寒雨と老爺
きこりぃぬ・こまき
寒雨と老爺
既読の二文字がつかないメッセージを眺めて溜め息を吐く。
メッセージを送って30分は経っているのに既読すらつかないとはどういうことか。そもそも、待ち合わせ時間から1時間過ぎている。遅刻するならするでメッセージの1つや2ついれてほしいといつも言っているのに。
便りのない待ち人に彼女は最初こそ何かあったのではないかと心配していたが、次第に苛立ちへと変わっていった。
「こんなに待つって分かっていたら、お店に入っていたのに」
冷え切った頬を温めるようにマフラーに顔を埋める。湿ったマフラーは冷たく、思っていたよりも温まらない。指先は赤く染まり、少しの刺激で痛みを感じる。厚手のタイツを履いてきたにも関わらず、寒さの影響で太腿に痒みが出てくる。こうなると分かっていたらアレルギーの薬を飲んできたのに。
待ち時間が長くなれば長くなるほど、彼を責めるようなことばかり浮かんでくる。記念日だからと気合いを入れて頭の天辺から足の爪先まで可愛くしてきたのに嫌な女になっていくようで気分が沈んでいく。
「最っ悪」
ぽつりと冷たい雫が頬を濡らす。見上げれば空は深い灰色に染まり、厚い雲が覆い尽くしていた。ぽつりぽつりとぱらついていた雨はあっという間に強くなる。冷たい雨が肌を打ち、足元を濡らしていく。
ぱらつき始めてすぐに走り出して近くにある公園の東屋に避難したが、地面を叩きつける雨に例外はない。彼女の顔にも雨粒が当たり、髪も濡れて重たくなる。ヘアセットもメイクもめちゃくちゃで、最低最悪な1日に視界がぼやけてくる。
「もう、帰ろうかな」
アプリを開いて雨雲の動向を確認する。ここから先、雨が
額に張り付いた前髪を耳にかけ、視界を確保する。どうせ濡れているのだから、これ以上どうなってもいい。どうせ見せる人は来ないのだからと、コンビニで傘を買うことをせず走って駅まで行くことにする。
「お嬢さん。雨はまだ降っているよ」
東屋から出ようとする寸前、
公園の東屋に駆け込んだとき、誰かがいることには気付いていた。まさか声をかけられるとは思っておらず、肩を跳ねる。無視をして離れようとしたが、それを見透かしたように老爺は再び口を開く。
「冬の雨は痛いほど冷たいのだからおやめなさい」
がさがさと掠れた声に落ち着かない。眉間に皺を寄せると、ベンチではなく車椅子に腰をかけた老爺がすぐ近くまで寄っていた。思っていたよりも近い距離に彼女は目を丸める。警戒心を隠さず、彼女は身構える。
彼女の反応に、鼻の位置に先端を合わせた透明のチューブを耳にかけた老爺は目を細める。気を悪くするわけでもなく、わずかに紫色を帯びた乾いた唇をゆっくりと動かし、言葉を吐き出す。
「そこでは風に吹かれた雨に濡れてしまうだろう。もう少し中へ入りなさい」
「走るので大丈夫です」
「そう言わず。びしょ濡れではないか、これで拭きなさい」
色褪せてほつれの見えるハンカチを渡される。ハンカチ程度でどうにかなるものだと思っているのだろうか。呆れながらも見覚えのあるハンカチを受け取る。本当は顔が濡れている方が煩わしいが、借りたハンカチをファンデーションで汚すわけにもいかないので手を拭う。
呼吸さえ医療機器の手助けがなければままならない老爺だというのに、声に圧があって足を止めてしまった。どうしたらよいのだろう。屋根を叩く鋭い雨音に耳を傾けながら彼女は考える。
「こんな雨の中、何をしていたんだね」
「……彼氏を待っていたんです」
「そうかそうか。なら、もう少し待ってあげなさい」
「今日は記念日だというのに1時間も遅刻しているんですよ。心配になってメッセージを送っても既読すらつけない」
「そうかそうか。その上雨が降ってきたとなれば帰りたくもなるね」
「本当に、最低最悪な日」
こんなはずじゃなかったのに。彼女は呟く。ぽつりと漏らした言葉は鋭い雨音に掻き消される。老爺の耳に届いたかは分からないが、届いていようが届いていなかろうがどうでもよかった。
寒さに体力を奪われているのか、眠気に襲われる。瞼が重たく目を開けているのも億劫になった。彼女は抗うことをせず目を瞑る。
「そうだねえ。それじゃあ、暇潰しに一つ。老人の懺悔を聞いてくれないかね」」
「昔話ばかりしていると退屈な人生になりすよ」
「はは。懐かしい。昔、結婚を申し込もうと思っていた子にも言われたよ。昔話にしがみつくのは今が昔よりも満たされていないからだって。それじゃあ未来も描けていないからやめなさいってね」
「へえ。その人と気が合いそう」
