第30話

 夜の闇に紛れて、ヒースは東の塔の下にいた。


 メモなんかじゃだめだ。シュイに会って、本心を確かめる。


 塔は東棟より連絡通路が繋がっているが、当然警備が厳しく忍び込むのは不可能だった。だとしたら直接外からいくしかない。


 地上から塔を見上げ、高さを目で測る。当然足場などはなく、落ちたらただではすまない。ヒースはロープの先に石を巻きつけると、解けないか何度か引っ張って確かめた。ロープをひゅんひゅんと回すと、空に向かって一気に放つ。ロープの先についた石が窓の手すりに引っかかり、ロープがぴんと張った。何度かロープを引っ張り、解けないか確かめる。これは村にいたとき、足場がないような高い木に登るときに使った技だ。


 よしっ、大丈夫だ。


 深呼吸し、ロープを命綱に器用に塔の壁面を登っていく。村の子どもたちはたいてい木登りが得意だったが、その中でもヒースは群を抜いていた。もともと身体能力に優れていたのだろう、誰よりも上手に高い木に登ることができた。だが木登りとは違って、塔の壁は勝手が違った。しかも夕方に降った雨のせいで足場が悪く、滑りやすい。


 バルコニーの手すりにリボンが結ばれている。それはヒースのメモへの返信に、シュイが寄越したリボンだった。それが目印のようにひらひらと風にはためいている。


 あそこにシュイがいると思った瞬間、油断したのだろう、ヒースは足を滑らせた。身体がふわりと宙に浮き、ヒースはとっさにロープを強くつかんだ。


「……くっ!」


 ロープがぴんと張り、塔の壁面で宙づりになる。誰かが近づく気配がしたのはそのときだ。見回りの兵士だ。ヒースは息を殺したまま、その場にじっと固まる。


「どうした?」

「いや、いま何か物音が聞こえなかったか?」

「何も聞こえなかったぞ。お前の気のせいじゃないか?」

「そうかなあ……」


 声はヒースのいるすぐ下から聞こえた。万が一見つかったらおしまいだ。


 明かりが上空に向けられた。兵士が照らした明かりはヒースのすぐ横を通り過ぎる。ヒースの額に冷や汗が滲んだ。


「ほら、誰もいやしないだろ。いくぞ」


 明かりが消え、あたりは再び暗くなった。やがて兵士の気配が完全になくなると、ヒースは詰めていた息をほっと吐いた。


 危なかった。気をつけないと……。


 再びロープを登り、バルコニーに手をかけると、ヒースはひらりと身を踊らせた。物陰に潜み、慎重に中のようすを窺う。だが、部屋の中にいるシュイを見つけて、ヒースはとっさに声を上げそうになった。


 シュイ……!


 シュイは一人ではなかった。傍にいる男には見覚えがある。フレデリックだ。シュイを村まで迎えにきて、ヒースの村を滅ぼした男。いまはシュイの専属護衛。


 フレデリックがシュイに何かを話しかけているが、会話の中身までは聞こえてこない。ヒースは身を潜めたまま、いったん出直したほうがいいか迷った。いま不用意に見つかりでもしたら、シュイを救い出すことはできなくなる。だけどずっと探していた幼なじみがすぐ目の前にいて、ヒースはその場から離れる気になれなかった。そのときフレデリックがドアから出ていき、部屋にはシュイ一人になった。それまで冷たい氷のような顔で立っていたシュイは、疲れたようすでベッドにすとんと腰を下ろした。ヒースは窓に手をかけると、暖かな室内へと足を踏み入れた。


「シュイ」


 ヒースに気がついたシュイが、はっとしたように息を呑む。


「ヒース……?」


 懐かしいその声を耳にした瞬間、ヒースは幼なじみの少年を抱きしめていた。


「シュイ。無事でよかった……!」


 別れるまでのシュイの身長は、ほとんどヒースと同じくらいだった。それがいまはシュイの顔はヒースの見下ろす位置にある。


 冬の空のような瞳は驚愕のためか、大きく見開かれている。その手がヒースの存在を確かめるように、おそるおそる頬に触れた。それはヒースがよく知るシュイの姿だった。再会してから何度か見かけた、よそよそしい石さまの姿ではなくて。


 ヒースは身体を離すと、まっすぐにシュイを見た。


「シュイ。お前に伝えなきゃいけないことがある。お前が村を出た後、俺たちの村は……」


 その先の言葉が続けられず、ヒースは迷うように瞳を泳がせる。だけど、どうしても伝えなければいけない。ぐっと唇を噛みしめ、再び口を開こうとしたヒースの口に、シュイの手が触れた。驚くヒースの前で、シュイは微かに首を振った。その瞳には深い悲しみの色があった。


 シュイ……? お前もしかして知って……?


