第30話 故意患い
薄暗い廊下に設置されている新品同様の綺麗で安価な椅子に、項垂れるように腰掛けるマリアの目の前に見えるのは、検視解剖室という小さな看板だった。ここは軍が所有する軍病院の中でも滅多に使われることのない死体解剖の部屋だった。なぜ彼女がこの部屋の前にいるのかといえば、ここに運び込まれた幼馴染の検視結果を待っていたからだ。
マリアは待っていた。というよりも、大切な人を殺害したという重荷を拭えずに立ち上がる勇気を失ってしまったというのが正しいのだろう。そう、彼女の最愛の親友は死亡した。紛うことなき彼女の手によってその命を絶たれてしまった。仕方のないことだ。世界を救おうとする彼女に対して、世界を滅ぼしてでも彼女を救おうとした白伊の行き違いは致命的なまでのすれ違いだったのだから。
仕方がなかった。そう心に決めたはずなのに、マリアの心には深く大きい傷が残ってしまう。そんな中途半端な自分を許せない彼女は、とても世界を救える英雄には見えそうもない。
「君のやったことは正しいことだ。ただし、正解ではなかった。だから君は悩んでいるんだろう?」
どれだけ1人でいただろう。気がつけばマリアの前に1人の王が立っていた。
圷だった。彼は少し悲しそうな顔をしてマリアを見下ろしていた。見上げた彼女は彼を見て何も思えない。泣き腫らした目は前を霞ませる。
正しい行いだった。しかし正解ではない。世界を救うという目的のために白伊を殺害するのは正しいことだ。その世界の中にはマリアの大切な人も含まれている。彼女の目的はただ世界を救うのではない。全人類とこの大地を丸ごと救うことこそが彼女の真の目的だ。ゆえに大切な人を犠牲にしなければならなかった彼女の選択は正解ではなかった。
「私はどうすれば良かったんだろうね」
「さあ。僕は君が彼女をどのようにして殺害したのかを知らない。その
「圷くんはこういう時、優しくないんだね……。ううん。私が簡単に逃げられる方法を探してるだけだよね。わかってるんだよ。私がもっとちゃんとしてたらこんなことにはならなかったって。皇くんのように頭が良ければ、もっと早くこのことに気がついて、もっと速く止められたはずなんだって。だからこれは私への罰なんだよ。このままじゃ誰も、何も守れないぞっていう罰」
何度泣いたかわからない。何度目かの涙にマリアは再び力を失ったように項垂れる。静かな廊下に嗚咽が響く。そばにいるのは圷だけで他にはいない。その彼ですら優しい言葉をかけるそぶりはない。事実と正義しか見えない彼にそれを乞うことがそもそも間違いだったのだ。否。彼女にとっては間違いではない。彼女は自分が間違っていると言ってくれる人を求めていたのだ。そして、求められた言葉は今まさに与えられた。
マリアは罪を犯した。言い逃れのできないほどの罪を犯してしまった。その代償が今回のように大切な人を失うきっかけとなったのだ。これは悲しみの涙ではない。悔しさから来る涙だ。悔しい。自分が初めから全てを疑って、慎重に物事に取り組んでいればわかったはずなのに、それができなかった。やろうとさえしなかった。己の力と他人を信じすぎてしまったのだ。
泣き崩れるマリアの隣に圷がそっと腰掛ける。上を向いたまま圷は昔を思い出すように語り始めた。
「僕も昔そういう間違いを犯したことがある。10年前だ。目の前で化け物へと変じた師匠を、命を賭して守った人々を殺していく怪物になった師匠を止めることができなかった」
「それって”魔王生誕祭”の日のこと?」
「ああ。僕もあの日、少し遅れてあの場所に行ったんだ。そこで怪物と化した師匠を見た。僕の”正義”の”アンサーズブック”ならば、師匠をもっと楽に死なせてあげられたものを……。僕はあの日逃げ出したんだ。化け物になった師匠を殺すことができないと、正義の心を見捨ててしまった。そして、兄弟弟子である皇悠人が師匠を喰らい尽くす形で物事は終わった」
「後悔した?」
