Ⅴ・回想の続き(後)
イグナツィオ・リュ・ゼデミネンは南の国の名門貴族だ。南国のみならず、はるか遠い昔は大陸一帯をゼデミネン一族が支配していた。
元々は北欧の一部族から始まり、海賊として鳴らしながら次第に南下して、今よりももっと小さな国が乱立していた陸地を海からやってきたゼデミネン一族が次々と併合して制覇していった。
現在は客人待遇で南の国で存続しているのみだが、その財力と歴史の古さをもって各国から敬われている名家中の名家だ。そのゼデミネン家の御曹司、青年貴族イグナツィオが南国からの臨時特務大使として化石の国に現れたのは、アリステラ姫が隠居屋敷に封じられてすぐのこと、夜空に尾をひく星影が現れた、激動の彗星の年のことだった。
「南の国の商隊が山賊に襲われております。貴国の山を根城としている賊を討伐していただきたく」
「まずは先王夫妻が南に連れ去ったわが妹カルティウスシアをお返しあれ」
「山賊討伐の負担金の金子はこれに」
「持ち帰られよ」
埒のあかないやりとりが続く中、大胆にも若きイグナツィオは北の国の人質アリステラ姫との面会をマクセンス新王に願い出た。
「認められぬ」
マクセンス王に一蹴されたが、イグナツィオ・リュ・ゼデミネンは諦めなかった。長い歴史の中で、北の国からは何人もの姫がゼデミネン家に嫁いでいた。もともと、北方を源流とするゼデミネン家から分岐したのが今の北の国の王家の祖なのだ。したがってゼデミネン家と、アリステラ姫の実家の北の国の王家は親戚のようなものだった。その縁故をイグナツィオは前面に打ち出した。
「せめて、アリステラ姫の生死の確認だけでも」
ほぼ同じ歳の王と貴公子はばちばちと火花を散らし合った。
「まことに姫はご存命であるのか。それとも巷の噂のように極秘のうちに獄内で処刑されているのか否か。霊視王の後継ぎであればあらぬ疑いも増すというもの。確かめずには帰れません」
「口の利き方に気をつけられよ」
「なにかご不快なことを申し上げましたか」
「北の国から頼まれたのであろう」
「どのようにお取りになられても構いません。安否の確認が出来ぬ時には、既に殺されたものとして諸外国に早馬を飛ばします」
マクセンス王が折れた。イグナツィオ大使はアリステラ姫との対面を取り付けた。だが、それはひどく警戒された方法だった。
南国臨時特務大使イグナツィオは、隠居屋敷の柵の外から、窓にちらりと姿をみせたアリステラ姫を遠目に拝むだけだったのだ。
一年目はそうだった。二年目も。三年目にして、ようやくイグナツィオは直接アリステラ姫と対面できる運びとなった。
「アリステラ姫」
年若い姫の前に、貴公子イグナツィオは現れた。
「北の王は、姫を見棄てたわけではありません。それどころか、氷の国以外の国々もマクセンス王の王位簒奪と姫への仕打ちについては、快くおもってはおりません」
イグナツィオは姫を励ました。
「いずれ北の国に戻れる日がやってきます。それまでお心を強くお持ちになって下さい」
敵地にひとり残された姫の眼には、イグナツィオだけが頼りと映ったことだろう。
「アリステラ姫。お約束いたします。必ずわたしはまた貴女に逢いに参ります」
イグナツィオはアリステラ姫にそう云い残し、そして本当にそうした。半年後イグナツィオは再び化石の国にやって来ると、前回とまったく同じ調子でアリステラ姫との面会をマクセンス王に願い出た。以来、年に数度、隠居屋敷は南国からの大使を迎え入れてきたのだった。
あれはいつ頃のことだったか。
「アリステラ姫のお心を支えているのは、恋人の存在なのよ」
隠居屋敷の侍女たちがそんなことを、こっそり俺に教えてくれたのだ。それをきいた俺は心底びっくりした。厳重に監視兵に囲まれたこの屋敷暮らしの何処にそんな男が入りこむ隙があるというのだろう。
「外にいる兵士の誰かですか」
「莫迦ね、違うわよ」
それ以上のことは誰も教えてはくれなかった。北の国と化石の国の、両国間の思惑の犠牲となったアリステラさまは、この閉ざされた屋敷の中で来客を時折迎えるほかは、ひっそりと暮らされている。女としてもっとも美しい時期を虚しく屋敷の中で尼僧のようにして過ごされている。秘密の恋人の存在だけがアリステラさまの支えだというのならば、俺はもちろん協力したい。しかし、それは誰なのだろう。
長年の疑問は、書簡筒を片手でくるくる回しているカルティウスシア姫の口からあっさりと明かされた。
「わたしは南の国にいる間、イグナツィオからずっとアリステラ姫の話をきかされていた」