 その瞬間、ぐっとこみ上げるものがあった。ヒースはシュイの腕をつかむと、まっすぐにシュイの顔を見た。


「シュイ。一緒に逃げよう。大丈夫だ、シュイのことは何があっても俺が守る」


 石さまが逃げたことがわかれば、すぐに追っ手はかかるだろう。だけどヒースはもう二度とシュイを置いていくつもりはなかった。あの夜、王都へいきたくないというシュイの本心に気づいていながら、その手を離してしまったことをずっと後悔し続けていた。


 シュイはヒースの手を離すと、静かに頭を振った。


「ヒースと一緒にはいけない。おれのことは忘れてほしい」

「シュイ……? お前何言って……?」


 シュイに言われた言葉の意味が理解できずに、ヒースは目を見開く。そんなヒースを、揺らぐことのないシュイの眼差しがまっすぐに見つめ返していた。


「いって。そして二度とこないで。正直、ヒースにここにいられると迷惑なんだ」

「シュイ……?」


 いったい何を言われているのかわからず、ヒースは呆然と立ち尽くす。シュイは物分かりの悪い子どもを相手にするような困った表情を浮かべた。


「王都へくるまでおれは誰に捨てられたのかもわからないただの役立たずで、人々に疎まれないよう目立たず生きてきた。だけどいまは違う。おれは石さまとして人々に敬われ、何不自由ない生活を送っている」


 ほら、見て、とシュイが豪華な調度に彩られた室内を示す。


「肌ざわりのいい衣装や、山のような食事。あのころには想像もできなかったような生活だ。ヒース、おれはね、あのとき村を出てよかったと思っているんだよ」


 シュイの言葉を理解した途端、ヒースは頬を叩かれたように愕然となった。


「……それはお前の本心からの言葉なのか?」


 ヒースの中でそんなこと嘘だ、と心が叫ぶ。シュイは自分に嘘を言っている。だが、そんなヒースの気持ちを見透かしたように、シュイは穏やかな笑みを浮かべた。


「そうだよ。ヒースが知るおれはどこにもいない」


 シュイがヒースから一歩離れるように後ろに下がった。


「ヒースとアズールにもう一度会えてよかった。だけど今回が最後だ。次にきたら、そのときは衛兵を呼ぶ」


 もういって、というシュイの言葉にヒースはがっくりと肩を落とす。窓の方に向かってヒースがいこうとしたそのときだ。ヒースはシュイの指先が微かに震えていることに気づいた。瞬間、弾けるように、違うという思いがヒースの胸にあふれる。それはシュイの本心などではない……!


「シュイ、聞いてくれ。お前がどうしてそんな嘘をつくのか俺にはわからない。だけどどうか信じてほしい。俺はもうお前一人にすべてを背負わせたくない。一緒に逃げよう、シュイ。石さまになんかならなくていいんだ……!」


 透明な膜を張ったシュイの水色の瞳が、ヒースの言葉に迷うように揺れた。シュイが何かを告げようとしたときだ。突然扉が開き、フレデリックが部屋の中に入ってきた。


「何者だ! 石さま、ご無事ですか!? 衛兵は何をしている……? 誰か……! 石さまの部屋に不審者だ!」


 白銀にきらめく剣をフレデリックが抜いた瞬間、ヒースはとっさに自分の背にシュイを庇っていた。黒曜石のナイフを取り出し、相手との距離を測る。次の瞬間、びりびりとした殺気と共に、フレデリックがヒースに向かってきた。


「……っ!」


 フレデリックの剣を、ヒースはやっとのことで受け止めた。さっきロープが擦れてできた傷が痛み、ヒースは顔をしかめる。その間にも、フレデリックはヒースの元からシュイを取り戻そうとする。シュイを背中に庇いながら、ヒースは次第に追い詰められ、じりじりと後退していく。ヒースの額から冷めたい汗が伝い落ちた。


 だめだ、もともと腕の違いがある上、シュイを庇ったままでは満足に戦うこともできない。どうする――?

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