「そうかね。……そうだろうね」
しゃがれた笑い声がひび割れた音のように聞こえる。しかし、どうしてだか不快に思えない。その声には優しさに染まり、その顔は懐かしさに浸っているからだろうか。
その顔をどうにも無下に扱うことができず、彼女は溜め息を吐く。空は厚い雲で覆われて、ついに深い灰色が見えなくなった。これ以上雨が強くなったところで何もできない。諦めた彼女は少しだけならと答えた。
「もう何十年も前のことだ。その日はよく晴れていて、雨が降るなんて思いもしなかった。彼女と付き合って3年目となる記念日で、私はその子にプロポーズをしようと決めていた。前夜は大変だったよ。デートで着ていく服は決まらないし、緊張で眠れないし、寝坊をするし。慌てて身支度をして家を出れば肝心の指輪を忘れていてね。取りに戻ればスマホを忘れる。そのせいで遅刻をするって連絡を入れることもできなかった」
鋭い雨音の合間を縫って老爺の震えた声が彼女の耳まで届く。老爺が息を吐く度に白い息が割れた唇から漏れる。
一文一文丁寧に、その日のことを思い出すように、何度も深呼吸をして老爺は語る。
「前々から言われていたんだよ。怒らないから遅れるときは連絡してって。でも、私はそれがなかなかできなくてね。今思えば遅刻というミスを認められない小さなプライドと、なんだかんだで許してくれる彼女に甘えていたんだよ。そういうものが積もり積もって、あの日ついに限界がきたのだろう。待つのをやめて、家に帰ろうとしたのだろうな」
まさに今、彼女と同じ状況だ。経緯もほとんど同じである。
何度も遅刻して、その度に注意して、それでも改善されなくて。3年目の記念日である今日、彼は待ち合わせの時間に来なかった。連絡もない。メッセージを送っても既読すらつかない。特別な日にも関わらずこの態度。大切にされているとは思えない。蔑ろにされていると思った。
彼が好きだからこそ悲しくて。彼が好きだからこそ気持ちが伝わらないことが寂しくて。積もり積もったものが溢れて、待つことをやめようと思った。3年目だから結婚を視野に考えていたからこそ、今日という日ですら聞き入れてもらえないのならば、これから先も一緒にいる未来を描けないだろうと諦めることにした。
老爺に引き留められなければ彼女は帰っていた。
「私が待ち合わせ場所に到着したのは1時間半を過ぎた頃だった。今日のように肌を刺すような冷たい雨が降っていた。どこかで雨宿りをしている可能性に賭けて探した。そのとき、鋭い雨音の中で救急車のサイレンが響いた。こういうときの嫌な予感とは当たるものでね」
老爺は乾燥して硬い手の平で顔を覆う。短く切られた爪は割れており、皮膚が薄くて皺くちゃな手の甲には青紫色帯びた筋が浮かんでいる。小さな傷跡が無数に刻まれており、老爺の身に積もった苦労が形となっている。
顔を覆って天を仰ぐ。しばらくの間、老爺は口を開かなかった。彼女は続きを催促せず、沈黙を守る。
「彼女は交通事故に巻き込まれた。……即死、だったよ」
これは老爺の懺悔である。
愛する人の注意に耳を傾けず、小さなプライドを優先したこと。大切にしているつもりだったが、愛する人に伝わるように大切にしていなかったこと。
幸せにしたいと思った人を不幸にしてしまったこと。
償うことができない。許しを請うこともできない。歳月を経ても忘れることができない愛する人への懺悔である。
「時間を巻き戻したい。自分の命を差し出して彼女を助けたい。涙が枯れるほど泣いて、何度も何度も願って、今日までしぶとく生きてしまってね」
「きっと怒っているでしょうね」
「そう、だろうな」
「こんなに待ってやったのに、そんな土産話しかできないのかって」
彼女の言葉に老爺は目を見開く。雨に叩かれる公園をぼんやりと眺める彼女の横顔を見つめ、話の続きを待つ。
老爺の話は不気味だと思うくらい、彼女と状況が似ていた。だからこそ、老爺の愛する人の立場に立てた。昔話への考え方もほとんど同じで、それだけ気が合いそうな人であればきっとこう思うのではないか、と。彼女は老爺の話に対して感想を述べる。
「これは私だったらって話ですよ」
「ああ、聞かせてくれ。きみの話が聞きたい」
「待ち合わせ時間になっても来なくて、連絡一つ寄越さない。それはもう腹が立って、帰ろうとします。その途中で死んでしまったら……こんなことになるなら待てばよかったな。帰ったら別れ話のメッセージでも送ってやろうと思っていたのに、こんな状況で浮かぶくらい好きなんだ。最期にもう一度顔が見たかったな。そう思うかなって」