人質の北の国の姫と、霊視王の亡命を受け入れた南の国の大貴族。いろんな可能性の中から、最高難易度の組み合わせ。
俺はふるえ上がった。
「このことは、母君には」
「母上ももちろん。彼らを応援したいと仰せだった。化石の国に帰ることになったわたしは、書簡筒の話をイグナツィオに持ちかけた。イグナツィオはわたしを信じて、アリステラ姫への手紙をこうして託してくれた。わたしはお二人の仲を取り持って差し上げたい。それだけではなく、出来ればアリステラさまを南の国に逃がして差し上げたい。スカイ、協力して」
無理。辛うじて俺はその言葉を呑み込んだ。
森の中の泉に風が波紋を刻んでいる。ふるふると俺は首を振りながら、駄目もとで云ってみた。
「ことが露見したら俺は牢屋送りの上に死罪です」
「その時はわたしもスカイと一緒に牢に入るから」
結局、手紙を押し付けられた。
カルティウスシア姫と俺の手を経て届けられた南の国の永代名誉貴族イグナツィオ・リュ・ゼデミネンからの手紙。それを受け取ったアリステラ姫は二度、三度と、熱意をこめて読んでいた。いつから二人の間に愛が芽生えたのかは分からないが、言葉よりも何よりも、アリステラさまのその様子が雄弁に何かをもの語っていた。
「本当にこれからその方法で、手紙を送ることが出来るのですか」
「はい」
アリステラさまに俺は頷くしかなった。
今まで俺がちっともイグナツィオの存在に気づかなかったのには理由がある。南国大使であろうと誰であろうと、隠居屋敷に客が来る日は、使用人はすべてその棟から遠ざけられてしまうのだ。表向きには誰ひとり通してはおりませんよという恰好をつくりながら、極秘のうちに客が来る。その対面時間はひじょうに短く、来たと思ったら帰るという調子だった。イグナツィオも例外ではなく、監視役つきの面会の場で、アリステラ姫の生存を確認するだけ。本当にそれだけの時間。
遠い南の国からイグナツィオはアリステラ姫に逢いにくる。その限られた僅かな時間をつかって、二人は少しずつ愛を育んできたのだろう。
日を置かずして、俺はマクセンス王から呼び出された。きっと手紙のことが王にばれたのだ。俺は身辺整理をしてから、死罪を覚悟して丘の上のお城に向かった。
三十代に入ったマクセンス王は髭をたくわえていた。王を間近にすると毎回緊張してしまう。何しろ実の父親を追放し、お家騒動に乗じて攻め寄ってきた西の海洋大国と東の騎馬民族を蹴散らし、さらには頻発していた領民一揆を即位直後から武力でもって一気に鎮圧した剛の者なのだ。
「父上がいつまでも
とばかりにその一揆討伐は苛烈を極め、一揆の加担者を捕らえてはマクセンス王は片端から処刑した。そして賊の遺体を小舟に乗せて河から海に送り出した。
「海岸に投げ棄てて海鳥の餌にせよ」
それにより、国土を流れる河沿いに暮らす領民たちは小舟に積み上げられた死体を次々と眼にすることになった。新王の処罰の厳しさに慄いた領民がその時にマクセンス王につけた綽名が『苛烈王』。ゆえに、王から直々にお言葉があると告げられた俺は、河を流れていく俺の死体を想い浮かべながら隠居屋敷を後にしたというわけだ。
しかしマクセンス王の用は別件だった。
「仰せのとおり、カルティウスシア姫の従者になります」
「条件つきだと、生意気な。だがよかろう」
王座からマクセンス王は俺に鷹のような眼光を飛ばした。
「隠居屋敷と掛け持ちするがよい。お前の役目はただ一つだ、スカイ」
その場でマクセンス王は俺に剣をくれた。下賜された剣はもちろん、俺の護身の為ではない。
「命を賭してカルティウスシア姫を護るのだ」
「はい」
「姫に何かあったらお前は死刑だ」
「はい」
「それから、カルティウスシアの男言葉と男装をやめさせろ」
はい。下を向いたまま俺はやけくそ気味に返答した。
以上が、一年前のことだ。
それからの日々、俺は隠居屋敷と城を往復しながら、ザジとコロンバノに従者の仕事を教わり、剣術を正式に学んだ。
「本気にならねば上達しませんぞ」
剣術師範は防具を極限まで減らしたので、ほぼ毎日のように俺の防衣は師範によって穴だらけにされた。閑があれば屋敷の監視兵に剣術を習ってきた俺もそこそこ腕は立つのだが、師範には遠く及ばず、自尊心ごと毎日ぼろぼろにされた。
俺はカルティウスシア姫の再三の要望に応えて、二人きりの時には姫のことをカティアと呼ぶようになった。
「昔のようにそう呼んで」
