ゾンビ溢れる渋谷で地味OLはギャルになる

松本もか

絶望の地味OL

 寿美子は屋上の縁に立つと、照りつける太陽を背に地上を埋め尽くすゾンビの群れを見下ろしていた。

 時折吹き抜けるビル風が、後ろにキツくひっ詰めた黒髪の先端を揺らす。


 もう終わらせてしまおう――そう思いながらも、どうしても最後の一歩が踏み出せない。

 高鳴る鼓動を抑え込むように、彼女はずれたメガネを静かに押し上げた。


 ◇◇◇


 その日、寿美子は出社すると挨拶もそこそこに、いつもの業務場所である地下倉庫へと向かう。ここでひとり書類整理をする事が、彼女の主な業務内容であった。


 乱雑に積まれたファイルを手に取っては、関連する棚へと並べる実に地味な作業。

 無理やり押し付けられた仕事であったが、人と接するのが苦手な寿美子にとっては、逆にありがたかった。

 

 作業をしばらく繰り返していると、突然照明が消え、倉庫内は暗闇に包まれた。

 しかし寿美子はそのことに一切慌てることなく、手探りでスイッチのあるところへと向かう。幾度となく繰り返したこの行動。見えなくても慣れたものだ。


 寿美子は社内で特別地味だった。

 ほぼ存在感ゼロ。自分が会社にいるかどうかさえ、誰も気づかないのではないかと思うほどだ。影が薄いなんて言葉じゃ足りない。もう、影そのもの。

 だから寿美子の存在に気づかず、今のように倉庫の電気を消されることはよくあることだった。


「あった」

 暗闇の中、目的の場所にたどり着いた寿美子は軽くため息を吐くと、照明のスイッチを押す。


 しかし、その日は違った。いつものようにスイッチを押しても、天井の照明が何故かつかない。

 試しに何度かオンオフを繰り返してみる。しかし、結果は変わらない。スイッチを押すたびに響く、パチパチという音だけが、虚しく暗闇に消えていった。


「停電……?」

 不信感を覚えた寿美子は、フロアへ戻るべく階段を上がった。
 古びた重い鉄製のドアが軋む音を立てる。通路へ顔を出すと、そこは薄暗く静まり返っていた。


「あれ?」
 来るときはついていたはずの照明も、今はすべて消えている。
 左右に続く薄暗い通路が、どこまでも広がっていた。


「やっぱり、停電……?」

 不安を紛らわすように呟き、足元に注意を向ける。
 するとその視線の先に、そこそこの大きさのある黒い物体があるのに気づく。

 目を凝らして見てみると、それはカバンのようだ。

 
 ーー何でこんなところに?
 革製のカバンを拾い上げ、誰かいるのかと周囲を見回す。

 さっきは気づかなかったが、改めて辺りを確認すると、通路にはいくつもの物が散乱している。暗闇に少しずつ慣れた目が、それを浮かび上がらせた。


 停電を慌てて直しに行ったのだろうか。
 そう思ったが、やはり妙だった。人の気配がまったくしない。
 さっきから物音ひとつ聞こえないのだ。


 そのことに胸騒ぎを覚えた寿美子は、自分の席がある部署へと急ぐ。

 通路には寿美子の足音だけが響いた。


 部署の近くまで来るとドアは開かれていたが、いつも聞こえる人の声などは一切聞こえない。


「誰かいますか……」

 不信感を抱きながら、ゆっくりと顔を覗かせた寿美子の目に映ったのは、無人の部屋だった。


 何かの間違いなかと思い、通路の反対側のドアも開けて見るも、結果は同じだった。

 いつの間にかオフィスからは人が消えていた。


 これは停電ではなく、何らかの災害で全員が避難したのだろうか。だが、地下倉庫にいる自分を迎えに来る者は誰もいなかった。

 その理由はなんとなくわかっている。

 そんな事でいちいち落胆するほど、社内での自分の姿を知らなくは無い。


 話しかけられれば挙動不審になるし、挨拶もぎこちない。

 何か失敗するたびに「ごめんなさい」と繰り返して、どんどん距離を取られる。

 誰が、こんな面倒な人間に避難連絡なんてしてくれるだろうか──。


 そんなネガティブな思考に囚われながらも、もしかしたらまだ誰かが外にいるかもしれない──そんな淡い期待が心の片隅に灯っていた。

 
 寿美子は震える手でカーテンをそっと引き、窓越しに外の様子を確認しようとした。

 だが、目に映る街並みの異様さに息を呑む。

 
