第38話 骨壺

 ふと気が付くと車は動いていた。もぞもぞ動いて起き上がろうとすると、西澤が運転しながら声をかけた。

「そのまま寝ていなさい。今火葬場に向かっているんだが、君がお母さんのお骨と対面できるのは、大体夜の六時半頃らしいから、それまではどうせ立ち会えないし、早く行ってもしょうがない。近くで何か食べよう。君も私も昼を食べ損ねているから、何かお腹に入れないと、本当に倒れそうだ」

「あんまり食欲ないです」

「君にしちゃ珍しいが、今は仕方がないな。でも食べなきゃだめだ。何でもいいからお腹に入れなさい」

 葵の返事を待たず、西澤は車を見えて来た道路沿いのファミレスの駐車場に入れた。葵も暫く寝たので、少し元気を取り戻し店まで何とか歩けた。店内はガラガラだった。二人は入り口で手をアルコール消毒すると、少し他から離れた席に座った。

 ふと葵は最初に西澤とファミレスで食事した時の事を思い出した。

(あの頃は気楽で楽しかったな)

 二人はメニューを取り上げると、何を食べるか考え始めた。葵は最初チョコレートパフェだけ食べようかと思ったが、メニューを見ているうちに少しお腹がすいて来て、エビとほうれん草のグラタンとチョコパフェを頼んだ。西澤は今日はハンバーグステーキとチキンとソーセージの乗っている三種盛り合わせプレートを頼んでいる。ライスは大盛りだ。前の時の葵みたいだった。昼食抜きで働いたので、余程空腹なのだろう。

 西澤は、葵のためにドリンクバーのミックスジュースを取ってきてくれた。葵は嬉しそうに受け取ると一気にそれを飲んだ。気が付かなかったが、喉がすごく乾いていた。

 やっぱり先生といるとすごく気持ちが落ち着く。不思議と辛い思いが和らいでいく。

「私どのぐらい寝てたのかな?」

 葵が訊ねた。

「多分二時間ぐらいかな。余程疲れていたんだろう。鎮目先生との引継ぎや、君のお母さんの事後手続きに思ったより時間がかかったし、その後の予定など把握するのに手間取ったから、私が車に戻ったのは君を車に連れて行ってから一時間半近く経っていたのに、車を発進させてからも、君は全く気付かず寝ていたからね。大丈夫かい?」 

「はい、なんとか……」

 うつむきがちに答えた葵はひどく憔悴していて、あまり大丈夫そうにも見えなかった。でも前のように消えて行ってしまいそうな危うさは、不思議と感じられなかった。

「すみません。先生の言ってた奥の手って、ご自分があそこを手伝うのを交換条件にすることだったんですね。せっかくの休日なのに……」

「いいんだ。もし君がお母さんの臨終に立ち会えなかったら、それはそれで心に悔いが残っただろう? それにどうせあそこで待っていたって、何もすることがなかったんだから」

「先生は母の事、何も聞かないんですね」

「そうだな。君を見ていると、お母さんのことを話すのがひどく辛そうなのは、ある程度察しがつくからね。今聞いても君を疲れさせるだけだろうし、とにかく今は少しでも体力を温存しておかないと」

「鎮目先生は何も話さなかったんですか?」

「彼とは殆ど患者の事以外話す暇がなかった。本当に人手が足りなかったし、彼も私も患者の治療にかかりきりだったからね。

 体の弱い入所者の介護をする人は、医療関係者と同じくらいワクチンを優先して打つべきだな。PCR検査ももっと頻繁ひんぱんにやったほうがいい。入所者は隔離されているようなものなんだから、むしろそちらより介護者の方がワクチンの必要度は高い気がする。介護者に一人でも感染者が出ると、施設中があっという間にクラスターと化すし、一旦感染が広がれば、もうどうしようもない。地獄だよ」

