Ⅲ・一年前の春(下)
二日月湖に面した隠居屋敷は、その名のとおり、もともとは退位した王族や、未婚のままの姫の為に建てられた館だ。古雅な趣きのある屋敷は広く、日当たりのいい庭園も二つあり、暮らし向きにも何の不自由もない。決められた範囲は自由に行動できるのだから、「文句は云えませんね」とアリステラさまは屋敷を囲む木立を眺め、いつも健気に振舞われる。
「お気の毒に」
監獄に入れられるよりはずっとよいとはいえ、長年この処遇に甘んじているアリステラ姫については、国の内部からだけでなく各国からの批難や同情の声も高い。マクセンス王とてもそれを無視できず、年に一度は領内限定の一泊旅行、さらに年に数回の日帰りの遠出を許し、教師や衣裳代も与えて、王家の子女としての体面を人質の姫に保たせた。とはいえ、それらの外出といえば、武装兵に囲まれた物々しいものではあったが。
アリステラ姫が隠居屋敷に封じられた彗星の年、隠居屋敷の外ではあらゆることが吹き荒れていた。実の父である霊視王を追い出してマクセンス新王が即位した顛末からして大荒れだったが、なかでも大きな事件といえば、長年にわたり霊視王をたぶらかしていた怪僧の首をマクセンス王が自身のその剣で刎ねたこと。そして、マクセンス王によって王座から引きずり落とされた先王が、軟禁されていた別荘から脱走し、后である奥方と共に奥方の出身国である南の国に亡命してしまったことだった。
「父上が消えただと」
先王の復権を求める旧派もまだ勢いが盛んだった頃のことで、あのままでいると先王は実の息子によって暗殺されかねないところまできていたから、それを懼れた先王は別荘を抜け出し、河を下って海路から南の国に逃げてしまったのだ。
「母上の国に行ったのなら、放っておけ。そこで余生を送るがいい、老いぼれじじい」
マクセンス新王は厭味を云ったが、その余裕も、ある事実が明るみになると一瞬で吹き飛んだ。
カルティウシア姫は何処だ。
俺は北国の花を植えてある花壇の土を触って湿り具合を確かめた。水はまだ遣らなくてもよさそうだ。順調に育っている翡翠色の葉を眺め、指折り花が咲く日の予測を立てていると、森の樹々の向こうから夢のように白い馬がやってきた。銀色に見えるほどの見事な白馬だ。
白馬にまたがった男装の少女は春の光を浴びながら真っ直ぐに裏庭にいる俺の前まで馬を歩ませてきた。
「やあ」
清んだ声で少女は俺に呼びかけた。その姿は青空から降りてきた春の王子さまのようだった。
昨日一日、街道で出逢った少女の正体に考えを巡らせていた俺は、すぐに花壇の縁から立ち上がり、頭を下げて貴人への挨拶をした。
「昨日は失礼いたしました」
「こちらにおいで。もっと近くに」
男装の少女はにこりと笑った。おいでと簡単に云うが、隠居屋敷の周囲は柵こそ低い代わりに、護衛、兼、監視の兵士が何重にも取り囲んでいて、出入りにはすこぶる厳しいのだ。その検問を騎乗のままで通り抜けてきたということは、この少女にはそれが許されているということだ。
少女の乗る白馬の後ろには栗毛の馬を連れた従者が昨日と同じように控えていた。従者は一人増えて、二人になっていた。
「あれは、ザジ。右にいるのが昨日のコロンバノ。侍女のラターシャは今日は城においてきた」
男装の少女は手綱を片手にまとめて、耳にかかった髪を払った。
「スカイは馬に乗れるの」
俺の名を知っていた。俺は放心したまま、「はい。乗れます」と応えた。
「では行こう」
何処に。
問い返す隙を与えることなく、ザジとコロンバノが俺の前に栗毛の馬を連れてきてしまった。
従者のザジが馬の轡を取って、ゆっくりとその場を回り、俺の乗馬があぶなげなく、姿勢が安定していることを確かめた。俺は馬鞍の上から身を屈めてザジに小声で訊いてみた。
「お訊ねしますが、あの方は」
それがきこえたのか、白馬に跨った男装の美少女は、はっきりと名乗った。
「わたしはカルティウスシア」
その可能性を濃厚に疑ってはいたが、それでもやはり俺は愕いた。カルティウスシア。
「マクセンス王の妹姫。カルティウスシア王女」
「うん」
「化石の国にお戻りだったのですね。カルティウスシア姫」
街道で逢った男装の少女の正体は、マクセンス王の歳の離れた妹、カルティウスシア姫だった。
南の国に亡命した霊視王には三人の御子がいた。長子は落馬事故で亡くなった第一王子、そのすぐ下に第二王子。これが現王のマクセンス。さらにその下に、上の二人の王子とかなり歳が開いて妹姫がいたのだ。だが、その妹君は幼い頃に化石の国から姿を消していた。
「カルティウスシア姫は何処だ」
誘拐ではないが、ある意味それは誘拐も同然だった。
「妹は。妹のカルティウスシアの姿が見えぬぞ」
「マクセンス王。どうやら、先王夫妻が奥方さまの国に連れて行ってしまったようです」
「何だと」
カルティウスシア姫は先王夫妻が南の国に亡命する際、無断で無理やり連れ去ってしまったのだ。二人の王子の後に生まれたカルティウスシア姫は、遅くなって生まれた子、しかも初めての姫ということで、先王夫妻から大層可愛がられた。それもあって、亡命を決意した先王夫妻は最初から幼いカルティウスシア姫も一緒に連れて行こうと決めていたのだろう。
「取り戻せ。妹を取り戻すのだ」