 行き交う人々も、走り抜ける車も──人という人、すべてが跡形もなく消え去っていた。


 その静けさは耳鳴りのように頭の中に響き、この空間だけが現実から切り離されているような錯覚を覚える。


 ここは渋谷のスクランブル交差点近くのオフィスビルだ。東京の中でも、最も賑やかな場所。そこから人々が消えるなんて、あり得るのだろうか。


 それに、渋谷駅を背に見上げる数々の巨大な電子看板はどれも黒く、騒がしさは鳴りを潜めている。停電はこのビルだけではなく街全体がなっているようだ。


 慌てて携帯を確認するも、圏外と表示されている。手近にあったパソコンや電話も調べてみたが、電気のみならず通信手段も遮断されているようだった。


「どういうこと……?」
 かすれた声が虚しく響いたが、すぐに静寂に吸い込まれて消えた。


 自分だけがどこか異質な空間に迷い込んでしまったのだろうか。しかし、そんなことはあり得るはずがないと、すぐに否定する。


 これはきっと何かの災害だ。自分だけが逃げ遅れ、取り残されている。ただそれだけだ。

 現代社会ならきっとすぐに誰かが助けに来てくれるはず。

 混乱しつつも、寿美子はそう思い直す。


 恐怖と不安が胸を締めつけ、足がすくむ感覚に襲われながらも、何とか冷静さを保とうと必死だった。


 ◇◇◇


 あれから二週間が経とうとしていた。

 外の日差しは強く、暑い日が続いているが、寿美子の心は真冬のように凍てついていた。


 相変わらず誰かが現れる気配はない。

 だが、それだけが理由ではなかった。


 何故ならば信じられないことに、街には消えた人々に変わり、ゾンビが現れたからだ。


 そういえば、一時期テレビや雑誌では「ノストラダムスの大予言で、1999年に地球は滅亡する」などと騒がれていたのを思い出す。


 その予言とゾンビ発生の関係性はわからないが、今となってはどうでもよかった。


 現に大勢のゾンビが街を彷徨いている。

 これはゾンビ災害というべきか。

 外に出る事はできず、寿美子は籠城を余儀なくされていた。


 しかし、社内でなんとか見つけた水や食料も、細々と消費するうちに底が見え始めている。このままではいずれ外に出なければ餓死してしまう。


 そんな事を考えては、毎晩のように不安と怯えを抱えながら眠りについていた。

 日に日に希望は遠ざかり、深い絶望の渦中にいることを嫌でも思い知らされる。


 今は整然と並ぶデスクの合間にうずくまり、何をするでもなく無気力に虚空を眺めているだけだ。


「このまま死んじゃうのかな……」

 すでに枯れたと思っていたはずの涙が、また溢れては視界を歪ませる。


 その時、外から人の声が聞こえた。


 数日ぶりに聞いた人の声に期待した寿美子は、近くの窓に駆け寄ると、ガラスに顔を押し付けんばかりの勢いで必死に人影を探した。


 しかし、そこから見えた光景は寿美子が期待していたものとは違う。

 ゾンビ発生以来、何度も目にしてきた忌まわしい情景だった。


 ゾンビから必死に逃げ惑う幾人かの男女。

 大きいバックパックを背負った男を守るように、バットなどの武器を持った数人が、後ろから迫るゾンビに抵抗しているところだった。


 きっと物資を探しに行った際にゾンビに見つかったのだろう。

 ゾンビの動きは緩慢だが、集団に囲まれると危険だ。

 籠城している間に、同じような状況を寿美子は何回か目撃していた。


 だからといって寿美子に出来ることは何もなく、ただ息を飲み、彼らの運命を静かに見守るほかない。


 そして、大体の結果は同じであった。


 彼らは抵抗も虚しくアスファルトに押し倒されると、悲鳴と共にゾンビの海にへと消えた。

 まるで肉食獣のように彼らを貪ったゾンビたちは、暫くすると満足したのか、ポツポツと離れていく。


 残されたのはアスファルトを血に染め、惨たらしく地に伏せる人々。

 やがて血にまみれた彼らは緩慢な動きで立ち上がる。口からは苦しむような低いうめき声が漏れ、白く濁った目が虚空を見つめていた。

 そして不気味に揺れる体を引きずり、やがてゾンビの群れへと消えて行く。


 ──彼らはもう元の人間ではなかった。


 何もできなかった自分に対していたたまれない気持ちになる。

 何度見ようともこれだけは慣れなかった。


