第5話


 幸いな事に、叔母は畑に出ていて留守にしている様でした。姉の靴が一つ三和土にあるのみです。

 かまちを上がると大きな古木の置物と虎が描かれた金色の屏風があって、その奥正面に廊下が続き、先には台所、左手に幾つかの日本間があって、そこから祖霊舎と神棚のある座敷へ続いています。姉がいま寝室として使用している間はさらにその奥にあり、廊下の左手奥側からも入れるようになっていました。離れや茶室や蔵なんかもある立派な屋敷です。

 古い木造建築の廊下を踏むと、ぎしと音が立ちます。麦わら帽子を脱いだ私は早速上がって左手の居間に出向くと、縁側へと続く締め切られた障子を右手にしながら、床の間の掛け軸の足元にある黒電話の前に膝を着きました。

 一応周囲を見渡してみました。

 しかし当然家の中までは私を監視する視線は付き纏う事が出来ない筈です。

 受話器を上げ、メモの番号を確認しながらダイヤル部分に指を伸ばしていく――

「菊織ちゃん、何やってるの?」

 突如背後からした声に竦み上がり、私は勢い良く振り返っていました。

「あっ、唯さんの番号、見つかったんだね!」

 そこにはアイボリーのシャツを着た姉の姿がありました。

 胸を撫で下ろした私は強張った肩を下げるようにして姉の肩に手をやりました。すると姉はいつもの様に、

 

 と言って顔の前に手を合わせて笑っていました。

「びっくりさせちゃったかしら。誰かにバレたら大変だものね、うふふ」

 心臓に手をやり息を落ち着けていると、今度は集落全土に響き渡る島内放送のチャイムが鳴り響きました。


『お祈りの時間です』


 この放送は毎日十時と十五時のへのお祈りの時間を報せるものです。今頃島民は農作業の手を止めて頭を垂れている事でしょう。

「あっ、いけない、マガツ様にお祈りをしないと」

 姉は座敷へと続く襖を開けっ広げ、鴨居に吊るされた荘厳な神棚に向かって二礼してから柏手を二度打ち、深くマガツ様に礼をしていました。

「あっ、おばあちゃんへの挨拶もまだだった。今やっちゃお」 

 そう言って姉は今度は祖霊舎の前に座って柏手を鳴らし始めたので、その緊張感の無さに私は辟易してしまいました。

 祖霊舎の前に正座して手を合わせた姉の右側頭上には、両親と祖父母の遺影が壁掛けにされてこちらを向いています。特に祖父である黒塚頼豪くろつからいごうの遺影は一際大きく、私達の信仰するマガツ教の然とした威厳に満ち溢れているかの様でした。

 早々と御先祖へのお祈りを終えたらしい姉が私の側へと戻って来ました。開けっぱなしにした襖はそのままです。最近の若者はマガツ様へのお祈りの時間が短すぎると大人たちに危惧される風潮にあるのですが、この島の巫女である筈の私たち姉妹もその例には漏れませんでした。私に至ってはもうお祈りする事さえ疎かにしています。

「ねぇ、わたし思ったんだけれど菊織ちゃん。もう十年も前の事だし、唯さんはわたしたちの事覚えてくれているのかな。もしかしたら忘れちゃってるんじゃないかってわたし、いま手を合わせているときに思って」

 姉の疑念は私の懸念したものと同様のものでした。確かに十年もの月日が経過していては、唯さんは私たちの顔も、あの日交わした約束の事さえ忘れているかもしれません。

 けれどもう私たちに残された手段は、唯さんに頼る事以外に無いのです。

「でも唯さんが島に来てくれたら嬉しいなぁ。島の外の世界がどうなっているのかも聞きたいな。ねえ菊織ちゃん」

 姉は私が密かに唯さんとコンタクトを取ろうとしている理由を、ただの故郷帰りの誘い位に思っているらしいのですが、本当の目的は姉の不審な妊娠について相談する事でした。なので本人の居る前で話すのはなんだかバツが悪い気がしてしまいました。本当は姉にも気付かれない様に唯さんに電話を掛けたかったのです。

 私はお茶を濁す様に姉に返答しました。

「でもかさねちゃん。唯さんは島の人たちに歓迎されないよ。唯さんは、絶対に行ってはいけないと言われていたに行ってしまったのよ? 悲しいけれど、島の人たちはもう唯さんを穢れとして認識しているわ。だからこの事は誰にも内緒にしなきゃいけないのよ」

「……十年も前の事、島のみんなも許してくれているわ、きっとそうよ。唯さんだってこの島の出身なんですもの。それにお父様はマガツ教の二代目教主様よ。誰も悪く言う人なんていないわ。この島の人はみんな家族。そうでしょう?」

