妖怪の国

海野秀平

プロローグ

 こっくりさんが世界を変えるなんて、誰が想像しただろうか。

 各地に住まう人ならざるもの―えてして人の数なんかよりずっと多いのだが―これは一部の人の目にしか映らず、けれど確実にそこにいたのだ。

 人間が見ようとしなかったものたちは、すぐ隣にいた。

 それを人々が実感したきっかけは、とあるウイルスの蔓延である。

 

 この日、中学三年生の斎藤真美は友人二人の手を引いて屈託なく笑った。彼女たちは通っている公立中学校の夜を、しとしと降りしきる夜の雨から隠れるように、木造りの廊下を並んで歩いていた。

時刻は深夜一時半。わざわざ一度脱いだ制服を着こんだのは、それが暗い色をしているからである。紺色のプリーツスカートが夜を煽るように揺れていた。

「ねえやっぱりこっくりさんなんてやめようよお、真美ちゃん」と不安そうな声で言いながら、吉沢さやかは篠田葵の制服を掴んだ。同意を求める行為も虚しく、葵はううんと困った様子で笑うだけである。

 真美はあっけらかんと「大丈夫大丈夫、私、前は一人でやったって言ったじゃん」と答えた。

「一人でなんてよくできるよね。私絶対ヤダ」

「葵ちゃんもさやかちゃんも怖がりすぎだよ。度胸試しみたいなもんだって」

「でも、本当に動いたりするんでしょお」

 旧校舎は音が響く。三人の会話と足音、そのひとつひとつが古い校舎に増幅されているようだった。

 普段は立ち入り禁止の旧校舎はようやっと解体が決まったもので、三年前までは使用されていたというのだから驚きだ。トイレは和式、蛇口は赤く錆びて、足元の木板がいちいちうるさい。ぽつんと水滴が落ちる音をきいて、さやかが細い肩を跳ねさせた。

 先頭の真美がスマートフォンのライトを音の方向へと向ける。赤く染まった水が飲み場に染みを広げて、つんとした鉄の匂いを漂わせていた。

「もうやだよお! 怖いってば!」

「さやかちゃん、あれは水道管の錆だよ。そんなに怖がらなくても」と葵がくすくすと笑う。

 真美はさっさとライトを廊下の奥へと向けて、一番奥の教室を目指した。

「真美ちゃん、前もこんなところまで来たの?」

「だって奥の方が見つからないじゃない。今年受験だし、さすがに補導くらいたくないもん」

 ここだよ、と真美が半開きの扉を真美がくぐる。さやかと葵があとに続いて中に入ると、そこは殺風景な教室である。

 ほとんどの机と椅子は端に寄せられている。真ん中にぽつんと置かれたものは、前回真美が使ったものらしい。彼女はさっさと椅子を追加で二脚取って、机の周りに並べた。

 窓はどっぷりと深い夜に覆われている。向こうには体育館とグラウンドを潰して建てられた新校舎。

 普段いる場所が窓の向こうにある。自分が今立つ場所が実感するように埃が肌を這って、さやかはぶるりと身を震わせた。後ろを振り向くと、真美はさっさと椅子に腰かけている。

「さっ、始めちゃおう!」

 そう言って真美がお手製の五十音表を机に広げた。はい、いいえ、数字、そして赤く書かれた鳥居。十円玉がそっと鳥居に置かれる。

「こっくりさんが来たら絶対に途中で手を離しちゃだめだからね。呪われちゃうからね」

 からかうように真美が笑う。

 さやかも合わせて笑ったが、なぜだか視線を感じた。悪いことをしようとしている瞬間独特の、誰かにこの行為をじっと観察されているような空気が辺りに満ちている。

 居心地悪そうにスカートを直しながら、葵が「早く」と促しながら椅子に座る。さやかがようやく席につくと、腰かけるだけで埃が舞った。スマートフォンのライトにちらちらと反射する。布がこすれる音がやけにうるさく聞こえた。

「何聞きたいんだっけ……」とさやかが尋ねる。さっさと済ませたいという気持ちで早口になる。葵は少しそわそわとしているが、真美は興奮して声を上ずらせていた。長くなりそうだとさやかがついたため息を無視して、真美はええと、と頬を掻いた。