「そうですね。日本はなぜこうもPCR検査とか、遅れているんですかね?」

「まあ、SARS(重症急性呼吸器症候群)もMERS(中東呼吸器症候群)も入ってこなかったから、未知の感染症に対する備えが全然できていなかったんだろう。何もかも後手後手に回っているから、医療関係者としては歯痒いの一言だが、こればっかりは最前線にいても手の打ちようがない。政治の方に踏ん張ってもらわない事にはどうしようもないからな」

「なんだか悔しいですね。日本は科学先進国だとばかり思っていたのに、いつの間にか後進国になっていたみたいで」

「そうだな」

 その時料理が運ばれてきたので、二人はコロナ談議をやめて食べることに専念した。西澤は目の前のものを片端からモリモリ食べていたが、葵はどちらかというとゆっくりしみじみとグラタンを噛み締めていた。

「どうした、食べられそうもないか?」

「いえ、そうじゃなくて娑婆しゃばに出られたんだなあと思って。何となく病院食じゃないもの食べるのは久しぶりだから」

「なるほど。まあせいぜい噛み締めてくれ」

 二人はそれぞれの思いを胸に、料理を平らげていった。今日は西澤も食後のコーヒーにアップルパイを付け、葵はチョコパフェを最後までちゃんと食べた。

 西澤は葵の食欲にホッとしたようで、

「うん、ちゃんと食べられたな。よかった」

 と言った。

 二人は食べ終わると、時間を見計らって火葬場に向かった。

 建物入り口奥の受付で名前を告げると、専用の小部屋に案内された。暫く待つと職員の人が骨壺を入れた箱を持って部屋に現れた。名前の確認をすると簡単な事務手続きの後、あっさり骨壺を手渡してくれた。儀式めいたことは何もなかった。

 葵は骨壺の入った箱の意外な重さに、一瞬箱を取り落としてしまいそうになった。施設の人がとっさに持ち直してくれたので落とさなかったが、筋肉が極端に弱くなっているなと感じながらその奥で、これを落として粉々にしてしまっていたら、いったいどんな気がしただろうとふと思った。

 母親はあの自殺未遂の後、開頭手術の結果一命はとりとめたものの、結局心は自分でこしらえ上げた夢想の世界の夫のもとに行ってしまい、二十年近くその中で過ごしてきたのだ。そしてその心の中には二度と葵の入る場所はなかった。

 記憶がごく限られた容量しか残されていないと、結局人は本当に心に掛かっていることだけ覚えていられるのかもしれない。夫に捨てられたというのに、母親の夫に対する執着は、何物にも代えがたいほど強かったということなのか。

 だが考えてみれば、あれだけ恋い焦がれた夫と、夢想の世界の中とは言え長い間一緒に過ごしてきたのだから、いっそあれはあれで本人は満足だったのかもしれない。

 葵は母親に対してずっと自責の念を感じながら生きてきた。

 だがそれと愛情とは別問題だ。自殺前には娘の存在を嫌悪するような言葉を浴びせ続け、手術後は全く娘として認識しなくなってしまった母親を、二十年もの長い間愛し続けることは、しょせん無理というものだった。どんなに努力しても愛は二度と元へは戻らなかった。

またそうしなければ、葵自身生きてこられなかったのだ。


 西澤にさあ行こうと促され、言われるままに歩き出しながら、どこへ?……とぼんやり思った。もちろん自分のアパートに帰るしか行く所はないのだが、何だか今晩はどうしてもあの殺風景な狭い部屋に一人、母親のお骨と共に帰りたくはなかった。

(智子の所に泊めてもらおうかな)

 と葵は何となく思った。一人になるのがひどく怖かったし、また疲れてもいた。でも本当は西澤と一緒にいたいのだ。そんな事頼めっこないのに……

 西澤は重い骨壺を持ってやり、葵を支えるようにして、車までゆっくり歩いていった。葵は倒れ込むように助手席に座ると、ぐったりとシートにもたれた。西澤は運転席に回ると、カーナビをセットした。

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