「何度注意しても聞き入れず、大事な日にも遅刻するダメな男なのにかい?」
「本当に最低ですよね。でも、それは彼の一面でしかなくて……いや、まあまあ致命的だけど。そんなところに腹が立つのに、それでも好きだなあって思う方が多いんです。そうじゃなきゃ3年も付き合えないし、そろそろ結婚かなあなんて考えないでしょう」
「そう、か。そういうものなのか」
「だから、私ならあの世で彼が来るのを待っています。別の人と結婚して幸せになっていたら、それはそれで腹が立ちますけどね。あんたが遅刻しなきゃこんなことにはって怒れてきますけど。でも、私が死んだという一点に留まって、後悔と謝罪ばかりの昔話される方が嫌です。もっとましな土産話を作ってからこっちに来いって突き返したくなります」
「……そうか。きみはそう思うのか」
彼女が答え終えたところで名前を呼ぶ声が聞こえてきた。声がする方を向けば、傘を差し駆け寄ってくる彼の姿
彼氏が走ってやってくる。
スマホを確認すると、待ち合わせ時間から1時間半経過していた。送ったメッセージには返信どころか既読すらない。けれど、彼は来た。
「待ち人は来たかね」
「ようやく」
「ならば良かった。彼は間に合ったんだね」
「私の話を聞いていましたか? あの男、大遅刻してます」
「いいや、間に合ったんだよ」
厚い雲の隙間から深い灰色の空が見え始める。雨の勢いは弱まり、鋭かった雨音と柔らかくなる。
間に合ったのだ。そう断言する老爺の声は力強く、そして鮮明に聞こえた。老爺は今にも泣きそうな顔をくしゃくしゃに歪めて、安心したように笑う。
どうしてそのような顔をするのだろうか。彼女は問いかけようとする。しかし、口を開く前に彼女は駆け寄ってきた彼に抱き締められる。
「ごめ、本当にごめん!」
「……遅刻するなら連絡をいれてっていつも言っているでしょう」
「……ごめん。忘れ物取りに帰ったら次はスマホを家に忘れて。本当にごめん、寒かったよな」
「忘れ物って……指輪とか?」
「え、なんで分かったの!? あ、ちが、そうじゃなくて」
「……」
彼の状況も老爺の話と同じだった。ここまでくると不気味である。なにせ、老爺の話だと彼女は帰り道に交通事故に巻き込まれて亡くなっている。
寒気がした。濡れた衣服に体温を奪われたものによるものではない。彼女は鳥肌のたった腕を擦って、狼狽える彼を見つめる。
駆け寄ってきたときから彼は泣きそうな顔をしていた。抱き締めた後、ひどく安心したように笑みを浮かべた。その笑みに見覚えがあった。つい先程、老爺が浮かべたものと同じだったのだ。
「……もういい、帰る」
「え、あ、待って」
「こんなびしょ濡れの状態じゃどこにも行けないでしょう。シャワー浴びて着替えたい」
「あ、うん、そういうことか! 俺、傘買ってきたから一緒に入ろう」
「ん。それじゃあ、私はそろそろ……あれ?」
「どうしたの」
「さっきまでここに……ううん、なんでもない。早く帰ろう」
傘を差していたのに肩がびっしょり濡れている。パンツの裾も色が濃くなっているし、靴も泥で汚れている。その姿から急いできたことを読み取り、彼女の怒りは萎んでいく。
帰る前に老爺に挨拶をしようと振り返ると、そこには誰もいない。あの身体では機敏な動きも取れないだろうし、濡れた地面にタイヤの跡もない。老爺どこに行ったのか。ぐるりと辺りを見渡すが、姿を見つけることはできなかった。
老爺を探すことを諦めた彼女は彼の腕を引っ張って公園の東屋から出る。
「交通事故でもあったのかな」
「そうなんだよ。どこかで雨宿りしていることに賭けて探してたら救急車のサイレンが聞こえてさ。嫌な予感がしてまじで焦った」
「そうなんだ。待たずに帰っていたら巻き込まれてた、か……も……」
道中、交通事故現場を見かける。パトカーも救急車も来ており、野次馬もそれなりにいた。彼の話を聞いて、彼女は視線を落とす。
思い出すのは老爺の懺悔。彼女と彼と、そして交通事故の状況は酷似していた。彼女は一点を見つめて、とある可能性を思い浮かべる。
「まさか、ね」
彼のポケットから顔を出しているまだ友人の間柄だった頃に彼女が彼へプレゼントしたハンカチ。それが老爺から借りた色褪せてほつれの見えるハンカチと同じものだと気付いて、彼女は目を瞑るのだった。
寒雨と老爺 きこりぃぬ・こまき @kikorynu
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