カティアはそう云うのだ。きっと誰かと俺を間違えているのだ。しかし長いあいだ国を離れていた姫が熱心にそう云うのだから、しばらくはそうしてやることにした。
「カティアさま」
「付いてきて、スカイ」
剣術の練習で怪我をするよりも、カティアと一緒にいることで怪我をする方がはるかに多かった。カティアにお供しろと云われたらそうしなければならないのだが、何しろあちらは男の子のように活発で、そして従者になりたての俺は、四方八方に神経を張りつめている。前方からやってくる人影や、なんでもない小石、飛び立つ鳥の影にもぴりぴりしているうちに、俺の方が落ちたり転んだりした。
以上で回想を終えるが、それでこの夜も、湖に面した離宮の、離れの宿舎の屋根の上から、濡れた落ち葉を踏んで落っこちたというわけだ。
「この手につかまって、スカイ」
離宮は二日月湖の突端に建っている。アリステラ姫のいる隠居屋敷とはちょうど端と端の位置関係だ。かなり距離がある上に、湖は森を挟んで弓型に曲がっているので、互いの建物はまったく見えない。
離宮に行くには森を抜けるか、または湖に漕ぎ出す。カティアは舟を選んだ。俺が舟を漕げると云ったからだ。
たまに赦されるアリステラさまの遠出の際、舟で二日月湖をゆっくり一周して戻ってくることがある。俺は自ら申し出て舟の漕ぎ方を習得した。せっかく外に出ることが叶うというのに、兵士に舟を漕がせるのでは無粋というものだ。とはいえ、アリステラさまを乗せて漕ぐ俺の舟の左右には、武装した監視兵の舟がいるのだが。
「離宮に前泊することになった」
「そうですか」
「スカイ、舟を出して」
離宮に到着したのは夕方だった。今夜は早くお休み下さいとカティアを侍女のラターシャの手にあずけ、厨房と繋がっている使用人用の食堂で夕食を済ませた後、従者にあてがわれている別館に引き上げた俺は、窓の外に現れたカティアの姿に腰を抜かすほど愕いた。
カティアは壁面の出っ張りや壁に伝う蔓を使って俺の部屋の窓までたどり着いていた。
「三階ですよ、カティアさま」
「月が照っていて外はとても明るい。散歩に行こう、スカイ」
俺はそのうち本当に死ぬかもしれない。屋根の上に貼り付いた落ち葉に足をとられて離宮の屋根の端から片腕一本でぶら下がった時、もう何度目か分からぬそんなことを考えた。誰もが羨むお姫さま付きの従者とは、みんなこんな目に遭っているのだろうか。絶対ちがうだろ。
屋根の上からは、離宮を囲む篝火が地上に散った太陽の破片のように点々と見渡せる。マクセンス王は春生まれのカルティウスシア姫の十六歳の誕生日を、城ではなく、二日月湖畔のこの離宮で祝うことにしたのだ。
マクセンス王は云った。
「去年は先王の死去をうけて何もしてやれなかった。その分、今年は贅沢に催す。わが妹よ、祝いに何が欲しい」
問われたカティアは願い出た。
「アリステラ姫の解放を。さもなくば、せめてわたしの誕生日祝いの宴に、アリステラ姫もご臨席賜りたく」
それはその場で却下された。しかしカティアは諦めなかった。
「アリステラ姫がこのままでいいとは、兄上もお考えではないはずです。お気の毒なアリステラさま。わたしが帰国のご挨拶に伺った時、わたしの姿を見たアリステラ姫は眼に涙を浮かべて、もうそんなに月日が経ったのですねと仰いました」
「ならぬ」
「帰り際、アリステラ姫は、わたくしの代わりにあなたは小鳥となって外の世界をたくさん飛び回って下さいねとやさしく仰いました」
「ならぬものは、ならぬ」
もっと大それたことを水面下で妹が考えていると知ったら、さしものマクセンス王も愕くことだろう。だてに俺も一年間、カティアに付き合ってはいないのだ。いつかカティアがアリステラ姫の脱走計画でも立て始めた時には、俺が身体をはってでも妨害しなければならない。
銀色の月が美しかった。星の海の濃淡を屋根から見上げていると、まるで湖底に沈んだ街から空を見ているような気がしてくる。
俺はふと、あることに想い至った。祝宴の開かれる明日では、もう二人きりになれる時間はないかもしれない。
「カティアさま」
「なに」
「十六歳の誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。スカイ」
夜風の中で、にこりとカティアは微笑んだ。この笑顔が俺と誰かを間違えているのだとしたら。
その時だ。衛兵! 衛兵! 夜の離宮が一斉に目覚めた。
》第二章
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