03 煮るか……


 カンタリカで何人かに写真を見せると、その人物の所在はすぐに分かった。

 写真に写っているのは、色の落ちた赤い袈裟に派手なズボンを合わせ、足元はスニーカー。指にはいくつか指輪をはめていて、長い白髪を束ねた細い体付きの老人だ。カメラに向かって両手でピースサインを作り、日に焼けた顔は変顔を決めている。


 市場でお茶をくれたおばちゃん曰く、確かに数ヶ月前から少女と一緒にいるところを見ているとの事だった。木の棒で突っついてきた子供たち曰く、彼は町から出て少し山を登ったところにある集落のはずれに住んでいるとの事だった。誰も彼もが、老人のことを笑いながら話していた。


 カンタリカの西にある小さな門から出てしばらく経った。町自体の標高が高いせいか、足場の悪い坂道を歩き続けた疲れのせいか、それともフォルタヴィルを発ってからろくすっぽ寝ていないせいなのか、その足取りは重い。


 道は石と砂利が入り交じり、足を踏み出すたびに小さな音が鳴る。薄いもやに覆われ、緑はほとんどなく、灰色の石が連なる殺風景な世界に風の音と高い鳥の声が響く。遠くの山頂にはわずかに雪が残っており、その白さが空の鈍い灰色に溶け込んでいた。


 さらに歩き続けると、カラフルな布が旗のように吊り下げられている平坦な地形に辿り着いた。石造りの小さな家々が点々と寄り添うように建てられている。ここがくだんの集落だろう。どの家も黒ずんだ壁と木製の扉を持ち、窓には布切れが風よけ代わりに垂れ下がっている。煙突からかすかに立ち上る煙だけが、この場所にまだ人が住んでいることを示していた。


 犬に吠えられながら聞き込みを続け、集落を越えてさらに進むと、霧の奥にぽつんと離れた一軒の家が見えてきた。作りは集落のものと大きく変わらないが、玄関の前に枝を広げる桃の木が印象的だ。窓辺には木製の器がふたつと鉄鍋が干されていて、煙突からはうっすらと煙が立ち昇っている。


 だが、サムにとってはそのどれもが意識の外だった。彼の視線は、ある一点に吸い寄せられて立ち尽くす。


「……ハンナ?」


 桃の木の下。焚き火から立ち上がる煙の向こう側に少女がいた。くたびれたキャミソールと土で汚れた白いショートパンツ。肌は透き通るように白く、そして後頭部でまとめた髪は桃色だった。


 いや、違う。肌も髪も。きっと疲れと、寝不足と、霧のせいだ。それにハンナは……。そう思いながらも、サムは目を離すことができなかった。


 煙に向かって繰り出される迷いの無い拳、手刀、掌底。その度に汗がはじけて輝く。片足をゆっくりと上げていくと、靴の裏を真っ直ぐに天に向けた姿勢でぴたりと止まって息を吐いた。それを振り下ろし、軽やかな横回転と共に飛び上がると、鋭く足を振り抜いて白煙を水平に切り裂いた。着地した足を軸にしてさらに回転蹴り。軽やかで力強く、どこか楽しげに。少女の蹴りは加速し続ける。さらに鋭い三発目を繰り出し、そしてスニーカーがすっぽ抜けた。


「やべっ!」


 それはサムの顔面めがけて飛んできた。呆けていたサムは避けきれずに靴底が直撃。潰れたネズミのような声を上げて仰向けに倒れた。


「おーい! わりぃなジジイ……ってジジイじゃねえ! おい! 誰だお前! 大丈夫か!」


 駆け寄ってきた少女は膝をついてサムの頭を起こし、その顔をべしべしと叩いた。一発ごとに顎を的確に捉えるせいで視界がガンガンと揺れ、意識が混濁していく。


「ハンナ……どうして……」

「いや誰だよそれ! おい! 死ぬなー!」

「会いたかった!」


 突然、サムが少女を抱きしめる。一瞬の間があって、少女は全身を硬直させ、わなわなと震えだし、ただでさえ大きな目が完全な円となった。


「ぎゃあーッ!」


 その絶叫がサムの意識を目覚めさせたのだろうか。彼はおもむろに少女の両肩に手を置いてその顔をよくよく眺め、そして眉をひそめた。


「……誰だ?」

「死ッねぇッ!」


 一瞬で片膝を立ててからの、予備動作さえ見えないボディブロー。鳩尾へのインパルスが全身に轟き、ふわりと浮かび上がったサムの体は枯葉のように力なく崩れ落ちた。


 少女は拳を引いて立ち上がり、残心。大きく息を吸い込み、フッと吐き出す。抜けるように風が吹き、サムの薄手のコートを遊ばせる。その様子を見て少女は冷や汗を一筋流し、血の気が引く。


「し……死んだ!?」


 少女は忍び足でサムに近づき、足先で脇腹を何度かつついてみる。反応が無い。大きな目が泳ぎに泳ぐ。


「まずいまずいまずい……! 流石にこれは……!」


 と、その時だ。窓際で干しっぱなしだった鉄鍋が彼女の目にとまった。表情が消え、冷たい視線がサムに向く。


「煮るか……」

「もう昼飯の算段かえ?」

「わーっ!」


 背後からしゃがれた声がして少女が猛然と振り返る。色の落ちた赤い袈裟に派手なズボンを合わせ、薪を担いだ白髪の老人が白いひげを撫でながらニヤニヤと笑みを浮かべている。


「なんだジジイかよ……」

「なんじゃそいつは。ああ、そうかそうか。ようやく男を連れ込むようになったか」

「ばっ! ちっげーよ! いや、違うけどヤバいんだって! アタシそいつをこ……殺しちゃった!」

「殺したぁ? なーにしでかしとんじゃいピンキー」

「ピンキーはやめろって!」

「へいへい」


 わたわたと大きく体を動かすピンキーをよそに、老人は至って冷静にサムの首筋に指を当て、それからまぶたを開いて瞳の様子を覗き込む。


「だーいじょぶ。死んじゃおらん」

「マジか!」

「つってもここに転がしといたら先は短いじゃろ。中に運んで寝かせてやりんさい」

「わかった!」

「添い寝でもしてやりゃすーぐ元気になるじゃろて」

「するか! そんな安い女じゃねぇぞ!」

「やれやれ、どこでそんな言葉を覚えたんじゃい」

「アンタが連れてく飲み屋だよ!」

「むひょひょ!」


 ピンキーはぷりぷりしながらサムを担ぎ上げ、大股で家の中に入って行った。老人はそれを笑顔で見届ける。いまだ霧は出ていたが、雲の細い切れ目から桃の木に光が差していた。


「さてさて。吉兆だといいがの」


 老人は静かに両手を合わて短く祈り、ゆっくりと家に向かって行った。


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