選択肢【ジブ】所有者になりたい″弟″と血を求める盲目の従者

 扉がノックされた。トニーが立ちあげって扉を開けると、ジブがいた。

 彼は一人で立っていた。


「ジブ? エンバーを連れてくるんじゃないのか?」

 トニーの問いかけるもジブは扉の前に突っ立ったまま動かなかった。

「エンバーを呼んできてくれ。夜中の今が一番、都合がいい」

 トニーの更なる催促もジブは項垂れたままで動かない。トニーはドアノブを握ったまま、ジブが踵を返してエンバーを連れて来ることを期待した。だが、ジブは動かない。廊下は暗く、部屋から漏れた光はジブの赤い髪と高い鼻を照らしていた。


「本当にあいつの目を治すのか?」

 赤い髪の間から、垂れ目がトニーを見つめている。ジブの薄桃色の瞳がうるんできらりと光った。眉と口角が下がり、大きな体を縮こまらせるように立っていた。

 トニーの目が泳ぐ。トニーはジブのこの顔が嫌いだった。

 修道院にいた頃――ジブがトニーよりも背が低く華奢だった頃。彼は泣き虫で甘えん坊な子供だった。対して五歳年上のトニーは、幼くして治療魔法を習得しており奉仕活動に携わってきたせいか精神的な成熟が早かった。

 治療魔法を施し、寄付を得る。しがない地方修道院の生命線でもあった。修道士からは寄付で、子どもたちを食べさせていけ、歳上なのだからしっかりと子供も面倒を見ろ、と日々言われていた。トニー自身もそうするべきだと思ったし、そうすることで大人は孤児で身寄りのない自分を捨てられないとも思った。

 稼ぐ術を持ったトニーを多くの孤児が羨望と嫉妬の入り混じった目で見てくる中で、ジブはトニーの能力関係なしに慕ってくれていた。悪戯を仕掛けられて面倒だなと思ったこともあったが、純粋に向けられる信頼は何物にも代えがたくトニーは次第に、ジブに向けられた愛情を返さなければと思うようになっていた。

 だから、ジブの泣き顔は嫌いだった。

 

「ジブ。泣くな」

 トニーの声は少し震えている。ドアノブを握った指先は力を込めすぎているのか、爪が白くなっている。ジブは項垂れるふりをして、それを見ていた。瞬きの折、ジブの瞳の奥が冷たく光った。


 かつりとブーツの音がした。トニーは突っ立ったままのジブを部屋に招くことにしたようだ。

「とりあえず部屋に入れよ。ちゃんと話をしよう」

 そう言って振り返るトニーの背にジブは腕を伸ばした。

「トニー、二人で騎士団を抜けよう」

 抱きしめて低い声で囁く。トニーが一瞬、息を呑んだのがわかった。

「ジブ。ここを抜けたって何もならない」

 よろけたトニーの肩甲骨がジブの胸に当たる。抱きすくめたジブの腕を払おうとトニーがもがくも、一回り体の大きくなったジブにとってはないのも同義だった。

「トニー。俺は本気だよ。俺たちなら傭兵として生きていける。このまま騎士団にいたら、トニーは神秘持ちとしての生き方しかできなくなる。そんなの、俺が嫌なんだ」

「俺が納得しているなら問題ないだろ。それに神秘持ちとして国に知られてしまった以上、今までみたいに気軽に生きられないのは承知の上だ」

「だけど……!」

 食い下がろうとしたジブのつま先に衝撃が走った。見ると、トニーのブーツのヒールがジブの足を強かに踏んでいた。

「ぅ、ぐぅ……」

 次に感じたのは燃えるような耐え難い熱。トニーに掴まれている腕が燃えるように熱い。


 ジブは心の中で舌打ちをした。彼に猶予を与えすぎた。困惑している不意を突いて意識を落とすべきだった。体術で負ける気はしないが、魔法を繰り出されては分が悪い。

 どう黙らせようかと思考を巡らせているとーー

 バァン! と扉が勢いよく開いた。

 ジブは反射的に振り返り、トニーを自身の背に隠した。

「エンバー……」

 そこには黒髪の大男が立っていた。下ろし途中の脚を見るに、ドアは大男にぶち破られたようだ。

「……」

 力強い蹴りとは対照的に、エンバーはよたよたと歩き始めた。見えない目を補うように両腕を軽く上げ、辺りを感じ取りながら何かを探している。


 ーー使える。

 ジブは直感的にそう思った。

 救いの手を求めて彷徨う姿は哀れにも思えるがーージブには聞き分け良い上等な獣に見えた。 盲目であるのに、誰の助けも得ずにここまできたのであろう。手助けしてくれる誰かがいればドアを蹴破るなんて真似事しない。

