第20話

  *


 程なく届いた鹿鍋に呑気に舌鼓を打った私と白沢は、順番に熱い風呂に浸かって疲れを癒した。

 忌まわしい敵地で施しを受けているのは妙な気分だったが、私としてはやはり懐かしく、ノスタルジックな心象を受ける事も多かった。

 広い浴槽に浸かりながら考えていた。

 臨月に入り、更には早産の気がある累ちゃんを本当に島から連れ出して良いものかと。

 そんな事をすれば、母体に危険が及ぶのでは無いか? 船の上で産気づきでもしたら、流石に対処の仕方もわからない。

 本当にかさねちゃんを島から連れ出すべきなのだろうか? 何もかもがもう遅過ぎたんじゃないのか?

 私は深く頭の先まで湯の中に沈んでいった。

 浴室の窓が雨風にがたがたと揺れている。


 借りた浴衣の寝巻きに着替えてから、寝室に自分と白沢の布団を準備し終えると、私は布団に座り込みながら三角座りをした膝の間に顔を埋めて、深く溜息をついていた。

 次第に強くなって来た雨音が今や嵐の様相となっているのに、耳を澄ませると、まだ鈴虫が数えるばかり鳴いているのが不思議だった。

 気付く頃には私は、温かな布団の中へと沈んでいた。

「なんだなんだ、すっかり寝入るつもりじゃないか。まだ作戦会議もしていないのに」

 白沢が隣の居間から襖を引いて顔を覗かせる。彼もまた浴衣姿で髪が少し濡れていた。

「先生、私気付いたんですけど、何もかもが遅過ぎたんじゃないかなって思うんです」

「と言うと?」

「累ちゃんは既に臨月に入ってしまって、しかも早産になるかも知れないんです。母体を無闇に動かしては危険が及びますし、産気づきでもしたらどうするんですか?」

 意気消沈とした私の背中に白沢は、

「ああ、その心配は無いよ。全く持って必要無い。お腹の中には何もいないんだから、産まれようも無いんだ」

 と言った。

「心配ない? でも、早産になるかもしれないと言って累ちゃんは安静に……」

「それは呪いにとって付けた設定だ」

「設定って……でも累ちゃんのお腹は日毎に膨らんでいるんですよ。早産の兆候があるって事は何かが産まれる予兆があるって事ですよね。そこに何も入っていなくても、いつかは限界を迎えてお産が――」

 やれやれと言った具合に肩をすくめながら白沢は言った。

「だから始まらない。これから数ヶ月、数年と経過しようと累ちゃんの腹はあのままだ」

 何を言っているんだろう。母体として正常な発達を続けているのだから、いつかはお産が始まるのではないのか?

 私は寝転がったまま頭の向きを変えて白沢を見た。彼はまだ居間の方で胡座をかいている様子だった。

「それらは全て累ちゃんのに過ぎない。いつまで待っても何もはいっていない腹からは何も産まれない。累ちゃんに早産の気があると言って安静にさせていたのは、母体の居所を常に把握しておきたかったからだ」

 認識が及ぼしている影響?

 どういう事だろう。そんなものが実際に累ちゃんの腹を膨らませているとでも言うのか。それこそあり得ない事のように思える。

「そんなとって付け加えた設定が、実際の妊娠に影響を及ぼすだなんて事がある訳……」

「あるんだよ。累ちゃんは産婦人科でのエコーやドップラーなどの精密検査に加えて身体に起きている反応を早産の兆候だと説明されたんだ。周囲の人達も彼女をそういう風に扱い始めた。そうすると段々と累ちゃんの方も、そういう気になってしまった」

「そういう気になってしまっただけで……いや、まさかそれも……っ」

 ――それも、認識が及ぼしている影響だとでもと言うのだろうか?

