選択肢【エンバー】神秘の救済を求めて、大男は一人で立っていた。
扉がノックされた。トニーが立ちあげって扉を開けると、そこには エンバーが一人で立っていた。
「……中に入ってくれ」
小さく息を飲んだ音がエンバーの耳に届いた。呼吸は浅く、震えている。
トニーはエンバーに自身の肩を掴むように指示し、部屋の中に誘導した。
エンバーが″見た″世界。
それは五歳までに見た景色と九ヶ月前の三時間だけだった。
エンバーは貧困で異国から逃げてきた、よるある一家の子供だった。一家が頼ったのは、大陸でも多くの信徒のいる神秘の女神教、その修道院だった。
幼いエンバーは妹を抱きかかえ、道中、死んでいく家族を失う悲しさを覚える余裕もなく歩き続けた。いくつもの山や野を越え、コーソム修道院に着いた時ーー腕に抱えた最後の家族、赤子の妹は既に冷たくなっていた。
皺の多い司教に連れられて入った聖堂の奥には、女神像が置いてあった。瞳に緑色の宝石が埋め込まれたその偶像は美しく、心を救われた。
案内されたのは修道院の地下だった。部屋は小さく汚かったが幼少のエンバーが一番嫌だったのは、日の光が入らない魔法灯だけの薄暗い空間だったことだった。
しかし薄暗さはすぐに気にならなくなったーー視力そのものを奪われたから。
「ベッドに座って。縁はここだ」
声とともにエンバーの手のひらに柔らかく大きな布が触れた。言われた通りに腰かけると木枠が歪んで大きく軋んだ。
ゆったりとした動きと的確な声かけ。介助に慣れているとエンバーは感じた。感情を表に出さないようにと意図して声を落ち着かせてているのが伝わる。
初めて座るベッドなるものの柔らかさに感動していると、小さな足音が少し遠ざかった。彼は足裏全体を着地させる癖がある。その足音は部屋の中を行き来し、布や小瓶を用意しているようだった。
またこちらに近づいてくる。せわしない歩幅は緊張の証拠だとエンバーは知っている。
※※
「エンバー」
足音が目の前で止まる。エンバーは声を頼りに腕を伸ばし、トニーの肩に触れた。存在を確かめるように肩から二の腕、肘と撫で、最後に手のひらに触れた。
両手を繋いだ状態になった二人だが、彼らは黙ったままだった。もちろん恋愛的な爽やかな雰囲気はない。儀式のような緊張感と静けさが部屋の中いっぱいに広がった。
「……エンバー。目を」
静けさに染みるような小さな声がした。この声は聞いたことがある。九ヶ月前、光を取り戻したコーソムの修道院で……。
どくん、と痛いほど心音が大きく鳴り、エンバーは胸を押さえた。
瞳に光が戻った時のーー聞き慣れた老いた司教が叫んだ「神秘だ!」という声が頭にこだまする。振り切ろうと頭を振ると、こびりついた声は嘲笑うように大きくなってエンバーの脳髄をじりじりと焼いていく。
ーー神秘だ、神秘だ。神秘、神秘……。
暗い地下室の湿った空気。細い髪の毛や生暖かくぬめりけのある液体が喉を通る感覚が蘇る。瞳に刃物が迫った時も、切られた腕に生臭い液体を塗られた時も、その声は聞こえた。
『神秘を、求めよ』とーー。
「エンバー? 大丈夫か?」
突然胸を押さえ、黒髪を振り乱すように悶え出したのでトニーは慌てて声をかけた。
「おい、どうした?」
胸を抱え込むように丸まったエンバーの肩に触れる寸前、トニーの手首に痛みが走った。気付けばエンバーの黒く焼けた手に掴まれている。ーー動きは全く見えなかった。
「うぅ、ぐっ……!」
骨が軋むほど強い力で掴まれ、トニーが呻いた。凄まじい力で引くも押すも出来ない。手首は壁に埋まってしまったかのように微動だにせず、抵抗するトニーの体だけが虚しく揺れるだけだった。
エンバーは空いた片手で顔に巻かれた包帯を引きちぎった。もう片方の手は振り払おうとするトニーを制した状態であるのに、エンバーの体はブレることがなかった。
ぶちぶちと繊維が断ち切れる音にトニーが目を向ける。
露になった顔は悲惨としか言いようがなかった。爛れた肌は引きつって、目蓋は落書きのようにガタガタに裂かれている。目は窪み、まつ毛もない。本来の膨らみはなく眼球自体が抉られており、その上で焼かれ、雑に縫い告げられていた。ーー人為的な傷であることは誰の目にも明らかだった。