 彼らがいなくなった後もしばらく窓の様子を眺めていたが、ふいに足の力が抜け、床にへたり込む。

 立ち上がろうにも思うように体に力も入らず、意識が朦朧とし始めた。


 ◇◇◇


「あれ……?」

 寿美子の乾いた声が風に流される。


 空腹のせいなのか、それとも精神が限界に達しているのか──須美子は勤め先のビルの屋上に立っていることに気づく。全くの無意識だった。


 ふと動いた拍子に少しずれた眼鏡を直しながら、寿美子は空を見上げた。眩しい日差しに思わず目を細める。

 照りつける太陽と、もくもくと浮かぶ白い入道雲。まさに夏そのものの景色だ。

 しかし、その明るい空とは対照的に、寿美子の心はどこまでも陰鬱だった。


 寿美子のすぐ足元。

 その眼下に広がる渋谷のスクランブル交差点では大量の死者の群れ──ゾンビが蠢いていた。


 見渡す限り、生者の姿はどこにもない。ただ、交差点を埋め尽くす腐った影と、死の匂い充満している。

 日本屈指の大都会『渋谷』は、ゾンビが支配する場所と成り果てていた。


 こんな状況ではもう誰も助けになど来ないだろう。

 寿美子は何もかも諦めたような目で、黒く波打つ海原のようなゾンビの群れを眺め続ける。


 スーツを着たゾンビ、制服を着た学生のゾンビ、流行のファションに身を包んだゾンビ。

 色々な人々が入り混じり、何を言うでもなくただ歩いている。


 そんなゾンビたちが何を考えているのかはわからない。

 だが、少なくとも自分のようにウジウジと悩んでいるようには見えなかった。


 争うこともなく、他人を嘲ることもなく、緩慢に渋谷の交差点を練り歩くその姿。

 寿美子の目には皮肉にもどこか平和的に映った。


 自分もあの群れの一部になれば、この苦しみや迷いから解放されるのだろうか――。

 疲れ果てた頭に、そんな考えがぼんやりと浮かぶ。


 思えば、会社では何もかもが中途半端だった。雑用ばかり押し付けられて、それでも文句ひとつ言えず、ただ頷くだけ。期待なんてされるわけがない。誰かに褒められることなんて一度もなかった。


 そして気づけば、ひとり。

 逃げ遅れ、取り残され、助けなんて来る気配もない。この結果だって当然だ。


 自分なんて、誰にとっても必要じゃない。むしろいない方が楽だろう。何の価値もない人間がどうなったって、世界には何の影響もない。


 誰からも救いの手はなく、なんとか就職先を見つけられたものの、華やかな出会いや刺激的な生活を夢見ていた自分の期待は、見事に打ち砕かれた。


 内向的な性格のせいか、人と打ち解けるのも難しく、気づけば休日は一人で部屋に閉じこもる日々が続いていた。

 そのせいか、自炊の腕が上がったことが唯一の取り柄だ。


 慣れない都会での一人暮らしにも、ようやく少しずつ慣れてきたはずだった。

 でも、どこか心の奥にぽっかりと穴が開いているような感覚は消えない。


 すれ違う人たちの速い足取りや、冷たい空気に飲み込まれ、ここは自分がいるべき場所ではないのではと思うこともあった。


 夜になると、小さなアパートの部屋に帰り、明かりのついた窓をぼんやり眺める。どの部屋にも人がいて、それぞれの生活があるはずなのに、自分だけが都会の流れに取り残されているような孤独感が押し寄せた。


 夢見た都会の生活と、現実のギャップに悩みながらも、日々をなんとかやり過ごしていた。


「どうせ心配してくれるような友達や恋人も居ないし」

 このまま無理に生きていても意味なんてない。ネガティブな思考の波に飲まれる。

 誰にも必要とされない自分、無価値な自分──そんな考えがぐるぐると頭を巡り、心を蝕んでいく。


「このまま消えてしまえば楽になるのかな……」


 死者の群れへと消えた彼らの姿を思い出して、寿美子は大きく深呼吸をする。


 もう終わらせてしまおう――だが、どうしても最後の一歩が踏み出せない。

 高鳴る鼓動を抑え込むように、彼女はずれたメガネを静かに押し上げた。


 寿美子は生きる勇気も、終わらせる勇気もなく、ただ屋上で風に吹かれながら、地上を埋め尽くすゾンビの群れを見下ろしていた。

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