おかしな噺
橘夏影
秣
薄墨色の乱層雲が空の蒼を呑み込み、静かに、事務的に、雨を降らせていた。
屋内に引き籠って
だがその年の梅雨は嗜虐心の強い不愉快な友人みたいにしつこかった。
柑橘系の紅茶の香りを吸いながら、雨を眺める連れ合いの横顔を眺めることだけが唯一の癒しと言えた。
彼女の耳元でほつれた髪が、私の心を震わせる。
その草は、皮膚ではなく粘膜から生えるのだという。
口から、鼻から、眼から、下腹部から、それらは生えた。公開された写真を見ると、単子葉植物のような、鋭いイネのような葉が、虚ろな昏い穴から伸びていた。
今のところ伝染する様子はなく、草のように見える部分は子実体に近いものだと報じられていた。植物というよりは菌糸に近いものが原因らしい。
それは私に冬虫夏草を想起させた。
抜こうとすると、それは神経に根を張っているがごとく激しく痛む……彼はもはや草のせいで発音の怪しい口で話す代わり、そのようにタイピングして記した日記を公開していた。
壮絶な痛みと掻痒感に耐え兼ね、彼は眼球を摘出し、陰茎を切除し、人工肛門を取りつけた。
彼は日記で、死にたい、と綴っていた。
そして結局はひと月と経たないうちに、親族が目を離した間隙に果物ナイフで頸動脈を切り、彼は自死した。妻と、三人の子どもを遺して。
彼の死を知った日も、雨だった。
涙が頬を伝うように雨水の流れる窓ガラス越しに、彼女の手入れした庭のクチナシやアガパンサスを眺めながら、私の内心は対照的に乾ききっていた。
気を紛らわせようと彼女の書斎の中をぐるぐると歩き回り、適当に幾つかの本のページを繰ってみたが、気分は好転しなかった。
仕方なくまた窓際で外を眺めながら私は事実を反芻する。
「そうか、死んだのか」
私は、写真のその男に見覚えがあった。
ぎょろぎょろと特徴的だった目玉は医療廃棄物となった後だったが、その居丈高な鼻梁やこけた頬、自信に満ちたⅤ字で太い眉や厚い唇は記憶に残っていた。
彼は私の中学高校時代の部活の先輩だった。
常に饒舌で、私が入部した日も始終なにかをまくし立てていたが、内容は全く覚えていない。
顧問の先生に対して馴れ馴れしいな、という程度の印象だけだ。
それでも、彼は後輩思いの面倒見の良い先輩で、私は特に彼に不快感は覚えなかったし、ある程度信頼してもいた。
彼はやがて私の出身校の学生の多くがそうするように京都大学に進学した。
進学後は私達をオープンキャンパスの折に案内してくれたりもした。
決して悪い人間ではない。
それでも私は逃げ出すようにして関東の大学に進学したこともあり、彼とは疎遠になっていった。
彼と最後に会ったのは、確か大阪心斎橋で開かれた部活のOB会だった。
彼はその頃、大手コングリマリットへの内定が決まり上機嫌だった。交際している女性とも結婚するのだと言っていた。
同志社女子だか神戸女学院だかの出身で合コンで知り合ったらしい。神女の女は性格が悪いだなんだと言っていた気もするから、前者かもしれない。
順風満帆――
二次会で皆が分別を無くし、チョコレートでガムを溶かす様に理性を侮辱し始めた頃、彼は後輩に恋の手解きをしながらこう言った。
「ヤレない女なんか一緒にいる意味ないでしょ」
私は反射的に、そんなことはないでしょう、と口を挟んだが、彼は頑として譲らなかった。持論を展開するでもなく、同じ言葉を繰り返すだけだった。
そんな彼に対して、私以外に異議を唱える者はいなかった。いつもの、中高一貫男子進学校ホモソーシャルの光景だ。
あるいは、他の皆が
おかしな話だ。
私は何の感慨もなく、ただそれだけを思った。
私には当時つき合っていた女性がいたが、彼女は結婚まで貞操を守る主義だった。
情けない話だが、多少落胆した。でもそれが彼女の主義なら、尊重したかった。
私は彼女を使って性欲を処理したかったわけではない。深い心の交流の結果としての非言語的理解の手段として、選択的に営みが自然発生するだけで、そこに不自然さがあれば、避けて通る。それだけだ。
彼女は多くの人間がそうであるように傷を抱え、私は自分なりに寄り添い、時に傷つけ合い、結局二年ほどの時間をともにした。肌の白い、家族思いの優しい
SNSでは最初彼に対して同情的な声がほとんどだった。
特に彼が死をも凌駕する辛苦から逃れるために色々と削ぎ落した際には、多くの憐憫や励ましの声が集った。
でも彼の死後、誰かが彼のアカウントを発掘し、過去の発言を釣り上げた大きな魚のように晒し、玩具にした。
彼に関する動画が連日動画投稿サイトに溢れた。
変わらない、いつもの光景。
腐臭がする。
勘のいい彼女がそんな私のケーキ屋の隅の埃みたいな不快感に気付く前に、私は溜息を嚥下して席を立ち、二人分の紅茶を淹れることにした。
「今日はクロモジがいいかな」
彼女が初めて私に紅茶を淹れてくれた時も、ダージリンにクロモジを加えてくれた。
くつくつと湯の沸く音が、気を鎮めてくれる。塩素と雑念が混じり合ったものを換気扇で空に還す。換気扇を切ると、つける前より静謐は温かくなっていた。
いつものブルーフルーテッドのポットに準備を終え、仮眠中の彼女を起こそうと思った頃、香りに釣られるようにして
彼女の口角が柔らかく持ち上がる。
クロモジと彼女の匂いが混じり合い、胸を満たす。
心が浮上する。
茶を含みながら窓の外を見ると雨はほとんど上がっていた。
代わりに蝸牛が窓に貼りついている。彼が、あるいは彼女が残した軌跡がぬらぬらと、きらきらと陽光に照らされる。
気づくと彼女が私を見ていた。
彼女は目を細め、小首をかしげる。いつもの表情と眼差し。
彼女はなかなか横顔を見せてくれない。その前に、彼女が私を見つめているから。
耳元の、ほつれた髪が見たい。
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