第二章 - 寒い夜 -
シュトがタイカと出会い、その名を得てまだひと月も経たない頃であった。
最初に訪れた村で幸いにも旅装は調達できた。今にして思えば、その衣服を調達する為にタイカはそれなりに蓄えを費やしたはずだが、当時のシュトはそんなこと考えもしなかった。
その村を出て数日。
その日の夜も雲の厚い、焚き火以外の光がない暗夜だった。
焚き火の中には精霊がいる。それがシュトには心強かった。しかし周囲の闇が押し包んでいるように迫ってくる気がして、ふと焚き火から目を離した瞬間、背筋が震えた。
「寒いのかい?」
対面に座るタイカが尋ねてくる。今よりもさらに優しく、まるで壊れものを扱うようような、気遣いを含んだ声音だった。
「そんなことは、ない」
シュトは目を伏せ、外套を体に巻きつけた。この青年は自分を拾ってくれた。だけどまだ、油断できない。
自分を攫った男たちとは、どこか違う。精霊もこの青年に敵意は向けていない。
それでも、この先心変わりしないとも限らないのだ。
不意に音が鳴った。
甲高い音が幾重にも響く。シュトは腰を浮かした。足元の、火のついていない
「風の音だね」
タイカが、空を見上げながら言う。
「風で葉や枝が擦れる音。あるいは木々の隙間を吹き抜ける時の音。そういった音が重なっているんだ」
理屈は分かった。だけど、恐怖は消えない。音が響き、重なる度にシュトの体に凍りつくような悪寒が走る。体を縮こませる。掌に爪が食い込むほどに外套を握り締める。
その様子をタイカが見ている。
怪訝そうなその顔が、恨めしい。目が合う。少し迷ったような表情をした後、タイカが腕を上げた。継ぎ接ぎだらけの外套の裾が
「おいで」
何を言ってるのか分からなかった。
「寒いのだろう。その外套だけだと、確かに慣れていないと辛いだろうね。この中なら、暖かいと思うよ」
違う、音が。そうシュトは言いかけ、止めた。風の音が怖いなんて思われなくない。
それに悪寒があるのは事実だ。
シュトは黙って、タイカの方に近寄った。隣に座る。
タイカが上から外套をかけ、そっと引き寄せてきた。外套が
それに、暖かい。
タイカの体温を感じる。その暖かさと、近くの焚き火の弾ける音。そして遠くの風の音がシュトの眠りを誘った。瞼が重くなる。体が傾く。頭が、タイカの脇あたり当たった気がするが、確認するより先に意識が薄らぎ、途絶えた。
瞼を開けた。
暖かい感触。目の前の細い隙間から光が差し込んでくる。
はっとして、シュトは立ち上がった。
朝だった。日は昇り切っておらず、空の一部はまだ暗い。朝の、肌寒い空が首筋を撫でた。
「まだ、寝ててもよかったんだよ」
隣のタイカが、座ったまま言った。タイカの背は高い。立ち尽くしているシュトと、目線はほとんど変わらなかった。
焚き火を見る。その火の中には、確かにシュトの精霊の存在を感じる。
火の勢いは衰えていない。焚き火に精霊がいる夜は、シュトも交代で起きて枯れ枝を焚べる役割を果たしてたが、昨晩は寝入ってしまったようだ。
「どうして」
シュトはタイカを睨んだ。
「どうして起こしてくれなかったの?」
「疲れていたみたいだから」
タイカは戸惑い気味に答えた。
「連日、短い時間で起きるような浅い眠りでは君の体が持たないよ」
「そんなこと」
「君の精霊も、そんなことは望んでいない」
タイカの声に応えるように、焚き火が揺らめいた。シュトを慮る、そんな不安な感情が胸に染みた。
「何かあれば、精霊も教えてくれるだろう。君が旅に慣れてきてから、交代で火の番をしよう」
ならその間は、タイカが夜を徹して火を守ると言うのか。
それこそ旅慣れていようと大人だろうと身が持たない。
「それは大丈夫だよ。周囲に気配を感じたらすぐに起きる程度の睡眠を取る術を身につけている」
それに火の維持や敵の存在は、精霊も教えてくれるからとタイカは微笑んだ。
精霊が教えてくれる。その言葉にシュトの気持ちは揺らいだ。それなら安心だし、精霊に心配も掛けたくない。
「君が精霊を心配し、信頼している気持ちは分かる」
タイカが穏やかな、宥めるような口調で言葉を続けた。
「まだ私たちは知り合ったばかりだし、精霊ほどの信頼など抱けないのは当然だろう。でも、少しずつでも信じてもらえると、嬉しいな」
表情は変わらず穏やかなままだったが、少し声の調子が落ちていた。
悲しませてしまったのかな。そうシュトは思った。
このひとは身寄りのないシュトを助けてくれた。ふたりきりの旅だ。精霊の守りがあるとはいえ、シュトをどうにかしようと思うなら、幾らでも機会があったはずだ。
「分かった」
ちゃんと休む。シュトが答える。
タイカが顔を上げ、微笑んだ。
「まずはもう少し休んだ方がいい。その間に、朝食の用意はしておくから」
空が段々と明るくなってきていた。
風の音も、いつの間にか止んでいた。
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