「どうしよ。期末テストの範囲にする?」

「ええーっ。せっかくこないだ令和になったのに?」

「葵ちゃんは何が聞きたいの?」

「次の天皇とか?」

「気が早いって」

「じゃあ日本が終わる日はいつですかとか?」

 楽しそうに笑うふたりの会話に心地悪く座り直しながら、さやかは「数学の豆テストの日を聞こう!」と彼女にしてはハッキリと主張をした。

「いやそれ、先生が言ってたじゃん。来週でしょ?」

「簡単なもので試してみようよ。間違ってたらそこでやめればいいし、当たってたら続けるし」

「でもそれだと誰かがわざと動かすこともできちゃうよ」

「そ、それじゃあ……私のお兄ちゃんの彼女の名前とか」

「正解わかんないじゃん、それ」

 まあいっか、と真美が丸い人差し指を十円玉に乗せた。ふたりも合わせて指を差し出す。教室の空気はいっそう静まり返った、ように見えた。

 真美の涼やかな声が響く。

『こっくりさんこっくりさん。おいでください。こっくりさんこっくりさん。おいでください……』

 とりあえず任せようとさやかは黙って五十音を眺めていた。

『こっくりさんこっくりさん、おいでください……」

 真美の呪文が繰り返されるたび木々が揺れるようだった。葉っぱは身をこすり合わせるし、旧校舎の屋根が鳴る。ただの家鳴りだと思っても、さやかにとって、この雰囲気ではどうにも恐怖感が勝っていた。

