第一章:白馬の王女さま
Ⅰ・一年前の春(上)
一年前の早春。森の中の街道を歩いていた俺は、脇手の樹のかげから現れた少年に声をかけられた。
「やあ」
俺よりも年下の少年だった。少年の背後には、少年の姉らしき娘がひとり。二人とも見慣れない顔だった。
俺は無視した。旅芸人の子どもは馴れ馴れしい上に少し眼を離すと物を盗む。その朝、俺が胸に抱えていた籠の中には、農家からもらってきた朝食用の卵が入っていて、産みたてほやほやのこの卵を、俺はお屋敷に持ち帰る途中だった。
昨夜の大雨が嘘のように上がり、空には虹が出ている朝だった。森を吹き抜ける風には咲き始めた春の花の香りがして、枝葉から落ちる雨粒がきらきらと美しい。
少年と姉は俺の横に並んで歩き始めた。俺は横目で彼らを軽く睨んだ。
「何か用か」
「方向が同じだ」
見知らぬ少年はさらりと応えた。森の中のこの道は旧街道にあたり、現在はあまり使われていない。扱いとしては古道となるこの道を使う者はごく限られる。森閑としたこの道の先にいったい何の用があるというのだろう。
古いだけのことはあり、街道に敷き詰めた石の隙間からは雑草がのぞき、よく見れば道全体に傾きや破損がある。街道の舗装工事は森を挟んだ反対側の新街道がいつも優先で、こちらは後回しになるせいだ。
卵を入れた籠を抱えた俺は顎を前方に向け、親切に教えてやった。
「この先はお城だぞ」
「知ってる」少年は応えた。
「王の噂を知らないのか」
「知ってる」
「迂闊に近寄れば、ひどい目に遭うぞ。衛兵が槍の先でお前たちを追い払うことになるぞ」
「では、君は」
少年から質問を返された。
「君は何の用で、この道にいるの」
声変わりもしていないくせに、随分と気取った喋り方だった。
「俺は城に行くんじゃない」
片手で俺はその方向を指し示した。
「城ではなく、俺は丘の麓のお屋敷に仕えているんだ」
少し控えめに俺はそう云った。そのお屋敷で働いていることは、不名誉ではないが、名誉なことでもないからだ。
大雨の名残りで街道の一面に鏡をばら撒いたような水たまりがあった。その水たまりが朝の空を鮮やかに映し出すせいで、空の上を歩いているような錯覚がしてきた頃、俺はふたたび歩みを停めた。
「変だな」
俺はいぶかった。実は、少年と少年の姉らしき娘の後ろに、少し距離をあけて、男がいるのだ。馬を連れている男だ。なぜ男は、鞍から降りて馬を引いているのだろう。馬の脚が傷んでいるようにもみえない。
何度か街道の脇に寄って後ろの男と馬を先に通してやろうとしたのだが、せっかく道を空けてやっても、こちらが停まると男と馬も停まり、こちらが歩き始めると向こうも歩くという具合で、一定の距離をとったままずっと附いてくるのだ。
「まるで尾行だ。こんな朝っぱらから、人攫いでもあるまいし」
「気をつけて」
少年の忠告は間に合わず、後ろばかりを気にしていた俺は水たまりの中に靴の先を突っ込んでしまった。足先がみるみるうちに冷たく湿る。
俺はそれを後ろの男のせいにした。何をやっているんだよ、もう。
「お先にどうぞ」
不愉快をこめた大きな身振りで、再度、先に行けと促してやった。しかし数歩ほど離れて馬の轡を取っている男は、やはり俺たちを追い越すことはなく、俺を見返すその顔は乾いた粘土のように無表情のままだった。
「あの男、城に向かう使者でもなさそうだ」
悔しまぎれに物知りなところを少年に披露した。
「腰に剣を佩いている。急ぎの伝令なら馬に乗っているし、外国からの使者なら旗を立てて、城の正面から訪れるものだ」
俺の言葉に少年は薄っすらと微笑んだ。
丘の上に建つ城の姿が前方に大きくなってきた。街道はそこから二股に分かれている。俺が向かうのは左側の小径だ。少年とその姉はまだ俺から離れようとはしない。
「こちらの先は行き止まりだ。湖しかないぞ」
教えてやると、
「お屋敷に仕えているんじゃなかったの」少年はふふっと笑った。
俺はむっとして、
「湖のほとりにお屋敷があるのさ」と云い返した。それは嘘ではない。さらに俺は、
「そのお屋敷とは、北の国の姫君アリステラ姫がいらっしゃるお屋敷だ」と威厳を取り繕って云ってやった。
俺は「北の国の姫君」の部分にとくに力を篭めたのだが、それでも少年はまるで愕いた風もなく、「へえ」と軽く流した。
小川に沿って色鮮やかな花が咲いている。いつまで彼らは附いてくるつもりだろう。異国の姫君の名に動じた様子もないし、馬を連れた男まで、分岐点からこちらの小径に入ってくるではないか。
少年は足許の草を蹴って朝露を散らして遊んでいる。少年のすぐ後ろにいる娘は相変わらずおし黙っている。こちらは、ひとことも最初から口を開かない。
「ほら。あれがお屋敷だ」
木立の向こうに屋敷が見えてくるにつれて俺は次第に焦りを覚えてきた。
「警護の兵がいるのが見えるだろう。これ以上附いてきても、いいことは何もないぞ。よそ者は通してもらえないし、うろうろしていたら兵隊に捕まるだけだぞ。もし腹が減っているのなら街の市場に行くといい。運が良ければ売れ残りを投げてくれる」
少年が不意に俺の前に回ってきた。整ったきれいなその顔で少年は俺の顔をじっと見た。どぎまぎしながら、俺は籠の中を探り、卵を取り出した。
「これをやるからもう行けよ。じゃあ、ここで」
その時、遅まきながらようやく俺は、この少年が男の子ではなく女の子だということに気がついた。小枝のような体つきと口の利き方、質素な男物の服装から少年だと想い込んでいたが、これは女の子だ。そして流れ者などではない。肩にかかる髪は丁寧に梳かされ、俺が差し出した卵を受け取った手はすべすべで、指先の爪まで磨かれている。労働とは無縁の暮らしと、丁寧に世話を受けて暮らしていることがうかがえた。
「卵か」
男装の少女は、俺が与えた卵を朝空に向かって投げ上げた。
「散歩をして、お腹が空いた」
落ちてくる卵を両手で上手に受け止める。少女は後ろの連れに向かって云った。
「朝食は卵料理がいい」
命令し慣れた口調だった。俺をその場において男装の少女はくるりと踵を返した。後ろにいた娘と馬を連れた男は揃って頭を垂れて、少女の行く手を大きく空けた。
》Ⅱ
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