 周囲からそういう風に扱われ、いつしか自分も信じ込む……そんな妄念が、お腹に本当に神様の子を宿してしまう。

 そんな事が怪奇ではなく現実に起こり得る事だと言っているのか。

 布団の中から上体を起こし始めた私に横目を向けながら、白沢は言った。

って聞いた事あるだろう?」

 ――頭の中が真っ白にすげ変わってしまうかのような感覚を覚えた。

 この男は累ちゃんが、この島の信仰と人々に思い込まされる事で想像妊娠を引き起こしたと言っているのだ。

 けれど私は知っている――そんな事は起こり得ない。

 想像妊娠とは、子供を産まなければならないという脅迫的観念や妊娠したという強い思い込み、もしくは過度の恐怖を持つ事によって引き起こさる錯覚の妊娠だ。不思議な事に、母体が想像妊娠を自覚するまで体は妊婦として正常な発達を遂げて母乳まで出る様になるらしい。

 白沢は座布団にふんぞり返るかの様な有様で、手を後方に着きながら、天井を見上げる様にしていた。

「確かキミのお父さんは、この島に移る以前は分子生物学の研究をしていたと言ったね。となると発生工学――すなわち胚に対する人為的操作技術のノウハウは持っていたとしても不思議ではない」

 確かに父はこの島に移るよりも以前、分子生物学の学者をしていた。そこで何の研究をしていたかまでは把握していないが、まさか白沢はマウスに行うような実験を父が人間にも応用していると、そう考えているのだろうか。

 しかし――

 研究上、マウスを想像妊娠に至らせる際にはパイプカットをしたオスと発情期にあるメスの交尾が必須条件となる筈だ。そうする事でメスのマウスは受精したと思い込む。するとメスのマウスは腹の中に何も居ないのにも関わらず、実際に妊娠しているかの様な身体的変化を迎える。体が妊娠したと錯覚を引き起こすのだ。

 だが人間の偽妊娠を作為的に引き起こした前例はない筈だった。それに累ちゃんは、想像妊娠に至るを満たしていない。

「累ちゃんは性行為をしていません、だからそんな事は――」

 言い掛けて、私の口は途中で止まった。

 そうだ。言っていたではないか、自分自身でも経験があると。

 ――初経を迎えてより、この島の処女は前触れもなく神様の子を宿す事がある。

 そういった神秘の受胎を、この島に閉じ込められていた私は本気で信じていたと。

 顔を引きつらせている私に白沢は流れる様に解説する。

「想像妊娠は思い込みの力によって引き起こされる。しかし、確かに通常であればそんな妊娠はあり得ないという思考が邪魔をして人の想像妊娠は成立しないだろう。だが思い出して欲しい。常識というのは本来外界との擦り合わせによって培っていくものだが、この島の子供達はその道を断たれている」

 パイプカットしたオスとの交尾が想像妊娠を引き起こすのは、マウスもまた本能的に性行為を経て受胎するのだという事を知っているからだ。

 しかし俗世と隔絶されたこの島の子供達は、そう言った常識を……いや、そんな神秘さえも起こり得るのだと本気で信じている。

「確かに人為的な人の想像妊娠には前例がない。それには倫理的な理由もあるだろうし、そんな研究成果の有用性もまた乏しいから試みる者などいなかったのだろう。加えて常識を併せ持つ俗世の人間には端からそんな暗示はかからないとわかりきっている。

 ――だが、この島でなら起こり得るのではないだろうかと僕は踏んでいる。

 ――人間の人為的な、想像妊娠が。

 ――想像妊娠の必須条件とされる性行為を、何か別の行為トリガーに置き換える事で。

 そう白沢は言った。

「性行為の代替えとなる……別のトリガー?」

「そう……それまでは何処か空想めいていたイメージが、具体的に認識される様な……」

 歯切れ悪く白沢が天井を見上げる。

 私は返す言葉が見つからずに口をパクつかせる事しか出来ないでいた。

 ――起こり得る……のだろうか。

 常識の捻じ曲げられたこの島でなら、果たして……思い込みによる人間の想像妊娠が。人為的な生命の神秘の操作が――。

 しかし私は首を横に振っていた。

「でも先生、やっぱりそんな事、私にはにわかに……」

 やはりあり得ない。そう言った常識的な思考が私の理解を阻害する。

 マウスにする様な実験めいた事を、実際の人間でも出来るとでも言うのか。それにそういった条件を満たした上でも想像妊娠を引き起こすマウスの確率は低かった筈だ。いかにこの島の子供達が、神様の子を宿す事があるという御伽話を本気で信じていたのだとしても、これだけでは条件が足りていない気がする。そんな方法では人間の体は欺けない。想像妊娠をする可能性は限りなくゼロに近い筈だ。

 ――私が瞳を伏せていると、白沢は俯けた顔を影にした。

「知っているかい。偽妊娠療法と言ってね、が実際にある事を」

 体を妊娠しているのと同じホルモン製剤が存在する……?

