第37話

   * 


 二〇二五年八月八日 時刻不明


 暗い地下牢の座敷の上で私は目覚めた。陽の差し込まない畳は黒く燻んでいる。

 目元に涙が滲んでいたが、その理由が朧げにしか分からなかった。

 母の夢を見た気がする。

 今し方どんな夢を見たかさえわからない癖に、この涙が恐ろしいので流れているのでは無いという事は、なんとなくわかった。

 私は目元を拭いながら身を起こしていった。ここで目覚めるのはもう何度目だろう。

 地下には窓の一つもなかったので、段々と昼夜の感覚さえ曖昧になってしまっている。今は昼なのか夜なのか、朝と晩、一日に二度運ばれて来る食事の時間が私の中の感覚を僅かに修正してくれてはいたが、時計の無いこの薄暗い地下では正確な時刻を知る由など無かった。

 地下の間取りは私を阻む木格子で半分割されているのだが、格子の向こうの薄明かりの下で若い男が一人、椅子に座ったまま、机に寄りかかってうつらうつらとしていた。

「いま何時ですか?」

 私は彼に聞いてみたが、頬杖を付くその腕を左右入れ替えてソッポを向かれてしまう。

 男は私と歳が近く、どうやら顔見知りのであると思われるのだが、この男も含め、誰も私とは口をきいてくれない。一言も口をきくなと言い含められているのだろうが、それ以上に私を見下すその目には、侮蔑の念が宿っている様にも感じられた。

 とはいえ今は真夜中か、朝方だとは思う。日中は男二人で私の監視をしているのだが、夜間帯には一人の監視役が途中で一度交代するのだ。いま監視役が一人という事は、外を闇が覆う時間帯である事は確実だった。

 私はいま、母の囚われていたこの座敷牢に幽閉されている。これはどういう因果だろう。私は産まれる前からここに居て、産まれてからもここに戻るのだ。

 この五日間、昼とも夜ともなく眠り続けていた。過度な精神的疲労が体の休息を求めていたのか、あるいは寝ている間は嫌な事を考えなくて済むから、夢に逃げていたのかも知れない。

 暗い地下の天井の角。蜘蛛の巣の張ったそこは、室内を照らす豆電球の死角となっているので暗黒だった。私は例の如く膝を抱えた三角座りの体勢になると、暗い天井の隅をぼんやりと見つめながらに、また思考を始めるより他が無かった。

 脳裏に浮かぶのは、再誕の儀式で目にした余りにも衝撃的な光景。

 地獄の様だと思った。

 四肢を縛り付けられた少女。その腹に刻み込まれた縫合の跡。その股ぐらの先で嘆く地べたに這いつくばった父の姿と、その視線の先に垂れた――小さな胎児の腕。累ちゃんはおぞましい形相をして死んでいた。

 果たしてあれは現実の光景だったのだろうかと自問した。

 しかしあれは現実に起きてしまった惨劇に間違いが無かった。

 ――全部間に合わなかったんだ。

 長い髪をざわわと空に揺らめかす――般若の形相となった少女。

 豹変していく菊織ちゃんの表情に、私は彼女の中に張り詰めていた何かがプツンと切れる様な感覚を覚えた。

 私は卒倒し、彼女は父を殴り、白沢を殴り、姉を、マガツコと共に持ち去った。

 私の意識はそこで途絶したが、最後に彼女の後を追って行く白沢の姿を見た気がした。

 監視役の男達の会話から、首を切断された累ちゃんの怪死体が焼島に打ち上げられていた事や「累の祟り」と言われる連続傷害事件が島で起きている事は断片的に理解していた。

 そして先日、事態は遂に殺人にまで至ってしまったという事も……。

 結局私は、累ちゃんの悲劇も、凶行に及ぶ菊織ちゃんさえも止める事が出来なかったのだ。菊織ちゃんが累ちゃんの遺体を損壊したのには何の意味があるのかが私には計り兼ねる所であったのだが、結局己の無力を痛感して悲嘆する事しか、囚われの身の私に出来る事などありようもなかった。

 ちなみに私達の乗り込んで来たボートも既に沖に放流されてしまったらしい。もうこの島を逃げ出す事さえ叶わないという事だ。それは日に二度食事を運んで来る頼子さんから、もう逃げ場はないぞと、痛ぶるような口調で聞かされた事だった。

 ふと隣に視線を移す。

 誰も居ない、くたびれた座敷がそこにあるだけだった。

「先生……どうして助けに来てくれないのですか?」

 一人呟く。

 白沢はあの日、菊織ちゃんと共に失踪した。もう五日になるが音沙汰も無い。

 白沢は彼女の凶行を止める為に、一人で菊織ちゃんの後を追っているのだろうか?

 私は彼の身を案じた。

 この島の悲願であった再誕の儀式を中断させた男を、この島の人間が放っておく訳もない。もしかすると既に監視の目に捉えられ、海の藻屑に消えているという事も考えられる。

 それ位の事を平然とやってのけてしまう、怪しく陰鬱な雰囲気が、今この島には充満している。

 だとすれば次は私の番だった。

 その時を待つ私の心境は、断罪を待つ死刑囚のそれだった。人は待つ時間にこそ恐怖するというのは本当だ。与えられたこの猶予が、逆に不安を駆り立てる。これが父の思惑通りという事ならば効果覿面だ。

 しかし、処罰を待って既に五日の時が経過してしまっている。監視に来る島民達の会話や頼子さんの言動から察するに、父は既に目覚めている筈であるのに、これはどう言う事だろう。何か私の処分を保留にする理由――推察するに、もっと優先するべく事項が発生しているのかも知れないと思った。

 父の頭を悩ませるのは間違い無く、姉の姿を模して復讐劇に臨む菊織ちゃんの事なのだろう。五日前の再誕の儀式のあったその日、累ちゃんの遺体と共に菊織ちゃんはマガツコを持ち去っている。父が苦心するとしたら、その事以外に考えられなかった。

 その時、地下へと続く重厚な鉄扉が階上で開かれた。

 ぎくりとしながら私が薄く差し込んで来る光の方角を見上げていくと、頭に痛々しい包帯を巻いた女が立っているのに気付いた。

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