俺の記憶にないお姫さまの話
朝吹
幕開け
星空
この手につかまって、スカイ。
カティアが俺に手を伸ばす。でも、これはおかしい。そもそも俺が大樹の枝だの崖っぷちだのから、両脚をばたつかせてぶら下がる羽目になったのは、すべてカティアのせいなのだ。俺のカルティウスシア。
「頑張って、スカイ」
そして今も俺は、夜の湖畔に面した離宮の、従者の宿舎にあてられている別館の屋根の、その端から片手でぶら下がっている。はるか下方の地面が揺れ動いてみえるのは、そこが湖だからだ。
「しっかり。スカイ」
カティアの声が星空から届く。湖は蒼く、鏡のような湖面が星々のかがやく夜空を映し出し、繋がった天地はまるで財宝を護って眠る龍の鍾乳洞にいるようだ。
雨樋に手をかけ、足がかりを見出す。壁面にある何かの守護像の頭に足先をかけて身体を持ち上げる。根性で屋根に這い上がってやった。
「よくやったわ」
「ありがとうございます。カティアさま」
落ちたのはお前のせいだぞ。
とは俺は云わなかった。俺は従者で、カルティウスシアは姫君だ。
屋根に両手両膝をついて安堵の息を吐き終えた俺は、強がってカティアに自慢してみせた。
「こんなこともあろうかと、城の壁を使って自力で登る練習をしてきました」
練習といっても十回のうち六回は滑り落ちているし、手足をかけるちょうどいい出っ張りや窪みがないと所詮は無理なことではあるが、カティアと一緒にいるといろんな意味で不測の事態にそなえた対応能力が必要となるのだ。おかげで俺は本格的な剣術まで習練している。
「剣術を学ぶ理由をきこうか、スカイ」
剣術師範に問われた俺は、悲壮感たっぷりに応えたものだ。
カルティウスシア姫と、アリステラ姫をお護りする為です、先生。
カルティウスシア姫は、俺の国の王女だ。いま俺の前にいる男装の娘がそれだ。アリステラ姫は生まれた国が違う。アリステラさまについては後述する。
丘の上に城があり、丘の四方は、街、森、山、湖。俺たちが暮らす『化石の国』の説明としてはそれでこと足りる。いちおうだが、化石の国には海もある。付け足すくらいなのだから、申し訳程度の海だ。化石の国の領土を枝付きの果実に喩えるなら、枝の部分が河で、その先端が海になる。
周辺には東西南北に大国があり、大昔から領土争いをしているが、化石の国は要衝となるには少し不便なためか、たまに侵攻こそ受けても征服はされず、各国の緩衝の役割を果たして奇跡的な独立を保っている。化石の国。この通称の由来は、歴史がそれだけ長いのと、内陸なのに海の生物の骨を刻んだ変わった石がよく採れるからだそうだ。
「お城に勉強を教えにくる学者が云うには、はるか大昔は、城のある丘のあたりまで入り江で海だったそうよ」
「とても信じられません」
「まったくよね」
カティアと俺はその頃の海の名残りだという湖の水を手に掬って舐めてみたことがあるが、海のようには塩辛くなかった。
一年経って俺の剣術の腕前は師範いわくまあまあの域まで上達し、その分だけ生傷が増え、そしてカティアは相変わらず俺のことを犬を呼ぶようにして呼んでいる。
カティアは屋根の上を見廻した。
「どうやら濡れた落ち葉に足を滑らせたようね」
「カティアさま、戻りましょう」
屋根から落ちかけた俺は一刻もはやく退散したかった。
「この落ち葉がもし、カティアさまを害せんとする何者かの仕込みであったら、いかがします」
俺はわざとらしく屋根瓦のところどころに貼り付いた濡れ落ち葉を指し示した。昨夜の大嵐で離宮を取り囲む森から飛んできたまだ若い葉だ。この濡れた葉を踏んで俺は屋根から転がり落ちたのだ。
「仮にこの離宮にわたしを殺めようとする者が潜んでいたとしても、さすがに別館の屋根にわたしが登ることまでは想定しないでしょう」
カティアは両脚を開いて腰に手をあてて屋根の上に立っている。
「わたしを殺すつもりなら、舟に穴を開けるなり寝所に毒蛇をしのばせるなり、幾らでも出来るはずよ」
「しかしですね、カティアさま」
俺は抗議した。
「こんな処にいることを誰かに見つかったら問題になります」
「誰の問題になるの」
「主に俺です。従者の俺です」
カティアに何かあった時に王から怒られるのは俺なのだ。お前も知っているとおり、いつもそうだろ。
「さあ、屋根から降りましょう」
月が明るいとはいえ、夜で、屋根の上だ。ついでに二人きり。
「カティアさま」
「夜景を見て、スカイ」
俺の言葉をきいているのかいないのか、カティアは指先を伸ばした。
「湖面に銀河が映っている。どちらの夜空がきれいかしら」
だからといって屋根に登らなくてもいいだろう。俺の気もしらないで、カティアは風に吹かれながら夜の湖を眺めおろしている。白蝶貝に彫られたような、ちまちまと整った横顔。俺のカルティウスシア。
屋根から落ちるだけではない。カティアといるせいで俺はこの一年というもの、何かと酷い目に遭っている。カティアは城の中でおとなしく刺繍や読書をしているような姫ではない上に、男装を好み、馬を乗り回して少年のように活発に振舞うのだ。カルティウスシア姫は異国で男の子として育てられた。
「その恰好は今日限りにしませんか。かねてより云われているではありませんか。傍目にはまるで従者が二人いるようだと」
「兄上やスカイがうるさいから、なんとか言葉遣いだけは、一年かけて女言葉に寄せたでしょう。これでも頑張ったのよ」
「気がつけば弓矢を持ち出して樹の上の実を射ているではないですか」
「スカイ」
少年が犬に呼び掛けるような調子だった。親しみを込めてはいるが異性へのそれではない。いつもそうだ。カティアの顔がとても近くなる。
「スカイはわたしがこの姿でいることが厭なの」
「俺は平気ですよ。お似合いです」
「二人きりなのだから、カティアと」
「カティアさま」
カティアが俺の手を両手で握った。相変わらず、少年の仕草で。
星空の下、屋根の上で姫君と二人きり。でも俺はまるで飼い犬のような立ち位置で、姫といえば男装だ。
何故こんなことになってしまったのか、それにはけっこうな因縁があるのだ。まずは一年前の、雪解け水が小川に流れていた早春の日に戻るとしよう。あの日も嵐の翌日だった。
「やあ」
森の中の街道を歩いている俺に、見知らぬ少年が声を掛けてきたのだ。
》第一章
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