思わずトニーは固まった。治療の現場でも経験したことのない悪意に満ちた傷だった。
「目を……」
反射的にトニーは自由な手でその傷を覆った。エンバーに掴まれている方の手も、抵抗を表す拳を解いて傷の方に向かって指先を伸ばしている。
トニーに彼を癒やしてやりたいだとか可哀想だだとか、そんな思いはなかった。ただ、『痛そうだった』からーー人の手によって傷つけられたそれを、人の手で温められたらと衝動的に腕を伸ばしていた。
その頃にエンバーもトニーの片腕を解放した。心地良い人肌が窪んだ傷に溜まっていくように思え、トニーの指先の皺さえも滑らかな絹のように感じた。
神秘の力は、まばゆく光るわけでも、熱を持つわけでもない。ただ触れれば『何事もなかった』ようにあたかも最初からそうであったかのようにーー治癒が静かに実現する。
トニーはそっと手を離した。切れ長のはっきりとしたまぶたのラインに長く力強いまつ毛がびっしりと生えている。
ゆっくり開いたその瞳は黄金色ーーやはり以前コーソム修道院で見た彼のものだった。
美しく開いた瞳に見惚れていたトニーだったが、神秘の反動は感動の瞬間さえ彼らに与えない。
トニーは強烈な頭痛とめまい、そして吐き気に襲われた。立っているはずなのに寝ているような気さえする。えづいて口元を覆うと手のひらに鼻血が付いた。出血量は多く、もう唇まで滴っている。拭っても拭ってもとめどなく出てきて白い修道服が汚れていった。
ーー座ら、ないと。
トニーはぼやけていく視界の中で椅子を探した。失神して頭から倒れるのは避けたい。この症状なら命に関わるようなものではないなと、どこか冷静に考えていた。
備え付けの粗末な椅子を視界に捉えた瞬間、ぐわんと世界が回った。めまいもついにここまで来たかと考えたが、揺れた髪とはためいたセーラー襟は妙にリアルな遠心力があると思うと同時に、トニー背中に柔らかな何かに包まれた。
ブレる視界の中心にはトニーを見下ろす黄金の瞳があり、彼の後ろには見慣れた天井が広がっている。ベッドに引き倒されたのだとトニーは理解したが、仰向けになった喉に血が流れ込む苦しさで礼は言えなかった。
「血が喉に……。苦しい、起こしてくれ」
エンバーは素直に退いたが、トニーの脇を抱えて体を起こしたあと、自身の腰に跨ぐように座らせた。
顔が近い。異常な距離感に、トニーはエンバーを押しのけようとしたが、もう力が入らない。抵抗の手はエンバーの肩に添えるだけになってしまった。
流れる血も、嚥下を忘れて溢れ出しそうな唾液にさえも気を払えない。意識を保つことで精一杯だった。
「血を……神秘を……」
エンバーの声がした。目の前にいるはずだが彼の声は遠くに聞こえる。
黄金の瞳が近づき、静かに伏せられる。次にトニーが覚えたのは生暖かい感触だった。鼻や唇に弾力のある何かが触れる。這うように動くそれがエンバーの舌であると気づいた頃には、トニーにはもう成す術がなかった。力の抜けた唇に舌がねじ込まれ、口の中のすべてを奪うように吸われる。
「ん、う……」
くぐもった水音の中、自身が漏らした息をすらもトニーにとっては薄い膜の外から届いた音のようだった。
トニーの舌を押しのけて下顎を撫で唾液の分泌を促すエンバーの様は、そうしなければならないという強迫観念に思える。少なくとも、視界の中で鋭く寄せられた眉をみる限り喜んで行為に及んでいるとは思えない。
その時、がくんとトニーの頭がのけぞった。エンバーが支えたので首を痛めることはなかったのは幸いだったが、トニーは瞬間的に意識が飛んだことを自覚した。
ーーこのままだと意識を失ったらエンバーが何をしでかすか分からない。性的な目的ではないにしろ、後々困ることになるのは嫌だ。
トニーは最後の力を振り絞って口を開いた。
「カタファを……バンダナの宝飾が歩くと、揺れる男……。彼を、呼べ……神秘の、反動……」
神秘、と告げた時エンバーが反応を示して唇を離した。エンバーの意識がトニーから少し逸れたようだから、何とかなるかも知れない。急激に暗くなっていく視界の中で、エンバーがこの指示に従ってくれることを祈りつつ、トニーは意識を手放した。
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