トレッキングルート紹介
03-11:トレッキングルート紹介(1)
ここでは、第3話で和泉たちが歩いたトレッキングルートのモチーフとなった地、およびその周辺を紹介しています。ご興味ありましたらお読みください。
◇ ◇ ◇
【金比羅山】
長崎県長崎市西山周辺。JR長崎駅北東に位置し、標高300メートル台のピークをいくつか有する。ピーク一帯は金比羅公園として開発されてはいるが、遊具等のない遊歩道の体裁。地元では「こんぴらさん」と、敬称のイントネーションで呼ばれるほどの人気スポットであったが、車道の未開通、登山道の荒廃、雑草の繁茂といった条件から登山人口は減っており、同市の発表によると一日の訪問者は約60人と低迷。テコ入れの登山道拡張工事が長期に渡って行われている。付近は標高300メートル近くまで車道、人家、学校、ホテルが及んでいるため、実は森林に入った時点でピーク近くまで到達している。
【立山公園】
作中、和泉たちが最初に立ち寄ったところ。ソメイヨシノの名所であり、開花シーズンは出店が並ぶほどの盛況を見せる。遊具、グラウンドも使用頻度が高い。かつて鳥類に特化した動物園があったが、現在は解体され門柱と檻の基礎のみが残っている。作中でも触れているが、飲料水の自販機があるのは公園周囲の車道が最後である点に注意。以降、山中に水分の補給ポイントは一切ない。長崎歴史文化博物館前からこの一帯を見上げた風景は「坂の街」の極みであり、しばしば写真がSNSでバズる。
【金刀比羅神社】
作中で和泉たちが参拝していた神社。前述の「こんぴらさん」は、この神社を指すこともある。倫が述べたとおり海神を祀っており、休憩所には海上自衛隊や海上保安庁のゆかりの品が並ぶほか、軍艦の模型や航空母艦・赤城の甲板上の写真も飾られている。
【琴平神社】
三井物産株式会社所有の企業神社であり、前述の金刀比羅神社とは別物。海運業が盛んだった同社が、航海安全を祈願して明治時代中期に建立。踊っているようなポーズの獅子・狛犬像がユニークで、一際目を引く。作中では未訪問。
【長崎金星観測碑】
明治初期に行われた金星観測調査の記念碑と、当時の観測台の一部が置かれている。記念碑は四角錐状のオブジェで、しばしば「長崎のピラミッド」的な煽りで紹介される。作中では未訪問。部長の梢が、一度の訪問ですべてを詰め込んでは記憶に残らないからと、琴平神社と併せて再訪時の楽しみに取っておいたのかもしれない。
【金比羅山照空陣地跡(ハタ揚げ広場)】
陣地名は筆者による仮称。緩い斜面の、雑草が生い茂る一帯。倫がマダニを警戒していたのはここ。「ハタ」は長崎製の
【地下弾薬庫・
ハタ揚げ広場から西側の薄暗い遊歩道へ入ると、斜面側に石造りの出入り口がある横穴が2カ所ある。戦中に弾薬を保管していた地下倉庫だとされる。落盤、動物や虫の巣窟化という重大なリスクがあるため、決して入ってはならない。無蓋(天井がない)タイプの弾薬庫跡もあるが、イノシシのヌタ場と化しており、左右からの樹木の崩落のリスクも高いため、ここも内部への立ち入りは厳禁。
【高射砲陣地司令部跡(推定)】
本部と思われる施設の跡。長方形状の土壁に囲まれており、敗戦後の解体時のものと思われるコンクリート片が散乱。これらコンクリート片は、付近の登山道わきにも無数に点在する。周辺の斜面には塹壕や土塁も複数あるが、危険なので遊歩道から見下ろせる範囲の見物に留めるべきであろう。
【金比羅山高射砲陣地跡(多目的広場)】
陣地名は筆者による仮称。同山のピークの一つであり、行政は多目的広場としている。しかし広さはあまりなく、車道も通じていないここで行えるイベントやレクリエーションは限られ、現在は高射砲陣地跡として訪問されることがもっぱらだと思われる。砲座は埋設されているようで、待避壕と思われるコンクリート製の構造物4基が、屋根付近だけを地表に見せている。周囲には兵舎等の痕跡が点在しており、展望所案内板掲載の空中写真から、当時の施設群を参照できる。
【原爆戦死者慰霊碑】
当地の高射砲陣地は原子爆弾の直撃を受け、多くの死傷者を出している。慰霊碑は縁者や有志によって建立されており、長崎市に数多くある原爆犠牲者の慰霊碑と異なり、「犠牲者」ではなく「戦死者」の銘を冠している。最期まで軍人として防衛任務に就いていた人たちへの礼節、畏敬であろう。
【金比羅山頂上(金刀比羅神社・奥社)】
標高約360メートル。長崎市を広範囲見渡せる眺望がある。だが道中は、休憩所や水分補給スポットがいっさいなく、終始薄暗く、遊び半分で登るには不向き。奥社の背後には三原台方面への登山道があるも、こちらは現在荒廃しており、登山上級者以外は引き返すのが正解。なお、前述の神社本殿の裏に「ここで参拝すれば奥社へ行ったことになるよ」というショートカット用の鳥居がある。
◇ ◇ ◇
【参考資料】
「大東亜戦史資料報告」
(アジア歴史資料センター)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C14110930700
11ページ地図内の、大きな長方形のマーキングが高射砲陣地、小さな長方形のマーキングが照空陣地と考えられる。9ページの地図は戦況が本土決戦時に及んだ際、各地の港から長崎市中心部へと向かう米軍の陸上部隊を迎撃する陣地。築城の進捗率が付記されているが、いずこも完成前に終戦を迎えている。
「USA-R172-42」
(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=205763&isDetail=true
昭和23年・米軍撮影の空中写真。写真中央右上付近に高射砲陣地跡、照空陣地跡が写っている。長崎県の空中写真は、国土地理院には戦後のものしかなく、戦中に米軍の偵察機が撮影した写真は米国の資料館を漁る必要がある。
「金比羅山高射砲陣地」
(長崎原爆資料館収蔵品検索)
https://city-nagasaki-a-bomb-museum-db.jp/collection/86278.html
戦中の撮影。写真右側の
「八八式七糎高射砲」
(長崎原爆資料館収蔵品検索)
https://city-nagasaki-a-bomb-museum-db.jp/collection/90688.html
戦後、米軍による武装の接収、処分時の撮影。高射砲は円状の窪地の中の砲座に据えられ、空襲に来た米軍機の迎撃に当たっていた。こうした陣地が公園化された際、砲座の位置に植樹されるケースがあるため、金比羅山の高射砲陣地跡にある樹木は高射砲があった位置を示しているのかもしれない。
「都市公園整備事業(金比羅公園)」
(長崎市)
https://www.city.nagasaki.lg.jp/sumai/630000/632000/p030136.html
「車道を造って日間の訪問者を100人増やす」という方針で登山道の工事が長年行われている。稲佐山、鍋冠山、風頭山、唐八景とともに観光地、行楽地の一角にする計画だったようだが、地権者との交渉などで数十年レベルの遅れが生じているらしい。ちなみに前述した山の公園はすべて高射砲・照空陣地跡に造られている。
◇ ◇ ◇
和泉たちトレッキング部は、蔵書やインターネットを駆使してこうした情報を集め、トレッキングコースの計画を立てています。
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