「もちろん。自分を腐らせてしまうほどに後悔した。あの日、僕が正義を取り戻せていれば全てを救えたはずなのに、逃げ出したせいで兄弟弟子は冤罪で10年も牢獄へ封印された。後悔しないはずがない。僕も彼が嫌いだ。彼もそうだろう。けれど……それでも兄弟弟子なんだ。彼だけが罰を受ける必要はなかったはずなんだ」
師匠を見殺しにしたも同然の出来事を後悔していた圷は、その時の経験をマリアに打ち明けた。大切な人を失う怖さと悔しさを彼もまた知っていたのだ。だからこそ、優しい言葉を選ぶことはない。今の彼女に優しい言葉は毒になってしまうことを理解していたから。
彼ら彼女らはこの世の地獄を知っている。それはとても残酷で、冷徹で、残忍なものだった。大切だった人を歪めてしまうほど地獄というものは苛烈な環境なのだ。終世紀とはそういうものだ。誰も彼もが狂ってしまう。それが正義のためか、はたまた愛のせいなのかはわからない。もしくは欲望の暴走だろうか。狂ってしまった人ほど恐ろしいものはない。
白伊は狂ってしまったのだ。マリアへの愛情がそうさせてしまった。マリアの一挙手一投足が美しすぎて視野を狭めてしまったのだ。夢中になりすぎた人間は冷静さを見失う。冷静でなくなった人間はやがて行きすぎた行動を余儀なくする。それが今回の事件の全貌だ。
「彼女は君の腕の中で逝ったのだろう?」
「うん」
「ならば、本望だっただろう。君は少なくとも10年前の僕ができなかったことをやったんだ。ただの間違いではない。次に繋げられるミスをしただけ。彼女に与えられる最大の慈悲は、君の手で逝かせてあげることだけだったのだから」
「そう……なのかな。他にできることはなかったのかな。私は、キョウカを殺すことしかできなかったのかな……?」
「今回はそうだろう。だが、次回も同じことがあればそうではない。そうならないように学べばいい。人は誰だって間違えるというが、間違えないように生きることが真に大切なことだ。間違えてはならないと心に留めることが正しさだ。君は優しすぎる。僕流でいえば正すぎるんだ。君は僕ではない。正しくなければ力を使えない僕のように、間違った正義を持とうとしないでくれ。間違いは間違いであると言い切れるそんな正しさを持つべきだ」
正しさはいつ如何なる時も正しいわけではない。圷はその能力上、全てを正しいと捻じ曲げてしまう。だから本当の正しさを持たなければならない。だが、マリアはそうでない。少なくとも”支配王”や”魔女王”としての彼女を知らない彼から見れば間違ってもいい人間だ。間違った正しさを真の意味で正しさを提唱できる存在である。
それを忘れないで欲しいのだと、圷は言う。優しすぎれば、この世界では容易に狂ってしまうから。狂ってしまえば、今度は彼の極光の矛先が向かうのは間違いなくマリアになってしまうから。彼にとって正しさを取り戻させてもらった彼女をその手にかけるのは10年前のあの日とは比べ物にならないほどの後悔を生んでしまうから。
検視解剖室の電気が消える。中から検査士が出てきた。その手には保存媒体が握られている。おそらくは解剖結果だろう。それを待合席で待っていたマリアに手渡すと何も言わずに去っていった。残された2人は保存媒体を誰に渡すかを理解しているようで、しかしすぐには行く気とはならなかった。
「もう少し……話をしててもいいかな?」
「構わないだろう。今日中に提出すれば問題はないはずだ」
「そっか。そうだよね。……じゃあさ、圷くんの師匠のお話をもう少し聞いてもいい?」
「ああ。それを話すには僕の昔話を挟まなければならないから、少し長くなると思うが。そうだね。昔――」
2人は話を始める。ほんのわずかな時間稼ぎを。
寂しさを紛らわすように始められた会話に、マリアの心はちょっとだけ安心感を得ることができた。
今はこれでいい。これがいいのだ、と。忘れぬように記憶から消していく。ぬくもりだけは忘れぬように。
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