太郎と申します。はじめまして」
「はあ、随分お若いんですね」
咄嗟に出た言葉の棘に気付いて「すみません」と太陽が続けると、涼太郎は慣れているというように「よく言われます」と返した。
どうぞと促されて缶コーヒーに口をつける。涼太郎も「出向組でしてね」とプルタブを開けた。
「普段は県警の方に。ええっと、鈴木さんとお呼びしても?」
太陽が「構いません」と答えると涼太郎はうれしそうに笑う。
「ありがとうございます。記録を拝見しまして、鈴木さんも神奈川県庁勤務ですよね。公務員同士でうれしいです」
「ああ、公務員って、世間ではけっこう少数派ですからね」
「仲間内で固まるのは良くないなと思いますが、嫌われ者ですし。特にこの仕事はね」
「……あの」と太陽はじっとりした視線を投げる。いったい何の目的だ、と大声で言いたい気持ちが視線に出ていた。
ただでさえ妹が犯罪者扱いされて、その妹には責められているのだ。知らぬ人間に良い顔をする余裕は、今の太陽にはなかった。
涼太郎は「そうでした! 鈴木さんに用事があったんだ」とあっけらかんとした。なんだか気の抜ける人だなと思っていると、涼太郎は太陽の耳のそばに口を寄せた。
「浦島寺の件で呼ばれたのは、あなた方だけじゃないんです」
「どういうことですか?」といぶかしむ。
「他にも容疑者がいるって意味です。僕はね、そこが本丸じゃないかと」
たっぷり時間を置いてから「なるほど」と答える。涼太郎はプルタブを指でなぞりながら「勘ですけどね」とこぼした。
「そういう情報って言っていいんですか?」
「ダメでしょうね。バレたら懲戒処分です。ただ」と一瞬言葉を飲んでから、涼太郎はまっすぐ太陽を見た。
「―ただ、ふたりがケンカしているのが見えたから」
「それだけで?」
「はい、おかしいですよね……あの、僕も弟がいるんです。都内で医師をしていて。最近はお互いに忙しくて会えていないんですけど、なんだか、気付いたらあなたを追っかけていました」
「事件の情報はもう県警にまで上がっているんですね」
「というより、とっくに対策本部が設置されてますよ。時間はかかるでしょうが、そのうち本腰を入れるでしょう。なんせ国内初の〝怪異〟による殺人事件ですから」
「そうなると、琳子は……」
「外には出られなくなると思います。疑わしいのが人間なら、ある程度の自由も法で保証される。でも怪異である以上は厳しい。恐らく何らかの方法で隔離されるでしょう。まだ世間に事件が公表されていないのが幸いです」
「時間の問題、って言いたいんですか?」
「そうなります」と涼太郎は視線を落とす。
隔離、と呟いて太陽はその場にしゃがみ込んだ。木陰から先が出ているスニーカーが焼けて熱い。じりじりと熱をため込むそれは、琳子が選んだものだった。わざわざ原宿まで試着にいかされて、そしてついでにと―おそらくそちらが本懐なのだけど―琳子の分まで買わされたもの。
じわじわと汗が噴き出していく。殺人事件、事情聴取、容疑者、怪異による被害。一日で詰め込まれた情報を反芻して、飲み込めない熱気が吐き気を誘う。
派手な音をさせて車がいくつも通り過ぎる。こうしている間にも捜査は進んでいるのだ。それも、琳子から自由を奪う捜査が。
涼太郎も隣に小さくなって、黙り込んだ太陽の肩にそっと手を置いて。
「僕は警察内でそれなりに地位がある人間です。捜査の情報も手に入りやすい」
太陽は鼻水をすすりながら涼太郎に目をやった。涼太郎は心配そうに眉を下げている。
近くを車ばかりが通り過ぎていく。相変わらず蝉すら鳴いていなかった。
「あなたに協力します」
じわりと鼓膜を揺らす提案。
涼太郎の言葉は、道路沿いなのにしっかりと淀みなく耳に届いた。太陽が「どういうことですか」と聞き返すと、涼太郎はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「僕は、疑わしきは罰しない司法に誇りを持っているんです。でもこのままだと、ただそばを通りがかっただけの琳子さんが犯人にされるかもしれない」
そんなことは正義にもとる、と涼太郎は立ち上がった。手を差し伸べて太陽を立たせる。涼太郎は太陽の手を握ったまま「真犯人を見つけたいんです。協力させてください」と続けた。
疲労で重たい頭に、清涼な提案が流れ込む。
「こんなこと警察にさせたくない。出向の身で過ぎたことを言っているかもしれないけれど、僕は自分の組織に誇りを持ちたいんです」
「協力、してくれるならうれしいですけど……でも、それだとあなたの立場が悪くなるんじゃないですか? 何よりあなたにメリットがない」
涼太郎はただ微笑みながらハンカチを取り出した。
太陽の額に「どうぞ」と差し出して、それでようやく自分が尋常でない汗をかいていることに気付く。太陽は一瞬考えて、結局ありがたくハンカチを拝借した。
「その……びっくりしました。誰も味方はいないと思っていたから」
「怪異という存在そのものが、まだまだ立場が明確ではないですからね。頼るツテすら思いつかないものかと」
「そうなんです。それでも琳子は守らなきゃ。あの子は……」
妹なんです、と言いかけた口を閉じる。言葉がぎちりと喉に詰まった。
「さっきの名刺に僕の携帯番号を書いておきました。何か困ったらいつでも連絡してください。僕も進展があったら電話します。調書にあなたのスマートフォンって記録してあるかな」
「はい、連絡先は伝えたので。色々ありがとうございます」
ただ、この男を信用してもいいのだろうか。
太陽は、疑問がつかえた喉に缶コーヒーを流し込んだ。少しぬるくなってはいたが、乾いた喉には立派な清涼剤である。
「ごちそうさまでした。ハンカチも洗ってお返しします」
「どういたしまして。それじゃあ、またね」
何度も礼を言って、琳子のあとを追うように横断歩道を駆ける。とにかく警察署の前から逃げたい一心だった。
突然呼び出され、妹が怪異だと白日にさらされて、さらにその妹は人殺しかという目線を向けられて、妙な警察関係者まで現れた。
これ以上いるのは、太陽にとって心苦しいことだったのだ。段々と走る速度は増していく。それほどに怖かった。
涼太郎は太陽の背中が見えなくなるまで手を振り続けた。そうしてひとりになった頃、プルタブを開けただけの缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。
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