 私は確かにそう思っているけれど、島の掟を破った唯さんをこの島の人たちは――主である天獄団十郎てんごくだんじゅうろうはどう扱うのだろうか。

 とても良い予感はしませんでした。

 するとそこで先程多少語気を荒げた様子の姉が、目眩を起こして私の肩に寄りかかって来たのです。

「累ちゃん大丈夫? いつものやつ?」

「うん、ごめんね菊織ちゃん。お腹がぎゅーって締め付けられる感じがするの」

 私の胸に寄り掛かかり、小休止をする姉のその上下する腹の中で、間も無く何かが産まれ様としている。

 その空っぽの腹の中で育まれたナニカが。

 私は姉の腹に手を添わせてみました。

 やっぱり何も感じない。その張り詰めた腹の奥底に、冷えた何かが鎮座しているかの様な、得も言えない心象を受けるだけでした。

「菊織ちゃん、少し太った?」

 私がそうしていた様に、姉もまたふざけて私の腹をさする様な真似をして言いました。

 くすくすと笑う姉に、うるさいと言ってやりました。

「ほら、寝室で寝てて」

「うん。唯さんによろしく言っておいてね」

 都合良く姉を追い払う事の出来た私は、姉を見送った後に自分の腹を撫でてみました。

 私たち姉妹は二人で一つなのだから、これまでもこれからも、いつまでも同じである筈なのだから、片割れの方が妊娠してしまったので私の方の腹もまた膨れて来たのかもしれない。

 そんな訳のわからない理屈が私の頭を過ぎっていきました。

 ……それよりも、やはり急がなくてはならない。

 先程姉の腹に触れた時、もう悠長にしている時間は無い様だと私には思えてしまったのです。

 青白い血管の走る姉の腹はもう、張ち切れてしまいそうだと私には感じられました。

 震える指先で黒電話のダイヤルを回していきました。数字の書いたダイヤルを回す度に、じじじじとけたたましい音を立てて戻って来るのがもどかしく感じられます。

 しばらく、コール音が鳴り続けました。

 電話は繋がる様でしたが、唯さんは中々電話には出てくれませんでした。

 ……もう駄目かと、何十コールか続いた受話器を置こうとした刹那、緩々と下げていった受話器の先から、微かな声が漏れたのを私は聞き逃しませんでした。

「はい」

「唯さん? 唯さんですか!?」

「誰ですか? この番号って……」

「菊織! 菊織です、鈍島にびじまの!」

 受話器の向こうで唯さんが、はっと息を呑む音が聞こえた。


 それから私は、事のあらましを唯さんに伝えました。唯さんは記憶の隅にあるあの頃の様に、ただひたすらに私の話を黙って聞いてくれていました。

「……でも、累ちゃんのお腹の中には誰もいなくて」

「……」

「でも島のみんなはそこに神様の子が宿っているんだって言って……診療所のエコーでも確かに赤ちゃんの姿は映っていました。姉の体は妊婦として正常な変化をしていて、今ではもう妊娠三十五週です。お腹に西瓜でも入っている様に膨らんでしまっていて」

「うん」

「それでも、絶対にあのお腹の中には――」

 矢継ぎ早に繰り返される要領を得ない私の話を耳に聞き留めながら、唯さんはこう言ったのです――


……か」


 私が受話器を握り直した――次の瞬間の事でした。

 右手にしていた障子に張り付く様にして、いつからか、黒い人影がそこにビッタリと張り付いている事に私は気付いたのです。

 障子に空いた二つの穴――

 指先で開けた二本の穴から、私を見下ろす目が覗いていました。

 ――そして次の瞬間には障子を突き破り、そこから右腕が伸びて来たかと思うと、

 ガチャンと、黒電話を叩き壊すのかという程に力強く、フックスイッチが押し込まれていました。

 ツーと虚しく途切れてしまった電話……。

 背筋に氷を流し込まれたかの様な怖気が、私の肌に粟を立たせていきました。

「菊織ちゃ。誰に電話しよったやろか?」

 障子を開いてのっそりと部屋へと入り込んで来た影。

 叔母が縁側に立ち尽くして、風穴の空いた様な黒い瞳で私を至近距離から見下ろしていました。

「電話……誰にしよったんやろか?」

 間近にした紅を塗った口元から、腐敗した様な臭いが鼻腔を突きました。そして小鼻をひくつかせた叔母の、肥えた頬が震えるのを見つめる。

「誰にしよったんやろか?」

 叔母は普段と同じ優しげな口調でしたが、その瞳は揺れ動く事なく私に繰り返し問い掛けました。普段糸の様な目をして笑っていた叔母からは、およそ考えも付かない位に冷徹な気配をその時に感じました。

「あ、あの……学校の事で、高瀬たかせさんに……その」

「高瀬さ? 高瀬芽依たかせめいちゃね」

 そう言って叔母は力任せに私の手から受話器を奪い取ると、叔母は高瀬さんの家に電話を掛け始めました。

「……」

「あい……どげんしよっとね……こんかな……あい」

 叔母の余りの豹変ぶりに恐怖していた私はその場を動く事も出来ないまま、その狂気めいた背中に、静かに戦慄を続ける事しか出来ませんでした。

「高瀬さげー確認したとばってん……」

 振り返って来た叔母の表情は、全くもっての無表情でした。

「電話なんて、しとらんって」

 西陽が落ちて来て影になった部屋の隅で表情を暗く覆い隠していった叔母は、何か得体の知れないものに变化していく様に思えました。

「そん手に持っとーもん、ナニ?」

 カナカナカナと、ひぐらしが遠く鳴いていました。

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