 気付けば私はあんぐりと口を開け、ただ茫然と白沢からの言葉を待つ形となっていた。

「そしてもし仮に、累ちゃんの体が擬似的に妊娠状態に近いホルモン状態に操作されていたとしたら……」

 もし仮に、白沢が言うそんな事があるのなら、

 肉体の状態が強制的に妊娠状態と同じ状態にされてしまうと言うのであれば……あり得るのかも知れない。

 だとしてもそんな事は、何年も何年も実験を繰り返してようやく一人想像妊娠を引き起こす事例があるかといった程度の可能性の――

 僅かにはその可能性を考えつつも、しかし私の頭は未だ否定的だった。私の中に培われた常識というものが、強烈に現実と非現実とを分け隔てている。つまりこういった思考のストッパーがこの島の少女達からは意図的に取り払われているという事だろう。彼女達の世界では、どんな奇跡も突飛な発想も起こり得るのだという事がわかる。

「大体そんなホルモン製剤を、累ちゃんが一体いつ注入されたと言うんですか」

 白沢はそこで、私の思考に差し込んで来るかの如き鋭い口調で言い放った。

「この島では初経を迎えた少女は、風土病の予防接種を定期的にするんだったよな」

 私は思わず目を見開いていた。血流が加速して、鼓動が高まっていくのがわかる――。

 つまり白沢が言いたい事は……。

 つまりそれは、もうずっと何年も前から、この私自身でさえもが、その実験の――。

 酷く動揺した私に白沢は解答を提示する。

「僕は聞いたね、予防接種後に生じる副反応の事を。そしてキミは言った――動悸。ホットフラッシュ。イライラする。月経が遅れる。他にも末端の冷えや肩こりなんかもあったんじゃないかな……これはね、ホルモン製剤による擬似的な閉経を誘引した事によるだよ」

 全て正解だった。どれにも思い当たるものがある。

 しかしそんな事は……そんな事などあってはいけない。

 だから私は必死に否定する。

「待ってください……予防接種は、私も菊織ひおりちゃんも、他の島の少女達だってずっと前から受けていたもので、それなら私や菊織ちゃんのお腹だって……」

 私の声は震えていた。愕然としながら顔の前にやった手指もまた、同じ様に揺れていた。

 ――何年も何年も実験を繰り返した結果、数年に一人位は、想像妊娠を引き起こす可能性があるのかも知れない。

 私もそう考えたのではなかったか?

 もしかしたらそれは、あの御伽話やマガツ教の教えをより深く信じている者ほど。

 つまり、それは……っ

 私も、菊織ちゃんも、これまでに産まれて来た島の少女達も――

 急に吐き気を催して、私は口元を手で押さえていた。

 ――この島の少女全員が実験対象にされていたんだ。

「だから僕は言ったんだ。ようやく神様の子を宿したのが、この島にとって特別な意味を持つ双子の姉妹だったというのは、まるでだと」

 私の常識という名の防波堤は、この瞬間に音を立てて破壊された。

 依然、吹き付ける風が雨戸の音を立てて止まなかった。

 白沢は居間から立ち上ると、私の側に寄り添う様にして側に腰を下ろした。そして囁き掛けるかの様にこう言った。

「わかるかい唯くん。これが累ちゃんに掛けられただ」

 予想だにしなかった現実に、私は放心するしかなかった。

 マガツ教は、私のかつて信仰していた宗教とは――

 邪教だ。

 紛れも無いまでに。

 生命を冒涜し、得体の知れないものを産み出そうとしている。

 白沢は伸びをしながら首の骨を鳴らした。眠そうにあくびまでしている。

「ただし、歴史上の例を見てもこのまま腹が膨れ過ぎて弾けるといった事にはならない。平安時代の近衛天皇の中宮であった藤原呈子ふじわらのていしは予定日を六ヶ月も過ぎてから懐妊が誤りであった事に気付いたし、鎌倉時代、後醍醐天皇ごだいごてんのうの中宮である西園寺禧子に至っては実に三十ヶ月もの間腹を膨らませておいて妊娠が誤りであった事に気付いた。だから累ちゃんの腹から何かがこのまま産まれ落ちるといった心配は無用だ」