 エンバーがここに来た理由。それはルガーの指示を受けた。それでしかないはずだ。


 試しに一つ、ジブは口にしてみた。

「エンバー、頭の包帯を取れ」

 言葉が終るやいなや、エンバーは目の前でぶちぶちと包帯をちぎった。無残に散った包帯が床に散らばる。

 包帯の下から表れたのは、爛れてて波打ち、まつ毛もなく、落書きのようなガタついた線で固着した皮膚だった。へこんだ皮膚は眼球自体がない事を示している。

 背後から影がジブを抜き去った。見慣れた茶色い髪がエンバーのもとに駆け寄る。大男の目の前に立つと、トニーは小さく見えた。

 身長差は顔一個分くらいだが、そもそもの体の造りが全く異なる。彫刻のように深く刻まれた筋肉の隆起、太く逞しいのに長く見える手足、子供の三人は背負えそうな広い背中を前にすれば、平均身長、やや痩せ型のトニーを小柄だと錯覚してしまうほどだ。

「……」

 トニーの手がおそるおそるエンバーに伸びていく。エンバーも気配を察してか、少し背を丸くして屈んでいる。


 ーー神秘。これを使うしかない。この場を有耶無耶にするには……。

 ジブは神秘の反動を利用することにした。心は痛むし自分以外の人間にトニーの力が及ぶことは面白くないが、よもや乱闘寸前だった状況を誤魔化すにはこれが一番だと考えた。


 ゆっくりと伸びたトニーの指がエンバーの傷を覆い隠す。特に音もなく、治療魔法のように患部が光ることもない。ただただトニーの手が重なっているだけだ。

 その状況がほんの数秒続き、トニーがエンバーの長い黒髪をかき分けてから手を離した。

 ーー切れ長のはっきりとした目蓋が、そこにはあった。力強くまつ毛が揺れる。ゆっくり開いたその瞳は黄金色ーー半年前に修道院で見た煌めく瞳だった。


 目の前でぐらりとトニーの体が崩れる。膝が床につく前にジブは急いでトニーを抱きかかえた。その時、ジブの腕には生暖かい感触があり、床には数滴、赤黒い液体が落ちていた。

 ジブがトニーの顔を覗き込むと、とめどなく流れる鼻血を拭う事もなく、くすんだ顔色の中にうつろな目が浮かんでいた。瞳は焦点が合わず宙を泳いでいる。

「……血を」

 声の方向にジブが顔を向けると、エンバーは床に跪き、片腕をこちらに伸ばしている。

「どうか、神秘の血を」

 もう一度。エンバーは懇願し、膝を引きずって一歩前に出た。その視線はトニーではなく、トニーを抱くジブに向けられている。ボロ切れのような服を着たエンバーが指先を伸ばして血を求める姿は、まるで果樹の所有者に果実をねだる物乞いのようだった。


 『所有者』。甘美な響きにジブの胸が満たされる。

 気を良くしたジブはトニーの顎から滴り落ちる血や唾液を手で受け止め、盃のようにしてエンバーの前に近づけた。ほんの水滴、丸めた手の皺に入り込んでしまうような量だったが、目の前の男は納得したようだ。恭しくエンバーの手首に自らの手を添えて、舌で舐め取った。


 不思議と不快感はなかった。熱心に飲み水を求めるような姿には欲情は感じられない。そうしなければならないと義務付けられているように必死だったからだ。


 にわかに廊下が騒がしくなった。駆け寄ってくる足音が聞こえる。

 エンバーは真夜中にドアを蹴破ったのだ。音に気づいた誰が来てもおかしくなかった。

 ジブは耳を澄ます。来る団員によっては言い訳を変えなければならない。

 軽やかな足取りの中に、「大丈夫だから」と他の団員をなだめる、少し掠れた声がした。同時にちゃりちゃりと小さいアクセサリーが揺れる音もする。

 これは聞いたことがある。バンダナの飾りー!カタファだ。

 ジブは思わずニヤけた。彼は思慮深い人間だから、この状況を深く追求してこないだろう。

「エンバー、俺の言動は伏せろよ」

 目配せするとエンバーは頷いた。

 ジブはトニーを担ぎ上げ、ベッドに横たわらせた。そしてベッドの横に膝をつき、涙を溜めて、意識を失った兄を心配する弟の顔をした。

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