 ふと葵を見ると、彼女はきょろきょろと辺りを見回していた。額には小さな動揺が浮かんで、雫がつるりとこめかみを撫でている。

「葵?」とさやかが尋ねても、聞こえていないのか彼女の目には焦燥が浮かんでいる。段々と目を開きながら、何度何度も、鳥みたいに首を動かして周りを見る。

 まるで何かを探しているような動きだった。

真美の呪文が十回以上にもなろうという頃、押し黙っていた葵が「なんなのよ!」と声を張り上げた。

 葵は顔を真っ赤にして、真美はというと―口を一文字に結んで、顔中に冷や汗をかいていた。

「どうしたの? 何かあったの?」

 さやかがそう尋ねる間もこっくりさんを呼ぶ呪文は響いている。

教室はとてもにぎやかだ。

外では木がしなる。葉が窓を叩く。誰かが通るみたいに天井や壁が鳴る。真美の呪文が淡々と続けられている。

「ねえふたりとも……」ともう一度聞いたところで、さやかもまた顔を白くした。

 真美の口は一文字に結ばれたままなのだ。

『こっくりさんこっくりさん、おいでください。こっくりさんこっくりさんおいでください……』

「真美ちゃん、これ……」

「し、知らない。あたし何も知らない」

 ぶるぶると唇を震わせながら真美は首を振った。葵は「何なの? なんであんたの声が勝手に聞こえるの!」と半狂乱だ。

 さやかは咄嗟に指を引こうとする。しかし肌はぴたりと吸い付くままだ。

『こっくりさんこっくりさん、私のお兄ちゃんの彼女の名前は何ですか?』

 教室に響くさやかの声。ハッと辺りを見回しても、彼女たちの他には暗闇が寄り添うばかりだ。

「あんたがやってんの!? こんなところでふざけないでよ!」と葵が涙目で叫んだ。

「わかった。ふたりしてあたしをハメる気なんだ。スピーカーか何か置いてるんでしょ! 本当にやだ、最悪! こんないたずらありえないでしょ!」

「違う、私何も知らない!」

 言いあう声を笑うみたいに三人の指を乗せた十円玉が動きだす。するするとなめらかで、しっかりした足取り。

 〝あ〟〝ゆ〟〝み〟……

 どこからか、ケタケタと老人のような笑い声がした。

 天井、壁、床、教室を構成するひとつひとつが鳴っていた。電灯がからかうように明滅する。何か重いものを引きずるような音が彼女たちがいる教室へと近づいている。

 真美と葵が恐る恐るさやかを見る。ふたりに答え合わせを促されて、さやかは唇を震わせた。

「ああ、あってる。どうして……」

 奥歯を鳴らしながら葵が真美の胸を掴んだ。十円玉に乗せた指は張り付いたままだ。

「悪ふざけやめてよ!」

「違う! あたしは本当に何もしてないの!」

「あんたがやろうって言ったんじゃん!」

「やめてよ! ケンカしないでっ……」

『こっくりさんこっくりさん、日本が終わる日はいつですか?』

 葵の声が降り注ぐ。

 もう誰も、一言すら発せなかった。

 視線を手元に落とすと、十円玉は待っていましたと言わんばかりに動き出す。

 〝き〟〝ょ〟〝う〟……

 奥歯が割れるほどに噛みしめてから、葵が「もうやだあっ!」と手を引いた。すると意外なことに、先ほどまでぴたりと吸い付いていた指が解けるように十円玉から離れた。

「あっ……なに。何だったの。あんたたちのいたずら? やんなっちゃう、本当最悪」

 葵が引きつった顔で立ち上がる。大きな音を立てて椅子が倒れた。

 次に手を離したのは真美だった。安心したような顔で、胸の前で手を組む。

 ふたりにならおうとしたさやかは、ふと、その場で身を固まらせた。

「ねえ、真美ちゃん葵ちゃん。こっくりさんって、帰ってもらう前に十円玉から手を離したら」

 さっと、真美と葵の顔から血の気が引いた。

 何かが校舎を這う音がする。ずる、ずる、と生乾きの厚い布が引きずられるような、湿っていやらしい音。

 教室はずっとうるさい。

 からかうような笑い声が段々と大きくなっている。危険を知らせるように窓の外では木が暴れている。

 さやかは硬直して、十円玉に指を乗せたままだった。葵はとうとう涙を流しながら教室を見回している。笑い声の主を探すみたいに。

 バン、と廊下を叩きつける音。

 真美は弾かれたようにして、教室を飛び出した。

「もうやだあ!」と革靴が駆ける音は長くは続かなかった。

 その代わりに、すぐ近くでぐしゃりと何かが潰れる音がした。何度も何度も。肉の塊を踏み続ければこんな音がするのだろうか。

 その何かがずるりずるりと身体を這った。扉の向こうから中を伺うように、何かが頭をもたげる。

 葵がその場に座り込む。異常な状況は彼女の体から力を奪っていた。

「こ、こっくりさん、こっくりさん、お帰りください……」

 震えながらさやかは祈りをささげた。

 何かが教室に入ってくる気配がする。さやかは十円玉を見つめて「こっくりさん、こっくりさん」と繰り返す。

 さやかの視界の端で、葵が「ああ」と小さな声を上げた。

 通っていないはずの電気が暗い教室で瞬く。

ケタケタと笑う声がある。人智の及ばない何かがうごめいている。

それらは、いたずらな少女たちが世界を変えてしまうことを、腹の底からおもしろがっていたのかもしれない。


 翌日のニュースは大賑わいだった。

 公立中学校の女子生徒、一人が死亡。一人が行方不明。そして一人が心神喪失。

 廃校舎の教室で変死していた篠田葵と、そのそばにぼんやり座り込む吉沢さやかが発見されたのは明け方だった。

普段は閉めている廃校舎の入り口が開いており、不審に思い確認をした用務員が第一発見者となった。

 吉沢さやかの証言によると、斎藤真美の提案で、こっくりさんをするために校舎に忍び込んだのが午前一時。儀式を始めると、世にも恐ろしい現象に見舞われたという。

 廃校舎の廊下には大量の血痕が残されていた。鑑識はこれを斎藤真美のものと判断。死んでいてもおかしくない量だったが、斎藤真美は事件以来消息不明だ。

 篠田葵は全身に複雑な力を加えられていた。直接的な死因は脊椎圧迫骨折と多量出血によるショック死。死亡推定時刻は午前一時から二時の間だという。ただしその顔は、目を恐怖に大きく見開き、叫ぶために大口を開けていた。

 遺族には耐えがたい表情だった。

 吉沢さやかはまともに受け答えができる状態ではなく、彼女の証言には信ぴょう性がないとされていた。

 さやかは事件以降、ぼんやりと空を見つめたり、何もない場所を異常に怖がるような仕草を見せた。

 そして、警察関係者や担当医師の、頭のずっと向こうを見つめるような視線で、同じたわごとを繰り返すのだった。

「こっくりさんをしたら、たくさん来たの。もう終わるよ。今までの日本は全部終わる。変わっちゃった。変えちゃった。すぐにわかるよ」

 どういうこと?篠田さんには何があったの?斎藤さんはどこに行ったの?