マクセンス王はすぐに追手を差し向けたが、一歩遅く、幼い姫を連れた先王夫妻は快速船で南の国に逃げ込んでしまった後だった。王族が乗る船を囮として海の方々に放って追手を攪乱させるという、念には念を入れた亡命だった。
その後、再三にわたってマクセンス王は使者を立て、カルティウスシア姫の返還を南の国に求めたのだが、南の国に亡命した先王からの返答はいつも同じで、息子に奪われた王位の復権が条件だった。睨み合いが続いた。
事態が大きく動いたのは半年前。亡命先の南の国で、霊視王が客死したのだ。病死だった。
「それで、母国に戻ってこられたのですね」
「そう。母上とお別れするのは辛かったが、わたしが帰国すると決めると、それに賛成して下さった」
俺は、男装の姫君をしげしげと眺めた。ながらく領民にとっては幻の姫君だったカルティウスシア姫。それにしても何故、男装しているのだろう。
その答えはカルティウスシア姫の方から教えてくれた。
「南の国にいる頃、誘拐されかけたことがよくあったから」
さらりと姫は打ち明けた。
「誘拐を試みたのはマクセンス兄上の手の者だ。それで、父上と母上は背格好の似通った女児を身代わりとして立て、わたしには少年のふりをさせていたのだ。どの娘も化石の国に攫われていき、王女ではないと分かると、南の国に送り返されてきた」
その時のことを想い出すのか、カルティウスシア姫は笑った。
俺を乗せた栗毛の馬と、カルティウスシア姫の白馬は、誰にも止め立てされることなく検問を通過して小径を横切り、森の中へと入っていった。
俺は後にしてきた屋敷を振り返った。
「姫さま。黙って出てきてしまいましたので、屋敷では俺を探しているかもしれません」
「コロンバノに伝言させよう」
姫君のひとことで、コロンバノが引き返していった。
栗毛の馬の癖をつかんできた頃、俺はべつのことで不安になってきた。何処まで行くのだろう。
するとほどなくして森の中の目的地に到着した。二日月湖から星が一つ飛んだような小さな泉が森の中にあって、周囲には花が咲き乱れている。こんな泉があったとは。
「ああ、スカイとようやく此処に来ることができた」
樹々のつくる天蓋から筋状に明るい光が差し込んでいる。感慨深そうにカルティウスシア姫は小さな泉や頭上の梢を仰いだ。
「この花は、この泉の周りにしか咲いていない花で、珍しいそうだ」
確かに見慣れぬ花が咲いている。しかしそんなことより、少し前の姫の言葉のほうが気にかかった。
スカイとようやく此処に来ることができた。姫はそう云ったのだ。
どういう意味なのだろう。俺の困惑も知らず、カルティウスシア姫は乗馬鞭の先を花々に向けた。
「この花を隠居屋敷のアリステラ姫に差し上げたい。スカイ、摘んで」
「あ、はい」
従者ザジに栗毛の馬を預け、俺はザジから短剣を借りると、云われたとおりに花を摘んだ。日蔭に群生する花は陰りを含んだ美しい色をしていて、アリステラさまに似つかわしく想われた。
集めた花の根元を一本の茎で縛って束にしていると、カルティウスシア姫が俺に「歳は幾つ」と訊いた。
「俺ですか」
「そう」
「十八になります」
「わたしの三つ上だ」
男装の姫君は、「そうだったのか」と、またしても謎なことを呟いた。
「あの。カルティウスシア姫」
「カティアと呼んで。昔のように」
またまた微妙に変なことを云う姫さまだ。おそらく、俺と誰かを間違えているのだろう。
俺はそれは気にしないことにした。代わりに、
「カルティウスシアさま。隠居屋敷にご一緒に入って、アリステラさまに帰国のご挨拶をされてはいかがですか」と頼んでみた。直行で警備網を突破してきたくらいなのだから、そちらも叶うと思ったのだ。
「せっかくですから、この花束は、姫さまからアリステラさまにお渡しになったらいかがですか。幼い頃のことでご記憶にはないかもしれませんが、アリステラさまは、カルティウスシアさまにとっても、一度は義姉だった方です」
「懐かしいアリステラ姫。もちろん、憶えている」
カルティウスシア姫は馬の上から頷いた。
「遠い北の国から亡き大兄上に嫁いできたあの方は、わたしにもとても優しくしてくれた」
しかし、と姫は首をふった。
「マクセンス兄上の顔も立てて差し上げなければ」
馬から降りた俺は、隠居屋敷の前で花束を片手に提げて、カルティウスシア姫にもう一度頼んだ。
「少しの間こちらでお待ち下さい。あの窓にアリステラさまをお連れします。窓ごしに、お顔だけでも」
「ありがとう。スカイ」
白馬の首を撫でながらカルティウスシア姫は、「でもやはり、今日のところは止めておく」と残念そうにした。続けて男装の姫君は、
「でもこのままにはしないつもりだ」
少年の仕草で鞭を片手に、力強く隠居屋敷を睨んだ。午後の太陽が姫の白馬を神馬のように耀かせていた。
「この十年、アリステラ姫のお気の毒な境遇については、母上の母国でも伝えきいていた。まずは帰国の挨拶をお許しいただけるように兄上に願ってみる。そのくらいは通るだろう」
「ぜひ」
俺は言葉に力をこめた。
「ぜひそのようになさって下さい、カルティウスシア姫」
「カティアと」
「カティアさま」
その名を口にすると、なんとなく懐かしい気がした。それが何故かは俺には分からなかったが。
》Ⅳ
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