 白沢は少し息継ぎをして、間を置いてから言った。

「しかし問題はマガツ教の執り行おうとしているの方だ。ここまで仰々しくして彼らが何をしようとしているのか、それがわからない。神様の子とは、マガツコとはなんなのか……だがまぁ何にせよ良い事にはならない事はわかる。倫理を越えてまで禁忌を実行に移しているのがそれを示唆している。つまり僕達は累ちゃんの為にもこの儀式から彼女を遠ざけなければならない」

「姉妹を連れてこの島を離れるんですね」

 いつになく真剣な眼差しを見せた白沢は、そのまま自分の方の布団に転がっていった。

「先生、さっき言っていた累ちゃんが想像妊娠を引き起こす事になったトリガーというのは何なんですか?」

 性行為という想像妊娠の発生における絶対条件を満たさずして、一体何をトリガーとして子んな奇跡が成り立ったというのか、その答えをまだ聞いていない。

だよ」

「は――?」

「ああもういい、疲れたから寝る。それは説明が面倒なんだ。どうせ明日わかる」

 ここまで散々好き勝手に語った癖に、私の疑念は事もなげに一蹴されてしまう。

「おい!」

 私は不躾にも上司を恫喝したのだが――

「明日と言ったら明日なんだ」

「……」

 枕に沈み込んでいく白沢に視線を投げつつ、私はそんな横暴を了承するしか無かった。

「先生、累ちゃんを。姉妹を無事にこの島から連れ出しましょう」

 同意を求めた私の声が天井に吸い込まれるかと思ったところで、白沢からの返答があった。

「その為にも、差し当たっては累ちゃんにかかった呪いを解く事だ。幸いにして想像妊娠の解き方は簡単だ。当人にさせればいい」

 その通りだった。同意が無ければ彼女を島から連れ出すのはより困難になる。彼女を安全圏へと避難させる為にもまずはこの呪いを解く事が重要だった。

「ですけど累ちゃんは今日、私がお腹の中に何もはいっていない事を告げてもそれを受け入れませんでした。例え解呪の方法事態が単純でも、彼女の説得は中々に骨の折れる事の様な気がするのですが」

「確かに本来ならば時間を掛けて刷り込んでいく作業だ。脅迫的な観念はそう簡単に説き伏せられる事でもない。しかし事態を急を要する。なのでその為のを、明日入手しにいく」

 白沢は残された島での僅かな滞在期間の内に、その脅迫的な呪いを解く為の鍵を入手するつもりであるらしい。

「この島で呪いを解くんですか? それに鍵って?」

 私のそんな凡庸な反応を予測したかの様な探偵からの返答は、ひどく素っ気の無いものだった。

「だから胎児だよ、唯くん」

 先程から白沢が口にする胎児とは、もしや私がこの島で見た産女の抱いた時を止めた赤子の事を言っているのだろうか? となるとこの男は、私の見たあの幻想を、論の頼りにしているとでも言うのだろうか。

「先生、私の見たという赤子は所詮夢のような存在でしかありません。それを頼りにされてはどうにも」

 私はそう抗議したが、白沢は欠伸をしている。取り合う事さえ面倒だといった様子だ。

 私の唇は人知れずに尖っていた。

 白沢は眠そうな声で最後に付け足すように言った。

「嵐は夜中の内に止む。事前に雨雲レーダーでで確認済みだ。僕達が動き出すのはそれから、島民が起き出してくる前だ」

 この島ではインターネット回線が使用不能である。となると白沢はこの島に来る前に雨雲レーダーを確認していたという事になる。

 つまりこの男は、端から島民に歓迎されなくとも、ここを帰れぬもっともらしい名目を作って無理に滞在時間を伸ばす算段をしていたのだ。だから本日、事前に雨雲レーダーでも調べて置いて、今日で無くてはならないと言って私を無理に連れ出した。

 ……やはり抜け目無く、大胆な男だ。まさかこの嵐の来訪さえもが彼の計略の内だったとは。

 布団を手繰り寄せ始めた白沢が寝に入ったのがわかったので、私は立ち上がって照明の紐を二度引いた。橙色の常夜灯が灯り、私もまた布団に潜り込むと、雨音に紛れて囁く声があった。

「あとはキミの憑き物を落とすだけだ」

 ――そう聞こえた気がした。

 キミ達という枠に、私も含まれているのだろうか?

 特に聞き返す事もなく、疲れに任せて私も瞳を閉じた。

 

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