選択肢【エンバー】届く光、届かぬ祈り〈祝勝会後〉

「トニー」

 浮かれた肩を誰かが叩いた。


 振り返ったトニーの頬にぴたりと冷たい何かが当たった。同時に耳元でちゃぷりと音がする。

 目線を上げると光を受けて反射する酒瓶が見えた。

 そしてその先には、長い黒髪も。


「エンバー?」

 下から聞こえてきたトニーの声には驚きが含まれていた。エンバー自身もこういう集まりの場にはあまり参加しないし、参加したとしてもその後はさっさと帰ってしまうがーー。

 ふらふらとしているのにやけに上機嫌に揺れる髪が見えた時、エンバーは無意識に彼の肩を叩いていた。ただ、直接トニーに触れるのは憚られた。入団初日の夜、神秘の力が欲しくなり自我が溶けていった感覚を思い出しそうで身がすくんだからだ。

 だがトニーは頬に当たった酒瓶のラベルに目を細めた。

「随分いい酒だな。エンバーも飲み足りないのか?」

「いや……」

 ーーエンバー『も』というところが引っかかって口ごもっていると、手にあった酒瓶を奪われた。

「エンバーも飲むだろ? たっぷり飲んで、たっぷり寝よう」

 トニーは持っていた酒とエンバーから奪った酒瓶を自身の顔の両サイドに並べた。その表情は楽しさいっぱいだ。エンバーが声をかける暇もなく、トニーは普段は見られない弾むような足取りで彼はずんずんと廊下を歩いていってしまった。


 消灯時間が過ぎ、部屋には手元灯の朧げな光が灯る。その光を優しく受け止める琥珀色の酒は、飲んだ者の喉を焼くような度数の強い酒だ。トニーはちびちびと舐めるように飲んでいた。また一口、グラスに付ける。細い喉仏が上下に動いた。

「どうしてこんないい酒を?」

 グラスを置いたトニーは、一向に減らないエンバーのコップを見た。

「ルガーが」

 エンバーが口を開いた瞬間トニーが顔を顰めた。自身の唇に人差し指を付け、エンバーに黙るように指示する。そして声を抑えていった。

「ルガー『団長』な。一応。誰が聞いているか分からない」

 

 入団して一ヶ月。トニーがルガーに対して尊敬を払っているのを見たことがない。記号のような形式的な礼しかしていないのに、敬称を気にするとは意外だった。


「で?」

 トニーが首を傾げる。エンバーは手を揉み、

「ルガー、団長にいただいた。食堂を出た後に会って……。『持っていけ、部屋でーー』」

 ーー『部屋で飲め』

 低く唸るような声。

 その声が頭の中で再生され反響した。狭い脳内にこだまして、重なって、やたらと大きく聞こえたり、耳元で囁くように聞こえたり。声が頭に響く度に、エンバーは自身の体が闇に飲み込まれる気がした。心臓がバクバクと鼓動して視界が狭くなる。

 じわじわと光が消えていく。

 それでも目の前にある朧げな光ーーそれを浴びる琥珀色の液体はゆらゆらと光を反射している。

 

 『飲め』

 低く唸るような声が聞こえる。


 エンバーはぶんどる勢いでグラスを傾け、中身を飲み干した。

「あ、おい! そんなに急に飲んだら……っ」

 トニーはエンバーの手を払った。ぼすっと重い音を立ててグラスは腰かけているベッドに落ちる。

「急にこんな強い酒を飲み干すな!」

 座ったままのエンバーに駆け寄り、トニーは彼の顎を両手で包んで顔を覗き込んだ。

 数度の瞬きの後、トニーの瞳の奥に光が宿った。

「荒療治だが、酒を分解して毒素を早急に排出させる。一瞬かなり酔いが回るが、許せよ」

 治療方法を告げ、魔力を込める。瞳に宿る光が一段と強くなった。一所懸命に魔法をかけるトニーをエンバーはぼうっと見ている。


「光……」

 ぐわんぐわんと揺らぐエンバーの視界の中で唯一はっきり見えるのは、二つ並ぶ仄明るい光だけ。エンバーはその光に向かって手を伸ばした。ぬかるむ暗闇に腕を取られ動きは緩慢だが、指が伸びる度に汚泥のような黒さが体から離れていくような気がした。

 もっと、もっとと腕を伸ばすとついに指先にやわらかい感触が当たった。

 エンバーの視界にあった闇がはじける。


 手は、トニーの顔ーー目の下から顎を覆っていた。

 自身の色黒な肌のすぐ上、緑色の瞳がこちらを見ている。

 それはエンバーに二度光を与えてくれたトニーの目だ。

 五歳の頃に見た神秘の女神像ーーその瞳に埋め込まれていた宝石に似ている。


「エンバー、あの……大丈夫か?」

 篭ったトニーの声は自身の手のひらの奥から聞こえる。顔の大半を覆われていることには気にも留めず、動きの止まったエンバーに心配の目を向けていた。トニーが瞬きをするとまつ毛が人差し指にかかってくすぐったい。その感覚にエンバーはようやく自身を取り戻した。

「すまない」

 伸ばした腕を下ろす。現れたトニーの顔は穏やかだった。

「俺は気にしない。患者が治療術士に縋るのはよくあることだ」

 拒絶の意思を示すことなく、むしろエンバーの意識がはっきりとしたことに安堵を覚えているようだ。元居たベッドに腰かけ、トニーは足を組み直した。手元灯に照らされた酒をまた舐めている。

「それにしても大きな手だな」

 トニーの目線はエンバーの手に向けられる。エンバーも自身の手を見つめた。ガントレットのグリップを握り続けた手は、親指の付け根の皮膚が硬くなっている。

「……俺の手には何もない。破壊するだけだ。お前のような何かを救う手では……」

 話の途中でエンバーは口を噤んだ。空気が重くなるのを感じたからだ。重い空気は視界の端で小刻みに動く白いブーツのつま先から伝わってくる。

「生き物は何かを破壊しないと生きられない。勝手に自分を卑下して、勝手に俺の手を神格化するな」

 口調や声色はそれほど荒くないが芯には苛立ちがうかがえるがーーエンバーには意味が分からなかった。

「実際、俺はお前に救われた。神秘を持つお前が特別なのは事実だ」

 どうして怒る必要があるのだとエンバーは問いかけるも、トニーは眉をピクリと動かしただけでエンバーに対し何も答えなかった。


 トニーはエンバーに光を与えた。それも二度も。

 その力は紛れもなく本物で、尊く敬うべきなのに何故トニーは苦々しい顔をして賛美を拒絶するのだろうか。

 

「……俺は寝る」

 エンバーが理由を考えていると、トニーは残り少なくなった酒を呷った。自身のグラスと酒瓶を手早く片付け、寝支度をしに洗面スペースに向かってしまった。

 ばたん、とやや強めに閉じられた扉のせいで部屋の空気が揺れる。

 エンバーは追いかける事もできずに、ただ手元等の灯りを眺めることしかできなかった

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