 どれだけ質問を重ねても、彼女は同じ言葉を繰り返すばかり。

 それから、彼女を担当していた関係者が代わる代わる風邪を引き始める。事件から一週間ほど経つ頃には全員が咳をさせていた。

 彼らの風邪を見たさやかは、事件後初めてほころぶように笑った。

「ほら来た」

 子供らしい純真な笑顔に、誰もが一瞬だけ彼女の回復を夢見た。しかしそれは二度と見せることのない表情で、しばらくのち、彼女は密室の病室内で変死体となって見つかる。

 それは葵と同じ、恐怖に握りつぶされたような死に様だった。

 事件関係者の相次ぐ変死―マスコミもさすがに怯えて報道から手を引き始める頃には、病院全体にうっすらとした風邪の流行が見て取れた。

 本当の混乱はここから始まるのだと、この時はまだ誰も予想していなかった。


 吉沢さやかの事情聴取や精神鑑定を行った者たちに風邪が流行ってから数日後。回復した彼らは皆一様に、何かに怯えてみせた。

 彼らは〝何もない〟空間を指さして、顔を青くしながら似たようなことを言うのだ。

 妙なのがいる!こっちを見てるんだ!

 幽霊だ!……妖怪がいるんだ!

 見えないのか!? ダメだ、近づくな!

 俺は狂ってない、確かめてくれ!

 いったい彼らどうしたんだろう、と周囲が疑問を持つのもつかの間。時季外れの風邪が広がると同時に、恐怖のたわごともその翼を羽ばたかせる。

 流行り風邪にかかった誰もが、その後『幽霊がいる』『妖怪がいる』と語って怯えるようになった。戦おうとして刃物を振り回す者、引きこもる者が目立つまでそう時間はかからなかった。

 薄膜が張りめぐるような恐怖が、じわじわと国民の恐怖を煽っていく。

「例の中学生変死事件からですよね、この風邪が流行ったの。俺はこれ非常に良くない兆しを感じるんですよお」

 そう初めてテレビショーで語ったのは自称霊能タレントのひとりだった。

「なんかよくないって?

「いやだからねえ。脳に影響する風邪かどうか~って言われてて、ほら、緊急事態宣言とかなんとか出るかもってなってて。俺ね、これはもう呪いなんじゃないかと」

 ええ~! とわざとらしい悲鳴が響く。

 そこで軽く咳き込んだものがいたから、場は余計に騒然とした。

「つまり、風邪で感染する呪いってことですか?」

「そうそう。かくゆう俺もちょっと風邪気味なんだけど」

「やだあ! 収録休んでくださいよ」

「いや仕事させてえ! まあつまり、あの中学生怪死事件のこっくりさんでヤバイの呼び出しちゃって、日本に呪いを振り撒いてるのかなと思っちゃうんです。どうです? こっくりさんウイルス」

 あはは、とフェードアウトする声で次回のコーナーに送られたコメントは誰も気にかけなかった―風邪を引いた自称霊能コメンテーターが、その後、目に映るようになった様々な恐怖に怯え悩み、自殺するまでは。


 風邪の後遺症として見え始めたもの。

 感染者がいちように怯えたもの。

 それは正真正銘の怪異たちだった。


 古来より、日本には八百万信仰があった。自然に、物に、人間の感情に。常世のすべてに人智や物理では理解しえない何かが宿る。

 それを理解する者たちは少なからずいたが、そうでない者の方が圧倒的に多い。

風邪は吉沢さやかの世話をしていた者たちから同心円状に広がって、怪異が見える人間を増やしていった。

 そこに何かがいるんだ、本当なんだ!

 そう言いながら命を絶った人間はあまりにも多かった。

 そして、冗談めかして危険だと警告した霊能タレントの自殺を皮切りに、国民は本格的な集団パニックに襲われることとなる。

 感染力の強い〝風邪〟を抑えるためにマスクや手洗いが奨励され、政府はこれに強制力を持たせるために怪異の存在を認めざるを得ないまでに至る。

 風邪はどれだけ調べても風邪でしかなかった。しかし、何らかの力が働いていることは事実が雄弁に物語る。

 命名〝こっくりさんウイルス〟。

 緊急事態宣言、不要不急の外出制限。

 日本史上、最低最悪のパンデミック。国民にしか感染しないこの風邪は、次第に、生活に密接したものになっていくのだった。

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